15. 護衛侍女の仕事

 5月10日、帝国首都カエルレウムは快晴であった。

 その日は月曜日で、いつも通り授業を終えたエミリア・ミュレーズは、友人らと別れ、送迎の自動車に乗り込んでいつも通り、町屋敷へと帰宅する――前に、商業区の高級菓子店に立ち寄る予定だった。

 普段ならば直接足を運ぶことはないが、偶然にも数日前の茶会で他の令嬢が話題に出した菓子が気になり、一度その店で食べてみようということになったのだ。

 何も急な予定ではなく、送迎の運転手も事前に把握していた。

 平穏な月曜日のはずだった。


「ッ!?」


 商業区に差しかかかる大通りで、彼女らが乗る乗用車は突如銃撃を受けた。

 風防が砕け、反射的に頭を下げたヴィオレッタの真横で、運転手が座席に縫い付けられたように硬直し、次の瞬間にはガクリと脱力する。それを見たヴィオレッタが悪態を吐きながら運転席に身を乗り出し、操舵輪そうだりんを引っ張る。

 絹を割くような悲鳴――後部座席、彼女の真後ろの座席に座っていたエミリアが悲鳴を上げていた。

 運転手の胸からは血があふれ出しており、意識がない、というより既に命がないことが明らかではあるが、その右足は加速踏板を踏み続けている。助手席のヴィオレッタからでは足を入れらず、外からの銃撃によって頭を上げることも出来ず、前方を確認することすら出来ない。


「左、左!」


 運転席の後ろに座るマノンが叫ぶ。ヴィオレッタは操舵輪を左に回した。

 数秒の後、車体は歩道の街灯に衝突し、停止した。


「クソッ、まだ撃ってくる!」


 身を屈めたままゆがんだ扉を蹴り開けたヴィオレッタは、転げ落ちるように車外に出る。

 銃撃は自動車から見て右側からで、車体の左側は比較的安全といえた。


 ミュレーズ家がエミリアの送迎に使っている自動車は、主に高位貴族や皇族向けに製造されている防弾仕様の乗用車だ。外観は同社製の高級車とほぼ同じだが、車体の大部分が帝国軍が採用する小銃弾に耐える防弾性を持っている。

