19. 国立高等学校創立150周年祭

 1655年8月10日。

 国立高等学校は、創立150周年を迎えた。

 元々この学校は1500年代初頭に当時の皇帝イレネオが提唱し、そして1505年8月10日に開設したものだ。

 当初は皇族と貴族子女のみに入学資格があり、生徒数は多くても200名前後であったが、やがて学科の新設と共に平民にも開放され、現在は5つの学科に5学年総勢約3,200名の生徒が在学する世界最大規模の後期中等教育機関となっている。余談であるが、入学資格が平民にも開放された翌々年から平民の生徒の方が貴族子女の生徒より多くなり、現在も在校生の4分の3程度は平民の生徒が占めている。

 して、創立150周年のこの日、それを記念する式典が開催された。否、式典自体は毎年この日に行われている。

 今年は150周年という節目の年であることもあり、例年よりも盛大に行われるのである。


「あら、ヴィオラ。今日は妹さんの付添い?」

「マノン。ええ、そんなとこ」


 式典は学生音楽隊による演奏行進と皇帝夫妻の挨拶、学校長や生徒代表の演説、そして夜には学校会館での夜会――つまるところ年始式典と同じような内容だ。

 ヴィオレッタはロジーヌの付添いとして、生徒達の居並ぶ会場の後ろ、保護者席に居たところを、マノンに発見された。

 保護者として礼装に身を包んでいるヴィオレッタとは対照的に、マノンはエミリアの護衛侍女として臨席しているらしく、いつもの女中服姿だった。

 はたと生徒席、教養学科の3年生が居る辺りに目をやれば、後ろ姿でも分かるくらい高貴な雰囲気の金髪が見える。

 会場の中心では、学生音楽隊が2曲目の演奏を始めたところだった。


「去年は雨だったわよね。覚えてる?」

「そうだったかな。去年は弟が付添いしてたから」


 他愛のない話をしながら、マノンに促されてヴィオレッタは立ち上がり、観客席の後ろの方へと歩き出す。


「婚約解消の話がまとまったわ。今月中にも貴族院議会で承認される見込みだそうよ」


 観客席の最後列、保護者席として用意はされているが、最早誰も座っていない壁際についた時、マノンはそう切り出した。

 ヴィオレッタは一瞬目を瞬かせ、小さく溜息ためいきを吐いて見せた。


「漸くか。話が出て半年とは。戦争なら負けてるよ」

「こら、不敬でしょ。気持ちは分からないでもないけどね」


 マノンが懐から出して勧めてきた紙巻煙草に、一言「喫わない」と断りつつ、背後の壁に背を預ける。

 隣に同じようにもたれかかったマノンの燐寸マッチを擦る音を横目に、その視線は経営学科4年生の席に注がれていた。

 最前列に座る、黒髪の男子生徒の後頭部。


「結局、皇室側の有責で?」

「いいえ、円満解消。お互いに

「成程ね。ま、それなら誰も文句の言いようもないか」


 ジルド第3皇子とエミリア・ミュレーズの婚約解消の具体的な内容が策定されたのは、8月9日のことだった。

 婚約解消の検討が始まったのが1月半ば、皇室がミュレーズ公爵フェルナンドの説得に折れて方針が定まったのが3月半ば、間にエミリア・ミュレーズ銃撃事件が挟まって多少停滞したとはいえ、半年以上かかっている。最初にフェルナンドが皇室に婚約の見直しを提案したのはそれより前だというので、実際にかかった時間はそれ以上か。

 そうして色々と検討はされたようだが、結局はミュレーズ家側が譲歩して円満解消とされ、慰謝料等の請求は双方行わないことで一致した。

 このままいけば8月中に貴族院議会に提出、可決されることとなり、晴れて婚約解消成立だ。


「やれやれ、長かったような、あっという間だったような……」

「妹さんとの関係は丁度去年の秋頃からだったらしいものね」


 2人並んで、また暫し他愛のない話をする。

 学生音楽隊が2曲目の演奏を終え、3曲目を演奏しながら行進を開始する頃、マノンの煙草が燃え尽きた。

 吸殻を近くの灰皿に放り込む彼女を何の気なしに見ていたヴィオレッタは、振り向いた彼女が真剣な顔をしていることに気付いた。


「ヴィオラ。来月以降のことだけど」


 今月中に婚約解消が成立するであろう、ということは、来月にはミュレーズ家とアンセルミ家のこのも一応の決着を見るということでもある。

 多少の後始末はあるかもしれないが、エミリアとジルドの婚約がなくなってしまえば最早双方に用事はない。

 ジルドは恐らく臣籍降下して伯爵位か何かを賜るのだろうが、ロジーヌがそんな彼と結婚したがるとは到底思えないし、そこはジルドとロジーヌの話であってミュレーズ家は関係ない。

