第17話 ただ一滴の雫
私は彩乃と共に美術室の前に立つ。彩乃と話をしようと決心して何度も足を運んでは入れなかったその場所。授業が終われば当たり前のように通っていたのを考えると随分長いこと離れてしまったように思う。
その一線を超え、私は中へと入る。そこには既に部活動を始めていた部員と顧問の先生がいた。皆の驚いたような視線が注がれる中、安堵の笑みを浮かべ先生が歩み寄る。
「白谷さん」
「心配をかけてすみませんでした」
私はまずお詫びを言った。様々な理由はあったけれど長いこと部活に行けずに心配をかけたのだ。先生は驚いたような表情をしてから、ふわりと笑う。
「いいのよ。また来てくれて嬉しいわ」
先生も部員のみんなも私を快く迎えてくれた。ただ、気を使わせてしまうと思い、目のことは顧問の先生にだけ伝えた。
美術部は文化祭の作品制作の真っ最中だ。今年の題に合わせた作品は多種多様で、今年のものは特に解釈の仕方で何でも出来そうで難しい。
戻ってきた私も参加するのだけれど、制作できる期間が短くなってしまったから集中して取り組まないと間に合わないだろう。提示された題から何を表現したいか模索していく。
何を伝えたいか、どう見せたいか。それは写真の展示会を通して得た作品の作り方。私はあの写真の展示を思い出しながら土台を固めていく。後から軸がぶれないよう、始めに作りたい形を明確にしていくのが大切だ。模索していく中で、今回は連作で制作することに決めた。画材はアクリル絵の具。
ジェッソとモデリングペーストを塗った木製パネルにアクリル絵の具で描いていく。キャンバスとは違って下地の凹凸が独特な陰影を付けた。一つ一つ作品を、思いを形にしていく。
何かを作るということは、思いを形にすることだ。
日々作品と向かううちに、もう一つ準備を進めていた予定も翌日に控えていた。あっという間に過ぎていく時間に少しだけ焦りを覚える。
「彩乃、明日はよろしく」
「うん、じゃあまたね!」
明日は大切な日だ。その日はいつもより部活を早めに切り上げて、私達は翌日に備えた。
そうして迎える翌日。彩乃と共に私は夢喫茶に向かう。しかし、今日は大分意味合いが違う。中の様子もいつもとは全く異なっていた。
漂う小豆を茹でる香り。甘く煮付けた小豆を潰し、半分は越して滑らかにする。それを同じ大きさで取り、丸めておけばこちらは準備完了。
機械がごとごとと立てる音が辺りに響く。作業場になるのし板に片栗粉で打ち粉をして出来上がりの時を待った。
「もういいかな」
マスターが機械を開けると、ふわりと上がる湯気と共にいい匂いが辺りに漂った。私の隣で彩乃が声を上げる。
「わぁ、お餅になってる」
ごとごとと身を揺らす機械――それは電動の餅つき機だ。蒸かした餅米は綺麗にこねられ、粒のない滑らかなお餅に様変わりしていた。
「……こんなもの貸してるんだな」
餅つき機を眺めながら感心したように言うのは水野君だ。この餅つき機、実はレンタル品なのだ。
「最近は色々あって便利だよな」
そう言いながら橙山さんは蒸している餅米を確認する。枠付きののし板にはマスターと橙山さんによって均等の大きさに整えられた餡子が並んでいた。
「すごい」
それを興味津々といった表情で見つめるのは日向大君だ。今回のお願い事をした時によければ日向大君も誘いたいとマスターから言われ、声を掛けていた。
「それでは始めて行こうか。まず私がやってみるよ」
そう言ってマスターはつき上がった餅をのし板に軽々と乗せる。そのまま餅の端をつまみ、左手の親指と人差し指をすぼめて右手で千切った。手の平に乗せていったん丸く形を整え、その後に平たく伸ばしていく。
その中央に丸めておいた餡を乗せ、餅を回しながら包み込んでいく。完全に餡が見えなくなるときゅっと搾り、下に向けて丸く形を整えた。綺麗な形になったところで完成。その一挙手一投足はさすがの美しさだ。
「はぁ〜、すごい。綺麗な大福」
柚葉ちゃんがのし板に乗る大福を見つめる。彼女の言う通り乱れがなく、滑らかな肌の大福はとても綺麗だ。
「千切っていくから、それぞれ包んでいってみたらいいよ」
マスターは先ほどと同じように餅の端をつまんで千切っていく。次々と餅がのし板に乗せられる中、私は打ち粉を手に軽くまぶしてから一つ手に取った。
餅に餡を乗せて包んでいく。先ほどのマスターの手本のようにはいかないが、引き伸ばされた餅がゆっくりと案を包み込んだ。丸く形を整えて、同じようにのし板にそっと置く。それを見た彩乃が感心したような声を漏らす。
「すごい、友紀も上手」
「おばあちゃんの手伝いよくしてたから。といっても、包み方は自己流だけどね」
祖母がお彼岸や年末の時にぼた餅や大福を手作りしてくれていたのだ。その時に手伝わせてもらって、大福を包むこと自体は慣れている。
