鬼の食べ物(2)
「はじめは、飢饉だと思っていたのですが、
彼の唇に、苦い笑みが浮かぶ。
「私には、疫病を
彼がそっと右手を差し出すと、カピバラがその手にとことこと歩み寄り、身体を擦りつける。彼の唇には、先ほどとは違う柔らかい笑みが浮いている。
「いずこよりお越しの方かは存じませんが、あなたは、この
彼の目が、私たちの周りを囲む白黒の風景を指し示す。今日は新月、
「……私も、私を封じるこの壁について、委細すべてを承知しているわけではありませんが」
そこで、クサブキさんの顔は私を振り向いた。
「おそらく、この壁の中で、中のものを飲み食いされれば、あなたは二度と、ここより出でることは叶わなくなるでしょう。あるいは、
そう告げるクサブキさんの顔に、笑顔は全くなかった。
「……だから私に、飲食物を持ち込めと」
「ご明察です。あなたが外界から持ち込んだものには、そのような力は働かない」
たしか、初めの日、思いっきりお茶を勧められた気がしたけれど。
まあ、忘れることにする。
「……
まさか、先ほどの話のように、取って食うということなのだろうか。
「……それは、私にはお答えしかねる」
クサブキさんの瞳がふと緩んだ。
「ただ、今、私にその意志はないことは、お伝えしておきます。あなたは、
それにしても、あなたは心のきれいな方だ、クサブキさんの唇が再び笑みの形を作る。
得体のしれない微笑。
世間知らず、と暗に言われているようで、私の気持ちは落ち着かない。
相変わらず、肝心な時、彼の感情は全く読み取れない。私は唇をかむ。
*
クサブキさんが『気の乗らない手』と言ったのは、先ほど説明された禁術の使い手に、動物たちの餌を貢がせる、ということらしい。
「一応、私から、『お告げ』という形で、外界のムラびとたちに意志を伝えることは、できるのですよ。ただし、私の要望をかなえた者には、必ず『報い』をせねばならないので、あまり行いたくはないのですが」
彼は憂鬱そうに、ペンギンを見やる。
ペンギンは今、私が持ってきた魚肉ソーセージをがっついている。
多分、絶対、身体には良くないだろうが、餓死させるわけにはいかない。
苦肉の応急措置だ。
ところで、私にはもう一つ、気になることがあった。
「あの、クサブキさん。先ほど、1年前から疫病が、とおっしゃっていましたが……」
「そうですね。大陸より渡来してきた、肺病だと聞いていますが」
……いやこれ、もしかして、もしかしなくても、……コロナでしょ。
私は、興奮で息が早くなるのを抑えきれずに、彼に尋ねる。
「あの、クサブキさん。最近の、天皇陛下……
「
彼は軽く首をかしげる。
「詳しくは、存じませんが。
決まりだ。
私は興奮の高まりを抑えきれずに胸元で手を握り、クサブキさんの顔をじっと見つめる。
「あなたの世界と、ここが、同じ世界だと」
面食らったようにクサブキさんは目を瞬く。
「少なくとも、最近の疫病と、帝の譲位、その出来事は、私の世界と、一致しています」
「……言われてみれば、あなたの来られる夜の、月の満ち欠けが、双方とも全く同じであることは確かだが」
彼の瞳が白い夜空を見上げる。
「……しかし、そうなると」
なぜか浮かない顔で、彼は虚空をにらみ考え込む。
しばらくそのままの姿勢でいた後、彼は私を振り向いた。
「あなたのお見立ては諒解した。……確かめる方法について、私に考えがある」
*
『たしかめねがう』
手にした紙には、確かにその文字が浮かんでいた。
やがて目の前で、ゆっくりと、その文字は崩れはじめ、煙のように消え去っていく。
残ったのは、ただの白い和紙。見た目はいわゆる、懐紙だ。
本当にすごい。というか、信じられない。
鬼のいる結界に転移させられたり、アルパカだのカピバラだのが突然現れたり、訳の分からない経験はたくさんしているはずなのに、いまだに何かにびっくりできる自分にも、びっくりする。
今、私は、現代日本の自宅にいる。
今日は、新月の翌日。出ていた月は、二日月、というらしい。もうとっくに、沈んでしまったが。
今の時間は真夜中過ぎ。私は、ベッドの中にライトを持ち込んで、クサブキさんから渡された紙を確認していた。
「もしも、我々双方の世界が、同じ時の中にあるのならば、これを使って確かめることができる」
昨晩、クサブキさんがそう言って私に取り出して見せたのが、この小さな紙切れと、筆だった。
「これは、私が人であった頃に、
「はあ」
さりげなく、驚愕の事実が明かされる。
一時流行った、陰陽師、とかいうやつだろうか。カエルを潰すとか、おとぎ話だと思っていた。
「これは、私の
クサブキさんが、私に紙きれを持たせた。彼が筆で空中に文字を書くと、手元の小さな紙切れに、写し取ったように文字が現れる。
紙には、『あまね』と書かれている。
「お読みになれますか」
少し心配そうに、クサブキさんが私に尋ねた。
「……はい。私の、名前ですね」
かろうじて読めるが、だいぶ達筆だ。
「良かった。女手は、大きく変わりないと思うのですが、私の男手は、だいぶ、あなたには読みにくかろうと思います。女手でお書きすることにいたします」
その時、手にした紙の文字がすうと消えた。
「この紙を開くと、ほどなく文字は消えてなくなります」
驚いて紙を裏返している私に、クサブキさんが静かに告げる。
「同じ
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