第3皇子による婚約破棄騒動の経緯とその顛末

十二領 海里

01. 創立150周年祭での婚約破棄騒動

「エミリア・ミュレーズ! お前との婚約破棄が決まった!」


 それは、関係者が予想していた中でも最悪の類のものが的中した瞬間であった。

 中央世界暦1655年8月、アズーリア帝国首都カエルレウムにある国立高等学校。

 その創立150周年を記念する式典の後の夜会で、秋からこの学校の5年生に進級する高等学校生にしてこの帝国の第3皇子でもあるジルド・カエルレウスが、突如このようなことを喚き出したのだ。

 周囲の出席者達は困惑し、名前を出されたミュレーズ公爵令嬢エミリアとその父フェルナンドも唖然あぜんとした。

 そうした困惑によって会場が静まり返るのを意に介した様子もなく、ジルドは続ける。


「お前は同じ学生であるロジーヌ・ペリエ嬢を平民であるからと差別し、陰湿な嫌がらせを行い、時には呼び出して直接面罵した! お前のような女は皇子たる俺の妻に相応しくない! よって、お前との婚約を破棄したのだ! そして――」


 そう言いながら、彼が歩んでいった先にはふわりとした金髪に琥珀こはく色の瞳が特徴的な可憐かれんな少女――ロジーヌ・ペリエが立っていた。その表情は今にも白目を剥いてしまいそうではあったが、やはりジルドは気にしない。


「ロジーヌ・ペリエ嬢! 俺は君と婚姻を結びたい! どうかこの手を取ってはもらえないだろうか!」


 舞台俳優もかくやと言わんばかりの大仰な身振りと声色で、ロジーヌの前にかしずき、右手を差し出した。政略結婚が圧倒的多数を占める貴族の世界では中々目にするものではないが、これは男性が女性に求婚する時によく見られる光景だ。ここで女性が手を取れば婚約が成立する……わけではないが、取り敢えず女性がそれに応じて求婚を受け入れたことになる。

 無論、そんなことはこの場に居る全員が知っているし、状況が状況でなければ皆が固唾を飲んで注目する理由も違っていただろう。

 して、ロジーヌは微動だにしなかった。

 10秒、20秒と時間が経っても全く返答がなく、流石に不安になったのかジルドが少しずつ視線を上げる。

 ロジーヌの隣に立っていた軍服姿の女、ヴィオレッタもゆっくりとロジーヌの顔をのぞき込んだ。


「……なんてこった。気絶してる……」


 ロジーヌは、直立不動のまま目を閉じ、意識を手放していた。

 これには流石のジルドも固まってしまった。

 ヴィオレッタがロジーヌの肩をそっと抱くと、力の抜けたロジーヌの身体は膝から崩れ落ちかけたので、彼女は慌てて横抱きに抱き上げる。


「お前は?」


 その様子を固まったまま眺めていたジルドは、どうやらヴィオレッタの存在に疑問を持ったらしく、立ち上がって彼女をじろりとにらんだ。


「恐れ多くも名乗らせていただきます。私はアンセルミ男爵家の娘、ヴィオレッタ・アンセルミと申します。今しがた殿下が求婚なさった、ロジーヌ・ペリエの姉にございます」

「お前がか?」


 ジルドの疑問はある意味当然ではあった。

 ヴィオレッタの容姿はロジーヌとは対照的な黒髪に釣り目、顔立ちも精悍せいかんな印象で、陸軍将校の軍服と腰にいた湾刀サーベルがそれを一層際立たせていた。何より左頬には傷跡もあり、それを化粧で隠そうともしていないことが見て取れることから、彼女自身がそれを誇っているようでもある。ロジーヌと同じところといえば琥珀色の瞳と、意外と小柄なことくらいか。