「ああ、とても綺麗だよ」
のし板に乗った大福を見てマスターは笑う。褒められて少し気恥ずかしいけれど返すべき言葉はただ一つだ。
「ありがとうございます」
「……いや、ほんと上手いと思うわ」
そう言う水野君が見つめる先は柚葉ちゃんの手元だ。その手の中にあるのは餡の色が見えるちょっと歪な大福。水野君の指摘に不服そうな声を上げる。
「いや、初めてにしては上出来でしょ」
「さすがに餡子見えすぎだろ」
そう言って水野君はのし板の上に作った大福を置く。
うっすらと餡の色が見えるがなかなか整った大福の姿だ。それを見た柚葉ちゃんは更に眉根を寄せて、納得いかないと言わんばかりの顔をした。その後続いたのは半ば開き直ったような言葉だ。
「いいんだもん。自分で食べるやつですからー」
その発言に水野君が呆れた表情をしたのは言うまでもない。その脇では日向大君と橙山さんが餡を包んでいた。
「あー……。失敗しちゃった」
「大丈夫。ほらもう一個やってみ」
餅を一つ千切って日向大君の前に置く。受け取った日向大君は真剣な表情でもう一度餡を包み始めた。普段ではなかなかできない大福作りに夢中になっているようだ。それを見届けてから橙山さんも餅と餡子を手に取る。
くるくると手の中で回るお餅。程なくして完成した大福はやっぱり綺麗だった。それに切れ目を入れてヘタをとった苺を間に乗せれば見た目も華やかな苺大福となる。食べていいぞと言われ、日向大君は大切そうにそれを受け取った。
そうして並んでいく大福。それぞれ個性的で見ていて面白い。
今日はもう一品作る。先ほど橙山さんが用意していた餅米をすり鉢で半ばほど潰す。半殺しの餅米を同じ大きさに丸めておけば準備は万端。
餅を押し広げて餡を包む。それをきな粉の入った器に入れ、さらに茶こしを通してまぶせばきな粉のぼた餅の完成だ。
「うん、美味しそう」
自分が作ったものを改めて見て彩乃が納得したように呟いた。彼女も作ることが好きで自分なりのこだわりを持っている。その様子を見て今日は納得できたんだろうなと私は思った。
今日の予定。それはみんなでお餅作りをすること――ではない。本当に個人的な理由のために私は喫茶店をお借りした。せっかくだからと皆でお餅を作ることになり、更には夢喫茶の今日の一品になった。
お客様を迎えるための準備を整え、私はその時を待つ。
「それじゃあ、準備はいいかな」
「はい」
貸し切りの夢喫茶に招くお客様。見慣れた二つの姿がお店の入り口に現れる。
訪れたのは私の母と兄。あかりさんが作った新しいショップカードと共に夢喫茶へ来て欲しいと誘ったのだ。
私はカウンターの席を勧める。座った母は物珍しそうに店内を見渡した。
「素敵なお店ね」
「うん」
たわいもない話をしながら私はもう一人の来客を待つ。そして、約束の時間の少し前にお店の扉が再び開いた。
訪れた人を見て母が驚いた表情をした。夢喫茶を訪れたもう一人は私の父だ。
母と兄、その一つ席を開けて父がカウンターに座る。あえて母と父にはここのお店に互いが来ることを告げていなかった。先に言ってしまったら来ないかもしれないと思ったからだ。やはり顔を合わせ辛いのか、何ともいえない空気感が辺りを包む。
私はその空気を静かに破る。
「今日は来てくれてありがとう。まずはこれをどうぞ」
一皿に乗るのは白と金色の和菓子。大福ときな粉のぼた餅だ。
戸惑ったままの表情の三人に対して私はお茶を入れる。ほうじ茶の香ばしい香りが辺りに広がった。
それは今の私が出来る思いを込めて準備をしたおもてなし。
そんな中、始めに動いたのは兄だった。大福を竹の菓子楊枝で一口大に切り取り口に運ぶ。少し緊張しながら私はその様子を見守る。
「美味い」
硬かった兄の表情が綻んだ。それと共にその場の空気も柔らかくなる。
食べてみなよと今度は兄が母と父を促した。二人はそれぞれ菓子楊枝を手にしてお菓子を口にする。
「……おばあちゃん思い出すわ」
ぽつりと呟かれた母の言葉は穏やかだった。父は無言のままだったが、ほうじ茶で口休めをしながらお菓子を食べてくれた。
皆が食べ終え、私は改めて本来の目的を口にする。
「話したいことがあって来てもらったんだ。伝えておきたい、大切なこと」
話すのは私がひた隠しにしてきた秘密。そして、目の状態が悪い中でも出来る限り絵を描いていきたいということ。
思いも事実も、隠さずにありのままを伝える。
その後の空気をどう言ったらいいのだろう。
私の話を聞いた兄は沈黙し、父は目を伏せ、母は静かに涙した。私が伝えた以上の会話はなく、落ち着いたところで母と兄は自宅へと帰っていった。兄が自宅まで一緒に行ってくれると言ってくれて私は安堵する。
家に帰ったらまた改めて話をしようと、二人の後ろ姿を見て私は思う。
「友紀、無理はするな」
