第18話 雲りのない一筆

 今年の夏は暑い。近年は異常気象と言われる気候が続くのでそんな表現はもう日常茶飯事と思ったけれど、その思考を一気に否定された。照りつける太陽と纏わりつく湿気を窓越しに睨みつつ、私は玄関の扉に向かう。


「友紀、準備は大丈夫? 何か足りないものとかない?」


 おもてなしをしたあの日、自宅に帰ってから私は改めて母と兄と話をした。アパートに戻った時、母も兄も夢喫茶にいた時と比べて落ち着いた様子だった。

 私からのお願いといえば、今まで通りにして欲しいということだけだった。ただ、やはり母は気が気でないようであれやこれやと世話を焼いてくる。兄もまた、病気や最新治療について調べてくれているようだった。父からは取り立てて連絡はないもののそれが無事の知らせだと思っている。


「もう、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」


 少しだけ不服そうな声を上げると母はそうだよねと苦笑いを浮かべた。母の気遣いが分かっているからこそ、今度は笑顔を浮かべる。


「じゃあ行って来ます」

「いってらっしゃい」


 母の見送りの声と共に家を出る。

 お弁当を持って連日通うのは高校の美術室。文化祭や並行して参加するコンクールの作品づくりのため、夏休みの美術室には部員が集まっている。

 自問自答しながら筆を進め、時には友人に意見をもらい、本格的に迷った時は顧問の先生と相談しながら制作をしていく。そんな夏の日は一瞬にして駆け抜けていった。


「久し振り〜」


 八月も過ぎ、夏休みを終えた学校。文化祭の準備で顔を合わせているとはいえ、こうして集まるとまた気分も違う。それぞれが夏休みの話題で盛り上がる教室はやはり賑やかだ。

 学校は文化祭に向けてさらに熱を上げていて、気候もそれに唆されているじゃないかと思うような暑さが続く。残暑なんて言うけれど、九月の暑さは秋など微塵も感じさせない夏そのものだ。


 そうして迎える九月の最終週の木曜日。文化祭の前日となる今日は文化部もクラスも準備で大忙した。クラスの模擬店も運動部の人たちが中心となり順調に準備が進む。自分がデザインしたお店が一つの形となって出来上がっていくのを見るとなんとも感慨深い。後を任せて私は美術部の準備に向かった。

 いつも雑多な美術室も徐々にその姿を変えつつある。展示用に整理され、掲示するためのボードが壁に沿って立てられていた。

 所定された場所に私たちはそれぞれの作品を掲示する。皆が作品を並べ終えれば小さな美術館がそこに現れる。中を眺めながら彩乃がぽつりと呟いた。


「いよいよだね」

「うん」


 今出来ることを詰め込んだ作品が堂々とそこに並んでいた。


「いろんな人に見てもらえるといいなぁ」

 そう言って彩乃が視線を向けるのは美術室の入り口近くにある机。その上に置かれている箱と便箋に視線が注がれている。

 それは今回の展示に対する感想用の手紙を入れる箱だ。写真展の時に貰った感想が嬉しくて、よければ文化祭でもやってみたいと思い先生に相談したのだ。


 ただ、さすがに個人個人の作品にノートを置くというのは空間上難しくて断念した。その代わりに感想を書く紙とそれを入れる箱を出入り口スペースに置くことになったのだ。その発案者は彩乃だ。

 それを見て私はある物を鞄から取り出し、彩乃に差し出した。


「よかったら、これもらってくれない?」

「これは……?」


 それは夢喫茶の展示の時に作った写真集。所在のなかった残りの一冊がようやく目的の人に渡る。


「前に写真を撮りに行ってね。夢喫茶で展示をして、その時に冊子にまとめたものなんだ」


 目のことや作品制作で慌ただしく日々が過ぎ、渡す機会を失ってしまっていたのだ。今更ながらではあるがようやく手渡せて私は安堵する。ただ、普段とは違う写真という媒体で作った作品を見せるのは少し緊張した。

