第14話 紺の空に輝く昴
夏休みに入る前、唐突に一週間沈黙を続けた夢喫茶。私は躊躇いを振り払って学校の廊下で水野君に声を掛けた。
「……俺も何も聞いてないんだよ」
水野君もまた困った表情でそう返した。彼も勉強のために喫茶店へ行ったが、その時も閉まっていたという。他にもあかりさんや晴人さんにも連絡を取ってみたが、皆同じ反応だった。
店先に休みのお知らせもないし、お店のSNSもサイトもないので理由は分からないまま。一日の休みなら納得できるけど、一週間何のお知らせもないとなると不安も募る。
「なんかあったら連絡するよ」
行ってみるからさと言って水野君は自動販売機で清涼飲料水を買い、私に差し出した。
「顔色悪い。早めに帰れよな?」
これから夢喫茶に行ってみようと思っていた矢先のその一言。有無を言わさない水野君の声に私は無言で頷くしかない。水野君と連絡先を交換してから帰る準備をした。
高校はもう夏休み。
ただ、休みと言っても文化祭を控えている。文化部はより一層熱が入って活動的になるし、クラスでの準備もあって学校が眠ることはない。周りのクラスメイトは互いに約束をしながら学校を後にする。
「じゃあ、またねー」
クラスで交わされた遊びの約束や部活動の話。それも今の私には遠くのものに聞こえた。熱に晒されて暑くなった額に冷えたペットボトルを当てて、一口飲んでから駅へと向かう。その日は水野君に言われた通りに早めに休むことにした。
水野君と連絡先を交換してから音沙汰なく二日経つ。無言のままのスマートフォンを鞄に放り込み、夏休みの課題を進めるために私は区内の図書館を訪れた。静かで勉強しやすい図書館は私と同じような学生の姿がまばらに見えた。
教科書を広げても頭がそれを拒絶する。ぽっかりと開いた虚と寂しさが胸に蔓延って思考をもぎ取っていた。
しばらくぼんやりと過ごしてから私は勉強を諦めた。気分を変えようと小説を取り出したところで明滅する光に気が付く。
スマートフォンの画面を灯して見えた通知は水野君の名前。急いで私はロックを解除する。
『夢喫茶、少し遅くなるけど今日から開くって。早めに行ってみたら?』
送られてきたメッセージを見て、私は大急ぎで片付けをして図書館を後にした。
電車に揺られる時間がとてももどかしくて。どうすることも出来ない焦りと共に目的の駅に辿り着くのを待つ。電車を降りて私は駆け足気味に喫茶店へと向かった。そうして見えてきた喫茶店の姿を見て私は足を止める。
カーテンが開けられ、灯りが灯される店内。中の様子は変わっているが落ち着きのある佇まいがそこにある。その姿を見て自然と安堵の息が溢れた。
水野君によると今日の開店は十三時だ。時間を確認するとそれより少し早い。
不躾だと思いながらも私は静かにお店の扉に手を掛ける。ゆっくり引くと、扉は拒絶することなく私を迎え入れた。
「白谷さん」
驚いたようなマスターの声が私の耳に届く。
「開店前にすみません、その……」
きっちりとアイロンをかけたシャツに黒のベスト姿。変わらないマスターの姿がそこにあって、いつの間にか私の目から涙が溢れていた。
私はいつものカウンター席に座る。落ち着くのを見計らってマスターは声を掛けてくれた。
「すまないね。ちゃんとした案内も出来ずに」
「こちらこそ、開店前にすみません……」
申し訳なさそうに笑うマスターは少し痩せたように見えた。その私の視線に気が付いたのか、マスターは苦笑を色濃くした。
「店の備品に不備があって、その対応に追われてね。本当はもう少し早く開けるつもりだったんだけど、ちょっと頑張りすぎたのが祟ったみたいだ」
でももう大丈夫と言ってマスターは笑った。大丈夫とは言うものの体調を崩していたのは事実で、少し痩せた姿を見ると不安が残る。
マスターの言葉を受けて私はカウンターや店内を改めて見渡す。そういえば随分と物の配置が変わったように思う。聞けば前から不調があって店内を改修するつもりだったそうだ。内装もまた洋も和も似合いそうなモダンな雰囲気になっていた。
「この店を好きでいてくれるのは嬉しい。でも、この世は無常でね。変わらないものはない」
マスターは少し寂しそうな笑顔を浮かべる。
「物は朽ちるし、人は死ぬ。いつか必ず別れる時が来る。最後に寄るべき処は――君自身の中に持った方がいい」
自分自身分かっていた。マスターと夢喫茶を頼りすぎていたことを。一時ならそれはそれでいいのだろう。ただずっとそれでは駄目なのだ。
