神無月 満月 祈り

 10月は、神なし月。

 この山の神様たちも、今は、遠い出雲いずもの国に、お出かけになっている。

 今、私は、「紫峰しほう」の雅名を持つ山、筑波山つくばさんの、登山道にいた。


 胸の内で、神々に祈る。

 考え抜いてたどり着いたこの道が、あの人のいる、あの場所へ続いていますように。


 彼が、私を見限ったのなら、それはいっそ、救われることだった。

 でもきっと、それは違う。そんな人ではなかった。

 これ以上私を苦しめないために、彼は、歌を紡いでしまう筆を置いたのだ。

 今もきっと、彼は独りあの場所で、以前にも増して深く暗い孤独に耐えている。

 

 もう私が、知らぬ間に彼の元に送り込まれることはない。今の私は、それを知っていた。

 でも私は、あと一度だけ、彼に会いたい。彼に会って、さようならを、言いたい。

 そうしなければ、きっと彼は、ずっと私を待ってしまう。


 10月の夕暮れは早い。それでも、私にはもどかしい。太陽が、地平線に完全に隠れるのを、じりじりと待った。


 完全に日が暮れ、東の空に満月が昇り始めるのを確かめて、立ち上がる。 

 私の前には、昔、豪胆な武人ですら、七歩後に下がったという、頭上の岩が今にも落ちそうな、「石門」がある。


 目を閉じ、何度か息を整えた。 

 目を開き、足を踏み出す。

 深呼吸を繰り返しながら、一歩一歩、その石門をくぐり抜ける。




 石門を抜けた時、私の耳を、笛の音がかすめた。

 視界がぐらりと歪み、思わず目を閉じる。

 もう一度開いた目の前には、見慣れた、白黒の、風景があった。

 寂しげな笛の音が、閉ざされた半球の空気を震わせている。

 

 私は、その半球の中へ一歩、踏み出した。


 笛の音が途切れる。どこかで、からんと音がした。


 次の瞬間、私は、彼の腕の中にいた。


 その人は、私を抱き込んで、何度も、震える息を吐き出している。

 私は、彼の胸に、頬を擦りつける。

 懐かしい、優しい、彼の匂い。


 確かめるように、彼の震えるてのひらが私をなぞる。

 そしてまた、彼の腕が、強く私を抱きしめる。


「あま、ね」


 呻くような彼の声が聞こえた瞬間、私は我を忘れた。


 さよなら、なんて。

 言えるわけがなかった。

 

「クサブキさん。クサブキさん」

 彼の腕の中で、私は叫ぶ。

「逢いたかった。もう、……もう、私を、離さないで」





 クサブキさんは、黙って私の髪をなでている。

 いつかの夜と同じように、私は、縁側で彼の体にもたれ、満月を見上げていた。


 クサブキさんは、黙って私を「受け取」ったりはしなかった。

 全身で、私を求めていたけれど、それでも彼は、身を離した。

 その克己心は、私を何より、哀しくさせる。


「あまね。ここから先へ踏み出せば、もう、戻ってくることはできません。あなたは、私と同じ、世に忌まれる存在ものへとなり果てるのです。それでも、あなたは、その道を選びますか」


 背中越しに、静かなクサブキさんの声がする。


「いつかあなたは、私を、恨むようになるかもしれません」


 私は身を起こし、クサブキさんと向かい合う。


「クサブキさん。恨まれるのは、私の方かも、しれません」

 クサブキさんの眉が、微かにひそめられる。

 

「私は、ただの人ではないと、お話しました」

 私は、クサブキさんの美しい瞳を見つめる。


「私は、偶然見出されてこの場所へ導かれたのではありませんでした。この場所を見つけ出すために、あなたを追う者から、繰り返しあなたに差し出されていたのです。私自身は、あずかり知らぬところで」


 私は、彼の見開かれた瞳にゆっくりと告げる。


「この身体の中には、今、3つの魂が、宿っています。1つは、この身体の本来の持ち主の魂。そして、私。それから、あなたの、かつての想い人、酒呑童子しゅてんどうじの、魂です。……くさぶきさん。……いいえ、茨木童子いばらきどうじ

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