22. 顛末

 1655年8月24日。

 貴族院議会にて、帝国第3皇子ジルド・カエルレウスとミュレーズ公爵令嬢エミリアの婚約解消が決議され、賛成多数で可決された。

 これにより、8月25日付で2人の婚約は解消され、その話題はその日の内に帝国中を駆け巡った。

 また、翌月にはジルドが入れ揚げていた国立高等学校の平民の女子生徒との関係も、緩やかな破局を迎えたと報道された。

 大手報道機関もこれを盛んに報じたが、10月になる前に下火になり始め、10月半ばにクラスニア連邦で旧政府軍が首都の占領と勝利を宣言した直後に新大統領(前大統領の次男が「」によって就任した)が殺害されるという事件が発生するとほぼ完全に忘れ去られた。


 国立高等学校で最終学年である5年生を迎えたジルドは、今回の一件で女子生徒らから避けられるようになった。

 また、男子生徒からもやや敬遠されるようになり、彼にとって学校が居心地の悪い場所となったことは誰の目にも明らかであった。

 しかし、彼はそのことを甘んじて受け入れているような態度を貫いている。


 一方で、エミリア・ミュレーズの方はといえば、これまた学級の中で少々浮いた存在となった。

 ジルドとの婚約解消は彼女の評判にそれ程傷を付けたわけではなかったが、彼が交際していた女子生徒ロジーヌ・ペリエと親密な交流を続けているという実態が、生徒達――殊に政治的に敵対する派閥の貴族子女らの間で「皇子を謀ったのではないか」というあらぬ方向の疑念につながっていたのだ。

 しかし、これもまた当人は一切気にしていない態度を見せた。

 彼女の陰口をたたくのは極一部であり、学校全体としては彼女に対して同情的な風潮が強かったのである。

 社交界でも同じことがいえ、彼女はこれまで通り、ミュレーズ家の気丈な令嬢エミリアであり続けた。


 アンセルミ男爵家は、これまでと変わりない。

 9月からはブドウの収穫が最盛期に入る為、当主ジュリアンと三女クラリッサは多忙となり、この季節は国際郵便が増える時期でもあることから次男ヴィットリオも国外への飛行が増えたので不在がちになった。

 この家で最も大きな変化があったのはロジーヌである。

 ジルドと同じく最終学年を迎えた彼女は、やはり学科内で存在になった。

 皇子との関係は破局したにも関わらず、男子生徒らは彼女を敬遠し、それまで友人として付き合ってきていた数名の女子生徒以外に誰も寄り付かなくなってしまったのだ。

 逆に、高位貴族の子女や教養学科の生徒との交友関係が増えた。

 これはエミリアとの交友に付随したものといえ、結局彼女はアンセルミ家の益になる結婚相手探しから、アンセルミ家の益に繋がる交友関係構築の方に行動指針を変更した。

 容姿に優れ、社交的で成績も優秀な彼女は高位貴族の子女らとも問題なく交友を続け、5年生の半ばにはミュレーズ家の寄子である子爵家から女中としての雇用の打診を受けて卒業後の就職先が決まってしまった。


 そして、ヴィオレッタはというと――


「あー、そこの2人。ちょっと良いかな」


 すっかり日が沈み、間接照明の灯りだけが辺りを照らす館の廊下を歩いていた2人組の執事は、不意に背後から声を掛けられ、ゆっくりと振り向く。


「見ない顔だな。まぁ、いいや。火持ってないか?」


 そこに立っていたのは1人の女中だった。手には配膳用の盆。

 一瞬怪訝けげんな顔をした彼女に、執事らの顔が一瞬強張ったが、その女中が煙草を持つ仕草と柔和な笑みを見せたので、すぐに頬を緩めた。


「どうぞ」


 片方の執事が、懐から燐寸マッチを差し出す。

 しかし、女中は受け取ろうとしない。


「……」


 沈黙のまま、執事らの表情がまた少しずつ強張ってくる。

 女中の柔和な笑みの口元が少しゆがんだ。


「あたし、煙草らないんだけど。使


 直後。

 燐寸を出さなかった方の執事が女中に突進した。その手にはどこからか取り出した短剣が握られている。

 女中は驚いた様子もなく、盆を燐寸を出した執事の方へ放ると同時に姿勢を低くして短剣の執事の身体を受け止め、勢いそのまま投げ飛ばす。短剣の執事の身体が宙を舞った。

 そして燐寸を放り捨てて懐に手を入れていた執事の顔に女中の持っていた盆が突き刺さる。彼は一瞬ひるみはしたが、懐から出した手には、回転式拳銃が握られていた。

 しかし、その回転式拳銃が女中に向けられるより、彼女の前掛けの腹部が瞬く方が早かった。執事の拳銃は1発火を噴いたが、放たれた9ミリ拳銃弾は壁に吸い込まれ、もう1度火を噴く前に10ミリ拳銃弾を浴びた彼の手から零れ落ちた。

 それを見送る間もなく、女中は前掛けの腹部から自動式拳銃を抜き出す。既に銃口からは硝煙を吐き、空薬莢やっきょうが排莢口に詰まって遊底が中途半端に止まっていたが、彼女には遊底を引いてそれを排除する余裕があった。

 短剣の執事は投げられた後、床に落ちた直後に前転して立ち上がっており、女中との距離が短剣の交戦距離ではないと察するや否や短剣を投げ付けた。女中は床で痙攣けいれんするもう1人の執事に1発拳銃を撃ち込みながら、上半身を逸らして避ける。