 そして何より、姓が違うどころか、平民の娘であるはずのロジーヌの姉でありながら、男爵令嬢であると名乗っている。

 つまり、姉である彼女だけが男爵家に養子として引き取られたか、もしくは――


「ロジーヌとは母親が違います故、姿は似ておりませんが」

「腹違いか」


 りんとしたたたずまいのヴィオレッタと、気を失ったまま彼女に抱かれるロジーヌの顔を見て、ジルドの表情がゆがむ。

 ロジーヌは平民を名乗っているが、実態としてはアンセルミ男爵家の庶子なのであろう。そしてこのヴィオレッタなる女は異母姉になるわけだ。アンセルミ姓を名乗らせないのは不義の子であるロジーヌを自分の家に入れたくないからに違いない。こうした社交の場等では取り繕っているようだが、家では一体どのような扱いを受けているのやら――と、そこまで想像したのだ。


「陸軍軍人のようだな?」

「はい。予備役少佐として第100師団第1001歩兵大隊指揮官を拝命しております」

「予備役か……ふん」


 ヴィオレッタの返事を聞いて、ジルドは鼻でわらった。

 アズーリア帝国軍で女性将兵は特に珍しくもないが、貴族出身の将校は自らの遍歴にはくをつける為くらいの理由で籍を置く者も多く、そうした者は大抵が後方の後方のような安全地帯での勤務ばかりしている。

 実際、3年前に停戦したアーテリア戦争でも貴族将校の戦死者はほとんど居なかったとジルドは聞いており、そうした貴族将校を惰弱者と軽蔑していた。

 この為、ヴィオレッタもそのクチだろうと考えたのである。顔の傷は事故か何かで、嫁のもらがないから入隊したに違いないとも想像した。

 一方、周囲の出席者達の中でヴィオレッタ・アンセルミの名を知っている者――特に先の戦争での実戦経験者と、現在彼女と同じように予備役に勤務している者達は戦慄した。

 ヴィオレッタ本人は貴族令嬢らしい愛想の良い微笑を浮かべているが、周囲の多くの者が最悪の事態を想像してしまったのだ。

 第100師団は主に戦争や紛争に参加して予備役入りした将兵が所属する即応予備訓練部隊であり、平時は演習の対抗部隊等を務め、有事の際には他師団に兵力を供給する為の師団である為、実際の戦場における部隊としての活躍は少ない師団だ。閲兵式への参加も少なく、精々大規模式典に参加することがあるくらいである。

 しかし基本的には予備役に入った実戦経験者が在籍している為、遂行能力は下手な常備部隊よりもはるかに高いとも言われている。ヴィオレッタもその一人だった。

 そんな彼女を鼻で嗤う皇子に、その場に居合わせた数人の予備役軍人は自分が侮辱されたも同然と考えた。彼らはいずれも実戦経験のある予備役なのだ。皇子の思うような貴族将校は寧ろ平時の常備軍人に多い。


「嫁の貰い手がないから軍隊に入ったのか? ロジーヌが男爵家に迎え入れられていないのもお前の嫉妬といったところか? それとも、お前の家は余程非道な人間の集まりか? ロジーヌのような愛らしい娘を迎え入れてやらないとは」

「お言葉ですが殿下」


 ジルドの言葉と、それに対するヴィオレッタの静かな声に、周囲の貴族達が息をんだ。

 彼女の顔からは先程までの微笑が消え、無表情になっている。この場に彼女の戦友は居ないが、もしも居たら口をそろえて「今近付くのはやめておけ」と言ったに違いない。

 先程からジルドが口にしていたのは、ヴィオレッタに対する侮辱と、アンセルミ家に対する侮辱だ。ヴィオレッタは前者までは笑顔で許容したが、後者についてはその表情をすっぽりと落とした。

 めかけの娘を迎え入れるか否かなどということは理由がどうあれ家庭の事情であり、皇族といえどもそこまで踏み込んで、ましてや娘に向かって元家主を侮辱する言葉を投げかけるのは許されるべき行為ではない。

 そしてその侮辱を受けた娘は、先の戦争で数多くの敵兵をほふり、数々の戦果を打ち立てた苛烈な軍人だ。しかも今はロジーヌを抱いていて両手が塞がっているとはいえ、腰には湾刀を佩いている。