 なのでアンセルミ家とミュレーズ家の間をつなぐ連絡役も、もうお役御免だ。

 そう思って口を開きかけたヴィオレッタを遮るように、マノンは言った。


「あなたが良ければ、来月以降も、お嬢様の護衛侍女として残って欲しいの」


 何も不思議なことではない。

 元々ミュレーズ家がヴィオレッタを護衛侍女として雇ったことは、某侯爵令嬢に「今更?」と言われた程に自然なことなのだ。

 なので、寧ろジルドとエミリアの婚約が解消されたのと同時期に態々護衛侍女を辞することの方が不自然だろう。


「それを決めるのはあたしじゃ――」


 ヴィオレッタの瞳が揺れる。

 彼女本人の意思としては、別に護衛侍女を辞めたって構わないが、かといって積極的に辞めたいわけでもない。

 そんな理由で良いのならば、という枕詞はつくが、彼女は護衛侍女の契約を継続することに前向きだ。


「……お嬢様がそう仰ったわけね」


 マノンが小さくうなづき、ヴィオレッタは視線を宙に向けた。

 命令してしまえば良いものを。

 エミリアが一個人としてのヴィオレッタにかれていることを、ヴィオレッタは気付いていた。

 10代の少女がよく年上の女性に抱きがちな、憧憬の念だ。かくいうヴィオレッタも同じくらいの年齢の頃に、年始式典で偶然見かけた女性軍人に憧れたものである。

 だからこそ、縛り付けるようなことをしたくなかったのだろうか。

 ただ、直接的にではなく、マノンを通して間接的に問うてきた辺り、あのお嬢様は意外と臆病らしい。貴族らしくない臆病さというべきか、年頃の少女らしい慎重さというべきか。

 視線を落として、教養学科3年生の列に居る金髪の後頭部を見据えて、ヴィオレッタは頬を緩めた。


「私、ヴィオレッタ・アンセルミとしては今後もミュレーズ家の護衛侍女としての雇用を継続していただくことに何の異存もありません。と、お伝え願えるかな」


 マノンの溜息。安堵あんどの吐息だ。まるで呼吸を止めていたかのような、それ程の緊張感を抱えていたらしい。

 そんなに緊張することでもないだろうに、と思いながらヴィオレッタは壁から離れた。


「マノンは夜会には出るの?」

「いいえ。会館には入らないわ。ヴィオラは?」

「出席だよ。保護者だもの」

「それもそっか」


 2人は互いに軽く手を振り合い、元の席へと戻った。

 学生音楽隊が3曲目を演奏しながら、退場していく。



        *        *        *



「ヴィー姉様!」

「ロジーヌ、化粧が崩れるよ」


 夜会の準備を終え、ベルナデッタと共に女子寮から出てきたロジーヌを、ヴィオレッタは抱き留めた。


「アンセルミ少佐、お久しぶりです!」


 同じく寮生でロジーヌの友人であるダニエラ・ロレンツォの活気ある挨拶にもヴィオレッタは微笑と共に応える。ロジーヌを待っている間、女子寮の前で彼女の兄と談笑していたのだ。他に軍服姿の者は居らず、予備役と士官学校生徒とはいえ軍服に身を包んだ2人は非常に目立っていた。


「フラヴィとジーナは?」

「先に入ってるって。ほら、行こ」


 学校会館に向かう途中で、ベルナデッタの父親も合流してきて、それぞれ付添人として共に入場する。


 国立高等学校創立150周年祭の夜会は、それこそ年始式典の時と大差ない立食会だ。

 ただ皇帝夫妻が挨拶を行うというのは1つの大きな違いだろう。

 皇帝にとっての年始式典は午前中は帝国軍の閲兵式、午後は国立高等学校、日が暮れる前に皇宮に入り、夜は皇室行事を行うという強行軍だが、この国立高等学校創立記念祭は式典にも夜会にも臨席する、正に国立高等学校にの日だ。


 帝国南部の日没は遅い。夏なので猶更だ。

 学校会館は教養学科校舎の東隣に位置している為、西側の窓からは夕陽と校舎の影が差し込み、出席者達の足元を赤く染める。

 そんな会場内で皇帝が挨拶を述べ、続いて正妃も短めの挨拶を述べる。

 この時間は計算されたものであり、夫妻の挨拶が終わると同時に、首都カエルレウムは日没の時刻を迎えた。会場の照明の方が強い光源となって出席者達を照らす。

 生徒と保護者がほぼ全員参加する昼間の式典と違って、夜会の方は主に貴族の出身者が出席するだけなので、昼間に比べれば参加者ははるかに少ない。4分の1以下だ。


「ごきげんよう、ロジーヌさん」

「ごきげんよう、エミリア様」


 皇帝の挨拶が終わり、会場内が騒がしくなり始めて暫し。

 主要な関係者への挨拶を粗方終えたエミリアは、穏やかな笑みを浮かべてロジーヌの近くへ寄ってきた。

 この時、ロジーヌはジルドの居る経営学科4年生の面々から少し距離を置いて、フラヴィ達の居る教養学科4年生が集まっている辺りに居たので、寧ろエミリアらとの距離が近かった。

 お互いに挨拶を交わすと、少しばかり世間話をして、エミリア達は別の集団へ挨拶へ向かう。

 ゆっくりと話せるのはもう少し経ってからか、とヴィオレッタとロジーヌが笑い合った時だった。


「エミリア・ミュレーズ!」


 会場に、ジルドの声が響き渡ったのは。

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