もし、その寄るべき場所がなくなった時どうするのか。自身の中に軸を持たなければ今のように途方に暮れるだけだ。
身に染みるほどの静かな空間。クラシックの旋律が沈黙の中で穏やかに流れる。マスターが軽く息をついて、その沈黙を優しく破った。
「みんなに迷惑をかけたお詫びを込めて、今日は特別な一品を用意したんだ。よければ先にいただいてみてくれないかな」
その申し出に断る理由などない。私は静かに頷く。
「……はい」
少々お待ちを、と言ってマスターは準備を始めた。流れるようなマスターの動きが脳内で再生され――私は目の前の光景と比べて目を見張る。
それはいつものマスターなら考えられないぎこちない動き。どこか手探りにも似た動きに私は釘付けになる。それでも着々と手は進み、今日の一品とお茶が目の前に置かれた。
「どうぞご賞味あれ。特製星屑ようかんと煎茶だ」
白い皿に乗るのは星空を閉じ込めたような美しいようかん。青と白の二層で出来ていて、青い層は紺から淡い青のグラデーションを織りなしていた。そこに散りばめられたアラザンが昴のように輝いている。その逸品と共にするのは日本の日常を代表する煎茶。
「すごい、綺麗……」
思わず溢れる感想。洋菓子も綺麗と思うけれど、和菓子の美しさはそれとは違って見惚れるものが多いと思う。まさにそれが目の前にあって食べるのを躊躇うほどだ。
マスターの促すような視線を受けて、竹の菓子楊枝で一口大に切り取る。滑らかな触感と共に切り取られる断面も美しい。
青い部分は寒天でしっかりとした食感だ。白い層は白餡で出来ていて爽やかな甘さ。そこにほんのりと乗る果物の甘味、それは。
「桃、ですか?」
「そう、白い層は白桃のようかんなんだ」
ほんのりと優しい桃の味が広がる。見た目も味わいもさっぱりしていて夏にふさわしい一品だ。共に出された煎茶を飲むと気持ちも自然と落ち着いた。
ゆっくりと時間をかけて星屑ようかんを頂く。半分ほど食べ進めたところで私は手を止めた。
「あの、マスター」
そう声を掛けて訪れるのは沈黙。
聞きたいけれど聞いていいか分からない問い。それを口にしようとしたものの、それは形とならずに言葉は途切れた。
マスターは私を見て微笑み、私の代わりに言葉を続ける。
「私は右目が見えないんだ。左目もあまり視力が良くないから、勝手が変わっていつものように立ち振る舞えなくてね。早く慣れようとしたところで少し張り切りすぎて寝込んでしまった」
そうはっきり告げられて、マスターのぎこちない動きが腑に落ちた。少し話を聞いてくれないかな、と問われて私は無言で頷く。
「この目だからね、人に助けられながらこのお店をやってきたよ。今回も色々な人に迷惑を掛けた」
目が不自由な分、普通以上に人に頼らざるを得ない部分が出てくる。その部分は信頼のおける人に全て任せ、マスターはお店ともてなしに注力してきた。目以外の感覚を駆使しながら。
触る感覚や重さ、香り、話す人の声の抑揚、微細な感じる味覚、そして人を思う意識で。その感覚が微細に行き渡って夢喫茶は成り立っていた。
「昔は和菓子を作っていたんだけれどね、こんな目になって続けるのを諦めたんだ。でも、誰かの笑顔を諦めきれなくてこうして店を開いている。だから来てくれる人に少しでも利益のある場所であればと思ってるんだ」
他の人の成長を願うその心。エゴのない、見返りを求めない献身。
この喫茶店ではお客さんに値段を決めてもらうんだ。
ああだから――ここはそういう場所なのだ。
「白谷さん、君ももっと相手のことを頼っていいんだよ。それは迷惑じゃなくて信頼だ」
言い換えれば、私は他の人を信頼していないのかもしれない。一人で抱え込んで独りで崩れ落ちようとしている。そこまで言われて私は悟る。いや、もう前からなんとなく気が付いていた。
マスターは私の秘密に気付いている。
「私では君の導になれないかな?」
きゅっと膝に乗せる手に力を込め、私は残った星屑ようかんを見つめる。
綺麗な紺色の星原。
ここまで導かれても尚迷う心。その迷いを晴らすように一枚の紙がお皿の横に差し出された。それは西洋絵画の展示会のフライヤーだ。
「そうだね。まずはここから始めてみたらどうかな?」
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