 その間隙を突くように、執事は再度女中に突進した。またどこからか取り出した短剣を手に。


「ッ――!?」


 短剣の切っ先は女中の前掛けの下腹部に突き立てられた。

 しかし、女中は気に留めた様子もなく、執事の後頭部に肘を打ち込み、更に腹部に膝を叩き込んだ。

 流石の執事もき込んで怯み、その隙を女中が見逃すはずもなく、執事の顎を女中の靴先が弾き飛ばした。

 そこで騒ぎを聞き付けたらしい私兵が駆け付け、脳が揺れて前後不覚になった執事を取り押さえる。


「ったく」


 大立ち回りを演じた女中――ヴィオレッタは、自身の下腹部に突き刺さった短剣を引き抜く。その刃先に血は見受けられず、彼女も無傷である。


「よくやるわ」


 私兵と共に駆け付けたマノンがあきれたように言う。

 護衛侍女の装備は個々人で仕込み方が様々だが、大抵は前掛けの中に拳銃や短剣を隠し持つ。

 ヴィオレッタの場合は前掛けの下腹部に短剣を入れている。突き立てられた短剣はこの短剣の木製のさやに突き刺さっており、その切っ先を受け止められていた。

 彼女はこの部分で刃を受け止めたのである。

 相変わらず途轍とてつもない遂行力だ、とマノンと私兵らは肩をすくめた。


 ヴィオレッタは、ミュレーズ家の護衛侍女を続けている。

 週3日という護衛侍女の勤務体制も変わらず、週に1度は軍人として第100師団に顔を出しているのも変わらない。

 大きく変わった点は、エミリアに護身術の手解きをするようになったことくらいだ。

 エミリアは元々貴族のたしなみとして片手剣術を多少やっていたが、それよりももっと実戦的で殺傷力のある陸軍式の剣術や格闘術、銃器類の扱い方を身に着け始めたのである。


「ヴィオラの見立ては?」

「盗人じゃないのは確かだな。動きは連邦の軍人くさかった」

「じゃ、そう伝えとくわ。多分首都警察じゃなくて国家憲兵隊送りね」


 5月のエミリア・ミュレーズ銃撃事件以来、ミュレーズ家に刺客が侵入したのは、未遂を含めて3件。今回ので4件目だった。

 いずれも侵入直前、または侵入してから目標に到達するまでに使用人等に看破されて捕縛乃至ないし殺害されているが、それら下手人はいずれも連邦保安委員会の工作員達だった。

 最初の1件は首都警察に引き渡したが、政治的目的での犯行であることが明らかであった為、2件目以降は全て国家憲兵隊、またはその上位の治安警察局に引き渡している。


「あとあんた……」

「あ? あー」


 拳銃を拳銃嚢けんじゅうのうに入れたまま発砲した結果、ヴィオレッタの前掛けには焦げた穴が開いてしまっていた。当然、その内側に隠し持っていた拳銃嚢にも焦げた穴が開いている。

 彼女が拳銃を抜いた時に動作不良を起こしていたのは、拳銃嚢に入れたまま発砲した為に、吐き出されるべき空薬莢が排莢口で止まってしまった為だった。なので彼女は発砲後すぐに拳銃を出し、遊底を引いて空薬莢を排除したのである。


「あんたやっぱり天職だよ、ここ」


 マノンの苦笑に、ヴィオレッタは同じように苦笑を返すしかなかった。



        *        *        *



「連中、随分焦ってるみたいだな」

「主要な拠点は粗方国家憲兵隊が襲撃してしまいましたからね」


 皇宮、「赤の離宮」の一室で、ティベリオは報告書から目を上げながらつぶやいた。セッラ大尉が紅茶をれながら応える。

 内務省治安警察局は9月の終わりまでに国内のある程度大規模な恐怖主義者拠点は全て襲撃した。

 そのほとんどが連邦保安委員会の残党であり、徐々にその能力を失いつつあった連邦保安委員会の作戦は、少々拙速に過ぎるものが目立ってきている。

 ミュレーズ家への攻撃もその一つだ。

 一方で、この一連の攻撃を理由に、庶民院議会は治安警察局の権限を強化する法案を審議し始めており、各地方警察は抵抗の構えを見せているが、年内にも可決される見込みとなっている。


「ミュレーズ家といえば、エミリア嬢の婚約者は?」

「公爵は暫く新しい婚約者を探すつもりはないと」


 致し方なし。

 エミリアは別にジルドのことを愛しているわけではなかったが、婚約者として愛情は持っていたらしい。

 それを拒絶され、婚約破棄を声高に宣言されたことは、彼女の自尊心を少なからず傷付けた。

 愛がなくとも、皇族の婚約者であるという貴族令嬢の矜持きょうじを、他でもないその婚約者に踏みにじられたのだ。

 それを鑑みれば、婚約が解消されたからといってすぐに他の婚約を持ち出すのはいささか酷というものだろう。

 無論、国内に適任者が居ないので中々見つからない、という問題もあるが。

 元々年齢が近く身分も釣り合っている相手がジルド以外に居なかったので成立した婚約だったのだ。


「まぁ、何よりエミリア嬢は今――に夢中らしいですから」


 セッラの言葉に、ティベリオは破顔した。


「納得だ。確かに、『不死身の貴婦人』はそこらの男よりよっぽど頼りになるし、人間としても魅力的だからね。将来現れるであろう、エミリア嬢の新しい婚約者はお気の毒様ってやつだな」


 セッラも釣られて笑い、室内には暫し2人の笑い声が響いた。


 エミリア・ミュレーズの新しい婚約者が決まったのは、それから数年後の話である。

 その時にも、彼女の傍には「不死身の貴婦人」が居たという。

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