帰りがけに父はそう言った。気を使うような視線がとても印象的だった。
お客様が帰った店内は静かで寂しい。私は一人カウンターの中からその風景を眺める。貸し切りの時間も終わり、夢喫茶はもうすぐ通常の営業を始める。
「お疲れ様。少し休んでいくといいよ」
マスターがほうじ茶を入れてくれて、私は自分が作った大福を頬張る。優しい餡の甘味ともちもちとしたお餅は裏切ることない味。
そんな私の隣で彩乃もきな粉のぼた餅を食べる。それぞれ作ったものはお土産としてマスターが包んでくれた。
「話せてよかったね」
「うん、今日はありがとう」
自分で作ったお茶菓子をもてなしながらこのお店で家族と話をしたい。そんな私のわがままをマスターは快く承諾してくれた。それだけでなく、彩乃をはじめとしたみんなが準備を一緒にしてくれ、作る時間を共有してくれた。ありがとうという言葉だけではすまない。
「うん、ほんとによかった。皆でこうやって何か作るのって楽しかったし」
柚葉ちゃんもそう言ってくれ、私はほっと胸を撫で下ろす。水野君は片付けを終えて早々に帰ってしまったけれど、私にはその横顔がいつもより優しく見えた。彩乃と柚葉ちゃんも一服終えてお店を後にする。
「またね!」
「うん」
その言葉通り、また私たちは夢喫茶で会うだろう。ごく自然に、当たり前のように。
お茶をしているうちに夢喫茶にはいつものお客さんたちがやって来ていた。
今日のお礼を込めて私はお店のお手伝いをする。席に届ける和菓子は普段の夢喫茶では目にしない一品で、お客さんは珍しそうに眺めて口に運ぶ。
「大福とおはぎとても美味しかったわ。たまにはこういうのもいいわね」
壮年の女性はマスターにそう言うと、会計を済ませて店を後にした。その笑顔と感想が何よりも温かくてありがたかった。そして、私は窓際に座る男性に視線を向ける。
所定席でパソコンと向かい合うのは時雨さんだ。それはいつの間にか見慣れた光景。不意に時雨さんが手を上げてマスターに声を掛ける。
「マスター、今日の食事お願いします」
「ああ、少々お待ちを」
時雨さんの注文を受けてマスターが準備を始める。その間も時雨さんは手を止めることなくキーボードを打ち続けていた。出来上がった食事を手に私は時雨さんの元へ赴く。
「お待たせしました」
テーブルに届けるのは綺麗に整った五目おにぎりと高菜のおにぎり。それに添えられるのは根菜たっぷりのお味噌汁とお漬物。今までの夢喫茶とはちょっと違う和の御膳だ。
そして、一緒に届ける今日のお菓子。
珍しいメニューに時雨さんは少し驚いた表情をする。それから目の前に並ぶ和菓子をまじまじと眺め、時雨さんは訝しげにマスターを見た。
「……マスター、お菓子は頼んでいないんですけど」
「ぜひ食べてもらいたくてね。お代はいらないよ。それにそれは白谷さんが作ってくれたものでね」
マスターの発言に時雨さんの戸惑った視線が私に向けられる。私は姿勢を整えてから口を開いた。
「『虹色カレイドスコープ』とても面白かったです。ファンタジーの世界ですけど、主人公の女の子が出会う人たちと変わっていく姿がとても丁寧に描かれていて。悩む姿も喜ぶ姿もすごく共感できました。続きも楽しみにしています」
化学反応。それは人と人との関わり合いも似たようなもので、何気ない出会いや一言ががらりと取り巻く環境を一変させる。
思い出すのは夜明けのティータイム。
透き通る青から紫、そしてレモン果汁を落として変化する薄桃色。それはまるでそれは夜が明けていくような移り変わり。
変えたのはただの一滴の雫。しかし、それは何よりも大切な分岐点。
もし誰かのきっかけや支えになるのなら、私は私の思いを何かしら形にして伝えたい。
時雨さんは言葉なく目の前に並ぶ食事に視線を戻す。特に気にすることもなく、私は軽く会釈をしてカウンターに戻ろうとした時だった。
「……ありがとう」
その言葉に驚いて私は振り返って時雨さんを見る。そこには少し照れ臭そうな表情をする時雨さんがいて。
算段も理屈もない、ただ愚直とさえ言える言葉と行為。けれど確かにそれは相手に伝わる。
変わっていける。
家族の関係もきっと私達にとって最適な形になっていく。それが普通とは少し違う形だとしても。そう信じて今日はこの店に家族を誘った。
「こちらこそありがとうございます。お餅、よかったら食べてください」
私はもう一度会釈をしてカウンターに戻りお店のお手伝いを続けた。時雨さんは食事を終えた後、少しだけパソコンを開いてお店を後にする。そのテーブル席には一枚の大きな付箋が残されていた。
『おもち美味しかった。ご馳走様。時雨』
右上がりの少し特徴的な字だった。
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