「私は、私個人に対する侮辱は気にしないことを信条としております。そして、我が父が卑劣な男であったこともまた、当家の誰もが認める汚点であり、それを申し開く気はございません。しかし、この子がアンセルミ姓を名乗らないのはまた別の理由あってのことであり、それについて家と、我が兄弟姉妹に対するいわれなき侮辱は、アンセルミの娘としても私個人としても、許容し難いものにございますれば」


 ヴィオレッタがゆっくりと腰を落としていく。未だに意識の戻らないロジーヌを、これまたゆっくりと床に降ろしていく。

 実戦経験のある軍人はその意図に逸早く気付いた。今彼女が猛烈な殺気を放っていることと、それがとんでもない事件につながりかねないことにも。


「ア、アンセルミ少佐! 先に妹君の介抱をした方が良いのではないかな? 殿下も……流石に今のご発言は不適切と言わざるを得ませんぞ」


 近くに立っていた、生徒の父兄らしき軍服姿の侯爵が慌てて声を掛け、ヴィオレッタの動きが止まった。

 その段になって、漸くジルドも彼女のに思い至り、そして彼女の気迫が完全にのものであったことに気付き、冷や汗をかいて後退りした。

 後に彼女が大逆罪で裁かれることが確実でも、その前に傷付くのは彼自身なのだ。


「う、うむ、そうだな。ああ、すまない、アンセルミ嬢。お、俺の発言は不適切だった。謝罪する」

「……謝罪を受け入れます。この子の介抱の為、私達はこれで失礼いたします」


 結果としてそうなったことではあったが、それは一男爵令嬢にして一軍人が、帝国の第3皇子を恫喝どうかつした瞬間であった。

 ヴィオレッタはロジーヌを抱えたまま立ち上がり、一礼してクルリときびすを返すと会場の出入り口へと歩いていく。彼女より爵位も階級も高い者も、そうでない者も、誰もが後退り、その男爵令嬢に道を開けた。

 しかし扉をくぐる直前、ヴィオレッタはもう一度振り向いた。


「ああ、それと。婚姻の件については家に持ち帰り検討させていただきます。エミリア嬢との婚約破棄の件につきましては、当家は関知しませんので公爵家とお話し合いになられてください」


 よく通る声でそれだけ伝え、ヴィオレッタとロジーヌは退場した。エミリアとフェルナンドはそれに何か言うでもなく、ただその背中を見送っていた。

 そういえばエミリア・ミュレーズとの婚約破棄もあったな、と会場の多くの人間が思い出すと共に、彼女の「当家は関知しません」という言葉とそれに対するミュレーズ家側の面々の反応を見て、「もうこの婚約破棄を予期していて、ミュレーズ公爵家とは話し合いが済んでいるということか」と皆が解釈した。実際その通りであった。

 こうして後に残されたのは、膝の笑ったジルド皇子と、大逆罪の現場に居合わせずに済んで安堵あんどした参列者達、そして皇子によって特大の爆弾をこさえられて放置されたミュレーズ公爵親子である。


「殿下」


 静まり返った会場に、エミリアの美しい中高音域の声が響く。


「な、何だエミリア」

「婚約破棄の件、了承いたしますわ。慰謝料も必要ありません。ただ、一つだけ、をお許しくださいませ」

「何? バカな、慰謝料を支払うのはそっちで――」

「皇妃陛下からも既にお許しをいただいておりますの。失礼しますわね」


 エミリアは手袋を外しながらジルドに詰め寄ると、右手を振り上げ、間髪入れずに振り抜いた。

 乾いた音と共に、ジルドは一回転して尻餅をつく。

 突然の暴力に困惑し、頬に広がる痛みに表情を歪めながら見上げる彼を、彼女は全てを凍り付かせんばかりの冷たい目で見下ろしていた。


「こっちから願い下げよ、このクソ野郎」


 そう吐き捨て、エミリアは振り返った。


は以上にございます、陛下」


 それを聞いて、ジルドは思わずエミリアの視線を追う。

 そこに居たのは、アズーリア帝国の至高の存在――皇帝であった。

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