 受け取った彩乃は真剣に写真集を捲る。真剣に眺める視線は少し気恥ずかしい。その後は展示風景を撮影した店内の写真も一緒に見てもらった。


「ずるい、こんなことやってたんだ」


 見終わって開口一番、彩乃はそう言った。珍しくふてくされたように聞こえる声。少しむくれているのは気のせいではないだろう。


「ごめん」


 素直に詫びるとふっと彩乃が笑った。


「今度、私も写真撮りに行ってみたい。こういうの憧れる」


 自然と広がる輪。私はそれを嬉しく思う。彩乃を交えたらあかりさんや晴人さんとどんな話ができるだろう。

 それは新しく生まれるまどかな縁。


「うん、相談してみるよ」


 そんな約束をして翌日の生徒だけの文化祭を楽しみ、一般公開の日を迎える。

 一般公開の日の天気は快晴。待ち合わせの昇降口前で彩乃と共に待ち人を待つ。正午過ぎ、訪れる家族や友人で高校は一層賑やかだ。


「友紀、彩乃ー!」


 快活な声が聞こえてきて私達はそちらに視線を向ける。制服姿の柚葉ちゃんが駆け寄ってくるところだった。今日の午前中部活動があり、その後に来てくれたのだ。その間に私達はクラスの当番を入れ、一緒に文化祭を見て回れるよう予定が合うようにしたというわけだ。


「遅くなってごめん……」


 息を切らし、両手を膝に当てて息を整える柚葉ちゃん。そんな彼女に向かって彩乃がうちわで風を送る。


「大丈夫だよ〜。それよりお疲れ様」

「とりあえず一休みしてからかな」


 私はスマートフォンの時間を確認する。予定の時間にはもう少しあるから、お昼を食べても問題ないだろう。そう思って私は自分のクラスの模擬店に二人を案内したが、予想以上の人気で昼時のカレー屋さんは人で溢れていた。仕方なくそこは諦め、手軽に食べられる焼きそばを買って木陰で食べることにした。


 晴れやかな空の下、私たちは人だかりの一角に足を向ける。その人垣の向こう側に見える地面に用意されているのは大きな日本和紙だ。そこに並ぶ生徒達はたすき掛けのはかま姿。


 そう、ここは書道部の書道パフォーマンスの会場だ。


 書道部の女の子が姿勢を正し一礼をする。墨を入れたバケツを持ったもう一人の女の子から筆を受け取り、一足踏み出す。

 和紙にどんと力強く置かれる大きな筆。音楽と共に踊るように文字を書いていく。体全体を使った筆遣い。真剣かつ楽しんでいるのが分かる笑顔。一筆の躍動感は見る者を惹き付ける。


 《進》


 書き上がった文字を見て観客が送るのはこれ以上のない喝采かっさい。私達も精一杯の賛辞を拍手で送る。それに続いて新しい和紙が用意され、観客の視線が次の実演者に集まった。


 そこにいるのは袴姿の水野君だ。先程よりは小さめの筆と墨入れのバケツを用意し、真剣な表情で真っ白な和紙を見つめている。

 実のところ実演者として去年も選ばれていたらしいのだけれど辞退したそうだ。なんでも文化祭という表立った舞台で目立つのが嫌だったからだという。納得と言えば納得の理由だ。


 それならなぜ今年は受けたのかと問うと、


「とりあえずやってみようかと思って」


 という、前向きなようなそうでもないような言葉が返ってきた。そんな答えも水野君らしいのかななんて私は思った。


 深呼吸の後、一礼。それを見て自然と私たちも息を呑む。

 そうして踏み出される一歩。力強さはありながらも丁寧な筆遣いで一筆一筆進み、文字が生み出されていく。滑らかで迷いなく進んでいく筆とそれを振るう姿が眩しい。


 《千》

 それは数の多いさまを表す字。

 《紅》

 紅花で染まる鮮やかな赤は禁色きんじきと表裏一体の伝統の色。

 《万》

 数・量が極めて多いこと。よろずの神などと人は言う。

 《紫》

 それは現代まで高貴な色として認識されている気高き彩り。

 和紙に現れる文字。それは様々な色の花が咲き乱れている様子。


 《千紅万紫せんこうばんし


 出来上がった書に歓声が湧き上がる。書き上げた水野君は姿勢を正し、一礼をして素早く下がった。他の部員に笑顔で迎えられる姿を見ながら柚葉ちゃんがぽつりと漏らす。


「悔しいけど、格好良いじゃん」


 屈託のない笑顔と共に送る賛辞。自分のことのように喜ぶ柚葉ちゃんに私も完全同意だ。


「うん、格好良かった」


 その時に聞こえてきたのは女の子達の歓声。わいわいと盛り上がる女の子数人の視線の先にいるのはもちろん水野君だ。ああこれは注目を浴びてしまったなと思いながら、心の中で頑張れと私は応援を送った。

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