去りゆくもの

「で、酒呑しゅてん


 安倍吉昌は、この場の話に全く我関せずの様子で、ひたすらに日本酒をあおっていた薫子さん、の中の酒呑童子を、突然、振り向いた。


「茨木は成り、討伐の戦いは終わった。もう、危ない橋を渡って、お前の首を現世に留めておく必要もなくなった訳だけど……素直に、はらわれてくれる?」

「はあ? ここまで押し込めといてそれ?」


 安倍吉昌の言葉に、酒呑童子は、心底呆れたように答える。そして、クサブキさんに目を向けた。


「まあ、首だけじゃ大した力もなくて、何にもできやしない。それに、そもそも、もうあたしの出る幕じゃなさそうだけどね……」


 ふいにクサブキさんの目の前に、酒呑童子が本来の姿で現れる。同性の私でも息を飲むような、妖艶な女性だった。

 右手に酒杯を持ったまま、空いている左手で、完全に固まっている様子のクサブキさんの顎をくい、と上げる。


「……茨木。あたしの前じゃあんなに情けない子だったのに、二枚目ぶっちゃってさ。……大人に、なったんだねえ」


 目を細め、しみじみとつぶやく。


「純真な若人わこうど、食べちゃって、悪かったね。あんまり、あんたが、まっすぐだから、鬼のくせに、ほだされちゃってさ。あんたに手を出したら、終わりって、分かってたのにね。……堪忍かんにんね」

 

 酒呑童子は立ち上がり、場をぐるりと見まわした。


「なんだかぐだぐだ言っているようだけど、あたしはもうあんたらに、何も思うところはないよ。鬼が好き放題に遊びまわりゃ、いずれ討たれるのは、当然のこと。茨木がしくじろうがしくじるまいが、いずれたどり着く先は、同じ場所だったさ」


 ニヤリと笑う。周囲が総毛立つような、凄みのある笑顔だった。


「たくさん殺して、たくさん、遊んだもんだ。……もうこの世の酒は、飲み飽いた。地獄の酒の味でも、利きに行くよ」


 酒呑童子の身体が、ほのかに光り始める。安倍吉昌は、微かに目を眇めその体に手をかざす。

 やがて、右手の盃をあおりながら、酒呑童子の姿は薄れていった。




「クサブキさん。私は、この身体から、出て行きます」


 消え去っていく酒呑童子の姿をじっと見つめていたクサブキさんの背中に、私は静かに告げる。


「私の役割は、終わりました。10年もの間、私と酒呑童子の魂を引き受けてくれた薫子さんに、この身体を、お返しします」


「お、あまねちゃんも、成仏する?」

 軽い調子で、安倍吉昌が私を振り向く。



「……少し、二人で、話をさせてくれ」


 クサブキさんが、静かな声で言った。





 二人きりになったとたん、クサブキさんの表情が歪んだ。


「あまね。そなたは、私の妻だ。離れることは、許さない」

「……私だって、……離れたく、ない」


 このまま、ここで二人で暮らせたら、どんなに良いだろう。

 でも、この身体は、私のものではない。


「この身体は、薫子さんと、つなさんに、お返ししなければ、なりません」


 薫子さんと、年若い青年、四天王筆頭の渡辺綱わたなべのつなは、現世で兄弟のように育った、恋人同士だった。あの時、あの青年が、どんな思いで彼女を斬ると言ったのか、想像するだけで私の胸は疼く。


 彼はあの時、私にはできなかった、愛する者ではなく自らの責務を全うする道を、選んだのだ。


 彼がその残酷な選択を迫られた原因は、私だった。私は、彼らを犠牲にして、ひと時ではあったけれど、人として最高の幸福を得た。愛する人に、愛されること。思い出すだけで身の内から震えるような、黄金色の歓びの時間。

 だから、今度はそれを、返さなくてはいけない。


 声の震えを抑えて何とか話し終えた私の目から、留めきれなかった涙が一筋、頬を伝う。クサブキさんの手が私の頬にのび、そっと、その涙をぬぐった。


「そうだったな。私の妻は、いつでも聡く、清新で、そして……誠の心を忘れぬ女人にょにんだった」

 ささやくような、クサブキさんの声。


「あまね。そなたの心は、よく分かった。……最後に、私からひとつ、頼みがある」


 クサブキさんは、私の手を取る。

 そこにあるものを見て、私は息を飲む。

 クサブキさんの、太刀だった。


「この太刀を、引いてくれ。今生での、望みは尽きた。私は、そなたと共にいく」


 クサブキさんは微笑んで、私に握らせた太刀を、静かに首元に当てる。


「私が『成れ』たのだとすれば、それは真正、そなたのおかげだ。もし私が輪廻の輪に戻れたのなら、いずれ来世のどこかで、出会うことができるだろう。私は、かならずそなたを、見つけ出す」


 私は、クサブキさんの、哀しく澄み切った瞳を見つめる。

 私は、この太刀を引くべきなのだろうか。

 私の脳裏に、眠ることすら拒んで私を見つめていた彼の瞳が蘇る。


 彼を、置いて行ってしまったら。

 彼の心を、一番残酷な方法で、殺してしまうことになるのだろうか。

 彼を、ここへ残していくことは、この太刀を引くことより、残酷なことなのだろうか。


 私たちは、やはり永遠に、次の逢瀬をのぞんで別れる二人としてしか在れないのだろうか。

 

 織姫と、彦星のように。

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