 弱点は風防と窓は当然の如く貫通されることと、車体重量が重いので加速性能が著しく低いこと、燃費が悪いことだ。

 いずれにせよ、運転手以外の3人はこれで助かったといえた。


「お嬢様、お怪我は?」


 後部座席の扉を開くと、頭を抱えながら身を屈めるエミリアが小さく否定の意を示す。彼女が左側に座っていたのは幸いだった。


「ヴィオラ、血が……!」

「私の血じゃありません、平気ですよ」


 ヴィオレッタの前掛けと顔は血で真っ赤だった。彼女の真横で死んだ運転手の血である。

 護衛対象を安心させる為、にっこり笑って見せたが、あまり安心感を与えることは出来なかったようで、エミリアの表情は優れなかった。


「運転手はもう駄目だ。マノンは? 平気?」


 エミリアの表情がどうであれ、銃撃は続いている。

 ヴィオレッタが視線を上げてマノンに目をやると、彼女は「何とか」と一言答えた。

 直後、またエミリアが小さく悲鳴を上げる。


「マノン、あなたも血が出てる!」


 マノンの前掛け、右膝の辺りには赤い染みが出来ていた。


「どこを撃たれた?」

「……右足。太腿ふとももよ、私ももう駄目ね」

「何を弱気な」


 弱々しく答えるマノンを、ヴィオレッタはにらみ付けた。


「お嬢様、失礼ながらマノンの足元にお入りください。マノン、右足出して」


 指示通りにエミリアが姿勢を変えてマノンの足元に潜り込むと、マノンの右足を引っ張り、襦裙スカートと前掛けをめくり上げる。

 確かに右足を伝って尋常ではない量の血が流れ出していた。

 その付け根まで手を差し入れると、マノンが表情を歪める。それを確認し、ヴィオレッタは懐から出した包帯で彼女の右足の付け根をきつく縛り上げた。


「まだ死ぬことは許さないぞ、マノン。アジェタルグのとやらを返してもらってない。それと、手鏡貸して」


 ヴィオレッタが言うと、マノンはふっと苦笑し、懐から手鏡を差し出す。

 受け取ったヴィオレッタはそれを使ってこの銃撃の射撃元を観察した。大通りに面した集合住宅の2階の窓。手鏡を懐に入れ、顔の血を拭う。


「マノン、ここでお嬢様を守ってて」

「分かったわ」


 苦笑し、うなづきながら懐から回転式拳銃を取り出すマノンの足元で、エミリアが不安げにヴィオレッタを見上げる。


「ヴィオラ、あなたは?」

「あのきます」


 血塗れになった手袋を脱ぎ捨て、自前の自動式拳銃の遊底を引いて初弾を装填しながら、ヴィオレッタは獰猛どうもうに笑った。


「クソ野郎……?」


 困惑した様子のエミリアをそれ以上気に留める様子もなく、ヴィオレッタは駆け出した。

 銃撃が止んでいる。

 先程からの銃声は、彼女にとって非常に聞き覚えのあるものだった。

 ヴォルタ1641軽機関銃――帝国軍が1642年から制式採用し、陸軍の各歩兵部隊において1個分隊につき1ちょう配備されているそれは、当然ながら帝国陸軍の歩兵将校にとっては非常に馴染なじみのある銃だ。

 この銃は元々歩兵中隊の機関銃として採用されていたヴォルタ1630機関銃を携行出来るよう軽量化したもので、これによって帝国軍歩兵部隊の火力は大幅に向上したといっても良い。

 その性能諸元をここで詳しくは語らないが、少なくともヴォルタ1641の装弾数は75発である。歩兵が携行する為に75発の箱型弾倉を採用しているのだ。

 それをよく知っているヴィオレッタは、弾倉交換の時を見計らって、車体の陰から駆け出したのであった。


 大通りの周囲では通行人達が悲鳴を上げながら逃げ去って行っている。

 夕方の商業区近くなのだから当たり前だ。ヴィオレッタは銃撃犯の居ると思われる集合住宅の入り口に取り付くと、そこで一度息を整えた。

 そして拳銃を構えながら正面玄関を蹴り開け、中に押し入る。


「ひいっ!?」


 照星の先で、掃除夫らしき中年の男性が短い悲鳴を上げる。

 ヴィオレッタは男性に1階廊下の奥の方へ行くよう促し、階段を上り始める。アーテリア戦争では市街戦の経験もあった。


「!」


 2階の廊下に足を踏み出した直後、階段の最上段から最も遠い部屋――大通りに面した部屋から女性が転げ出てきた。慌てて立ち上がろうとする彼女の後ろで、続いて覆面の男がのっそり出てくる。

 その手に散弾銃が握られていることを視認するが早いか、動くが早いか、ヴィオレッタは発砲した。

 2発の10ミリ拳銃弾を浴びた男は仰け反り、銃を取り落とす。


「伏せてろ!」


 おびえた様子でヴィオレッタを見上げる女性を嚇し付けながら、壁に寄り掛かってうめく男の頭にもう1発撃ち込んでとどめを刺し、彼らが出てきた部屋へと侵入する。

 一般的な集合住宅の一室の、台所兼食堂だった。窓際に流し台と瓦斯焜炉ガスコンロ、冷蔵庫、食卓と椅子。2人暮らしらしいことがうかがえる。

 彼女がこの建物に入る直前頃に再開された外への銃撃はもう止んでいた。

 先程倒した男だけだったのだろうか、と思いながら寝室の扉に手をかけた瞬間。

 軽機関銃からばらかれる小銃弾が扉をズタズタにした。それどころかその横の壁も穴だらけになっていく。


「ちっ……」


 冷蔵庫を盾にしてやり過ごしたヴィオレッタは舌打ちした。彼女の覚えている限り、75発にはまだ10発以上撃たせなければならない。

 彼女は流し台に置かれていた硝子瓶と壁にかけられた前掛けを手に取った。


 穴だらけになった寝室の扉の前をが横切る。

 分間600発の発射速度を誇るヴォルタ1641軽機関銃は、逆にいえば1秒で10発の弾薬を消費してしまう。

 銃撃犯が扉の前を横切った人影に対して連射を浴びせ、その直後にその人影が移動した先に硝子瓶が落ちた音を聞いた時には、移動した先とは反対側の陰から寝室にヴィオレッタが乗り込んできていた。



        *        *        *



 ヴィオレッタが集合住宅に入っていく直前辺りから、ミュレーズ家の送迎車に対する銃撃は止んでいた。

 車内には周囲の喧騒けんそうの他には、マノンの荒い息遣いだけが響いていた。


「マノン、大丈夫?」


 足元のエミリアが心配げに声を掛けると、マノンは口角を上げる。


「平気ですよ」


 呼吸は整わず、悪寒も酷いが、それで護衛対象に不安を与えるわけにはいかない。エミリアからマノンの顔色が窺えないのも幸いといえただろう。彼女自身自覚しつつあったが、その顔は段々と蒼白あおじろくなってきていた。


