卯月 朔 青光の景
『つぎのしんげつ あたたかき みなりにて おこしねがう』
そんな報せが入ったのは、4月の新月の数日前のことだった。
(どうしたんだろう。こたつの調子でも悪いのかな)
こたつがなくとも、結界内の気温は通常、真冬でもそれほど低くはならないはずだ。
何があったのだろう。私は胸騒ぎを抑えて、新月の夜を待った。
「アマネ殿。準備はよろしいかな」
結界で出迎えてくれたクサブキさんは、上機嫌で目をキラキラさせている。
いつもと少し違う彼の身なりに、私は首をかしげる。
上には、前合わせ部分に紐の付いた着物のような服、それにたすきがけをしている。下半身には丈の短い、裾絞りのされた短い袴のようなものを穿いて、脛当てをつけていた。
「ふむ」
私のダウンジャケットのジッパーを上まで引き上げると、彼は満足そうにうなずき、突然私を抱え上げた。
「え、きゃあっ!」
私はがらにもない悲鳴を上げてしまう。彼は軽く飛び上がると、私たちはそのまま上へ上へと昇っていく。
私たちを取り囲んでいる、半球状の結界の全貌が見えてくる。今日は、壁には白黒逆転した、ネガの光景が張り付いている。
上空を覆っている壁が、みるみる近づいてくるのが見える。
「少々、ご辛抱あれ」
相変わらず愉快そうな声で、クサブキさんが叫ぶ。
次の瞬間、クサブキさんと私は、上空の白い壁に突っ込んだ。
私は顔を背けて目をつぶる。ずん、と経験したことのない衝撃が身体に走る。
たとえて言うなら、スライムに突っ込んだような、ぐにゃりとした感触が全身を包む。
「クッ……」
クサブキさんが、微かに唸る。渾身の力をふるっているのが、全身の震えから分かった。
突然、粘り気のある抵抗が消えた。
目の前には、漆黒の夜空に降るように輝く、満天の星がある。
「してやったり!!」
クサブキさんの叫び声。
そのまま、彼は私を抱えて、ぐんぐんと暗闇の空を進んでいく。
あまりのスピードに、息をするのがやっとで、とても何かを尋ねることもできない。
クサブキさんのテンションの高さが、不安をあおる。
やがて突然、クサブキさんが空中で停止した。
「……大事、ありませんか。少々、はしゃぎすぎました」
急にいつもの冷静な声になって、彼は私をのぞき込む。
「大丈夫、ですけれど。……一体、どうしたんですか」
私はようやっと口を開く。
彼はしばらく、辺りを見回しながら、ふい、ふいと飛び続ける。
そして、急降下。
「ひゃあ」
「……これです」
地表が近づき、彼に抱えられ下を見下ろす姿勢になった瞬間、私は息を飲んだ。
そこは、海岸だった。
浜辺が、無数の青白い光で埋め尽くされている。
まるで波そのものが光っているようだ。
私は呆然とその光景を眺める。
クサブキさんはゆっくりと降下を続け、やがて静かに私を海岸へ降ろした。
「……そのままでは、濡れますよ」
夢中で波打ち際へ歩きかける私に、彼が声をかける。
私は、その場で立ち尽くして、その圧倒的な光の光景を眺める。
「ホタルイカの、身投げです。この時期の、新月の夜に、起こりやすいと言われています。……それにしても、今宵は見事だ」
クサブキさんの言葉も、半分も頭に入らない。
また歩き出そうとする私の手を、彼が慌ててつかんだ。
つかまれた左手に意識が合った瞬間、突然、周りの光景がはじけた。
青い光が、先ほどの比ではない輝きを放ち、きらきらと熱を帯びて、私に迫る。
「お連れ、しましょう」
笑みを含んだ声で、クサブキさんは言い、私の手を握ったまま、ごくごく低空を、なめるように飛んでくれる。
青白く光る波が、幾重にも重なり足元を過ぎる。
あまりに美しい光景に、私はぼんやりと考える。
私は、何かの術を使われているのだろうか。
本能が、そうではないと告げている。
あの、爆発するように輝いた世界。
この人と、手をつないだら。
私の周りの光景は、突然、何割増しにも、輝き始めたのだ。
それが何を意味するのか、さすがの私にも、もう分かっていた。
*
「結界破り……まるで、牢破りのようなおっしゃりようだ」
日本海の海岸(!)での、ホタルイカの身投げを見物しての帰り道、私を抱えてゆっくりと飛びながら、クサブキさんは悪戯っぽく笑う。
結界に戻らなければ、夜明けとともに、私の身体に、何が起こるか分からない。そのため、結局、戻ることになったのだ。
「確かに、あの結界に封じられてはおりましたが、それは別に、出られない、というわけではありませんで。あえて出なかった、というのが正しいのです」
新月の夜は真っ暗で、一体どこを飛んでいるのか、私には皆目わからない。
「犯した罪を
まあ、あなたにあの海を見せたかったというのが本音なのですが。
影のない笑い声が響く。
「もしも、今宵私のしたことが罪となるならば、早晩、天罰が下ることでしょう」
いつの間にか、私たちは、いつもの結界の内側に降り立っていた。
「お疲れに、なりましたか。
いつもの優しい声音で、クサブキさんは私に尋ねる。
「クサブキさん」
私の声音に何かを感じたのか、彼の身体に微かに緊張が走った。
「教えてください。『
クサブキさんはしばらく固まって、言葉が出ない様子だった。
「そうですね……真っ向からお尋ねになられると、何ともお話ししづらいのですが。まあ、要するに、男女の仲になる、ということですね」
「それは、肉体的に、という意味ですか」
「……そうですね」
少し怪訝な表情で、クサブキさんは私を見つめる。
「……クサブキさん。私も、あなたのことが好きです」
今度こそ完全に、彼の表情は固まった。
「毎晩、お手紙を読むたび、あなたのことが、恋しいです。……でも、私は、この結界の中に留まることは、できません」
クサブキさんが目を閉じた。
その閉じられた瞼に、私は問いかける。
「それでも、私たちは、ともに在ることが、できるでしょうか」
目を開き、ゆっくりと歩み寄って来たクサブキさんの腕が、優しく私を抱きしめる。
彼の胸から響いてくる声を、私は陶然と聞いていた。
「あなたと過ごす、新月と満月の夜を
私たちは、しばらく、身動きもできずにそうしていた。
曙の光が、白い夜空に黒い
彼の腕の力が、強くなる。私は、彼の胸に頬を擦りつける。
そしてやがて、私の視界は、暗転した。
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