「……あ?」


 そんな彼女の視界で、拳銃を手にした警察官が駆け寄ってきているのが捉えられた。

 首都警察傘下の、都市警邏けいら隊の制服だ。

 丁度近くを警邏していた奴が駆け付けたか、とマノンは一瞬拳銃を下ろしたが、しかし次の瞬間、彼女はその警察官に対して発砲した。


「なッ」


 3発放たれた拳銃弾の内1発を浴びた警察官は倒れ込んだが、すぐに起き上がり、拳銃をマノンに向ける。

 しかし、その動作より彼女の拳銃が再び火を噴く方が早かった。

 警察官は仰け反って倒れ、そのまま動かなくなった。


「偽物やるくらいなら徹底しろ間抜け」


 回転弾倉から撃った分の空薬莢やっきょうを落とし、予備弾薬を回転弾倉に入れながら、マノンはつぶやく。

 彼女が倒した警察官の手に握られていたのは、自動式拳銃――私物の使用を認めていない首都警察都市警邏隊で採用されている回転式拳銃とは、全く違う銃であった。


 それから数分。

 ヴィオレッタがヴォルタ1641軽機関銃を肩に担ぎ、縛り上げた男をりながら集合住宅から出てきた時に、漸く本物の都市警邏隊が駆け付けた。

 続いて現場に到着したのは国家憲兵隊で、彼らの上層部でどのようなやり取りがあったのかは不明だが、都市警邏隊はその現場を国家憲兵隊に明け渡し、エミリアとヴィオレッタはミュレーズ家の使者が迎えに来るまで国家憲兵隊に保護された。


「ったく、警邏隊の連中め」


 顔を洗ってきたヴィオレッタが悪態を吐きながら戻ってきた時、エミリアは救急車の後部乗降用足場に腰掛けたまま呆然ぼうぜんとしていた。

 銃撃犯を生け捕りにしたヴィオレッタだったが、その男を集合住宅の外まで引っ張り出したところで、駆け付けた警邏隊の警察官らに銃撃犯と誤解され、手を上げて無抵抗の意思を示したにも関わらず、ひざまずかせる為に膝を警棒で殴られたのだ。エミリアの説得で手錠を掛けられる前に誤解は解けたし、マノンの救急搬送も成ったが、膝を殴られた痛みが消えるわけでもない。

 街頭電話を使って国家憲兵隊を呼んだのはエミリアだった。マノンの助言によるもので、本来ならば市民が直接呼ぶことは出来ないが、ミュレーズ家の名前を出すとすぐに駆け付けてきた。銃撃が始まった時点で出動待機状態ではあったらしい。

 その彼女は、今は周囲で忙しなく動き回る国家憲兵隊員達も、背後の車内で健康観察をされる男女も、遠くからその様子を見物する野次馬達も、気にする余裕がないようだった。

 ヴィオレッタはふっと笑みを見せるとエミリアの前にしゃがみ込み、彼女の顔をのぞき込んだ。


「お怪我がなくて何よりでした、お嬢様。運転手は残念でしたが、マノンはあたしの経験則でいえばきっと大丈夫です。お嬢様がお救いになったんですよ」


 あくまでヴィオレッタの戦場での経験則ではあるが、体格に対する出血量的に、適切な治療を受ければマノンは死なないだろうと予想していた。後遺症等があるかどうかまでは分からないが、少なくとも死にはしないだろうと。

 仮に死んだとしても、マノンならば恐らく「エミリアが無事で良かった」とでも言う筈だ。その為の護衛侍女で、そういう自覚の上でこの仕事をしている人物だ。


「あたしとしても、助かりました。警邏隊に捕まるとこでしたから」


 やや冗談めかしてそう言えば、エミリアは少し表情を明るくした。

 冗談に笑った、というよりは、公爵令嬢としての矜持きょうじか。


「ありがとう、ヴィオラ。あなた達が居て、良かった」

勿論もちろんです。その為の私らですから」


 これまたヴィオレッタが冗談めかして言うと、今度こそエミリアはクスリと笑った。

 そして、思い出したように口を開いた。


「――そういえば、『』って、何?」

「あー……」


 下位貴族出身で軍隊生活も長いヴィオレッタは、どちらかといえば庶民の言葉の方に慣れ親しんでいる。

 帝国全土で通じる帝国共通語ではあるが、当然広大な帝国内では多少方言もあるし、何より階級社会であるから高位貴族と下位貴族、庶民とでは言葉遣いがまるで違う。

 庶民の間で話される帝国語には高位貴族の会話ではまず出てこない単語も少なくなく、当然そういった言葉は学校等で習うものでもなく、一般的に使用人が主人らの前で口にするような言葉でもないので、というのは実は数多い。

 軽機関銃の銃撃を受ける中、エミリアとマノンを勇気付けようと口をついて出た庶民の言葉の意味の説明を求められ、ヴィオレッタは答えに窮してしまったのであった。

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