第16話 雨は上がりて

 日が長くなって来た温かい時期。夕陽が傾き、夜の気配が近づく時間帯に私達は美術室にいた。


「友紀」


 覗き込む影に気がついて私は視線を上げる。一足先に片付けを終えた彩乃が隣に立っていた。


「あ、ごめん。あとちょっと……」


 せめて今日はこの部分だけ直しておきたい。そう思って私は手を合わせる。

 彩乃はしょうがないなぁ、と言いながら横に座った。思いを汲んでくれた友人に感謝しながら、私は筆を進める。

 しばらくの沈黙の後、彩乃がぽつりと呟く。


「友紀は真面目すぎるんだよ。もっと気楽にしていいと思う」

「……そうかな?」


 いまいちピンと来ない私に対して、そうだよと彩乃は念を押す。更に重ねるように言葉を続けた。


「私でよければいつでも話聞くからね。だから我慢しちゃダメだよ」

「ありがと」


 そう言われたのは確か中学三年の春の時期だったと思う。

 すこしうろ覚えの記憶。

 それが今になって返り咲く。



 *  *  *



 二人で泣いてようやく落ちついた頃、私達はベンチに座り直す。泣きはらした彩乃の目は真っ赤だった。

 木陰のベンチに落ちる光は不定形に形を変える。湿気混じりの暑さも今は別世界のようで、遠くはしゃぐ子供の姿を見ながら私は口を開いた。


「ずっと言えなくて……ごめん」


 私の詫びに彩乃は緩く首を横に振る。


「……ううん、話してくれて良かった」


 彩乃の心底安心したような声を聞いてようやく私は気が付く。

 言わなければ分からない。それは他の人ももちろんだけれど、自分に対しても言えることだ。言葉にしてようやく自分がどうしたかったのか整理されていて、今では心が不思議と気持ちが落ち着いている。今まで話せなかった分、ゆっくり彩乃と過ごしたいと思った。


 行きたい所があるんだ、と言うと彩乃は何も聞かずにいいよと返してくれた。信頼しているってこういうことなのかと思っていると、彼女は笑った。


「友紀が行きたいところ、連れてって?」


 私達は上野公園を後にして電車に乗る。少し名残惜しそうに、また展示見に来ようねと彩乃が呟いた。

 揺れる電車の中では特に会話はなかったけれどそれで良かった。無理に話さなくていいという空気感が目的地に少しだけ似ていた。最寄り駅に降りてから彩乃が興味深そうに辺りを眺める。


「素敵なお店が多いね」

「うん」


 私は夢喫茶の話をしながら目的地に向かった。知らない町を歩くのが新鮮なのだろう。彩乃は頷きながら話を聞いてくれた。

 そうして辿り着く小さな喫茶店。それほど長くない期間に見慣れたなと改めて思う。私は静かに扉を開けた。

 そこにあるには変わりない初老の男性の姿。柔らかいマスターの声が私達を出迎える。


「いらっしゃい」

「こんにちは、マスター」


 そしてカウンターには水野君と柚葉ちゃんの姿があった。


「……大丈夫か?」


 問い掛ける水野君の声に少しだけ不安が滲む。奥に座る柚葉ちゃんも心配そうな表情を浮かべていた。

 散々泣いてきたのだ、きっとひどい顔をしているんだろうなと思う。それでも心は晴れやかだった。ずっと一人で抱えていた物を背負ってもらったから。二人に向かって私は笑って応える。


「うん、大丈夫」


 私は改めてお店を見渡した。昼過ぎなのにもかかわらず、他に人は誰もいない。マスターが人払いをしてくれてたんだと直感的に悟る。

 隣に視線を向けると彩乃が驚いたような表情をしていた。それと同じ声音で見つめる人の名を呼ぶ。


「水野君」

「どうも」

「知ってるの?」

「うん、中学校の時、一緒のクラスだったことがあったから……」


 彩乃の言葉でなるほどと納得する。広いようで世間は狭いと言うけれど本当にそういうものなのだなと思う。ただ少しだけ、私には彩乃の顔に複雑な感情が混じっているように見えた。


「飲み物と甘いお菓子でもいかがかな?」

「……はい、お願いします」


 マスターの勧めで私達はカウンターに腰を掛ける。その動作にぎこちなさはあったが、以前見た時よりも滑らかになっていた。その姿を見て安堵した後、私は口を開く。


「二人にも話しておきたいことがあるんだ」


 右手に座る水野君と柚葉ちゃんに視線を向ける。姿勢を正す二人は真っ直ぐこちらを見て頷いた。


「私――」


 そうして告げた私の秘密。

 その後に訪れるのは深い沈黙だ。私の好きな月の光の旋律とマスターがカップの準備を進める音だけが響いていた。

 何と言っていいのか分からないという二人の雰囲気伝わってくる。だからこそ私は言葉を続ける。


「……でも、今はやっぱり好きだから、描けるまでは描こうと思うんだ。自分がもう手放しても大丈夫だって思える時まで」


 目が見えなくなった時、絵が描けなくてきっと苦しむだろう。絵を描くことを拠り所に――自分という存在を意味付けるものだと執着していたから。だからこそ、いっぺんに手放そうと思った。描けなくなるなら意味がないと思った。

 それでは今はどうなのか。


 今は単純に好きという気持ちだけが残っていた。好きという思いはどんなに頑張っても今は消えなくて。だから今度は離れても大丈夫なように、絵を描きながら少しずつ心を落ち着かせていこうと思った。

 それが私の出した結論。

 私の言葉に対して始めに応えたのは水野君だった。


「……強いよな」


 その言葉に私は首を横に振る。


「……ううん。手放した方が楽かな、とか思ったりして。彩乃に話せてようやく整理できたって感じ」


 色々なものに執着したから苦しんで、手放した方が楽だと気が付いた。自尊心も卑屈も居場所を求める気持ちも、自分を守ろうとしたものすべてがただの重荷だった。


 まだそのすべてを理解して手放しているとは言えないけれど、それでも今はいいと思った。それが今の自分の正直な気持ちだ。

 少し驚いた表情をしてから、そっかと言って水野君は微かに笑った。

 そんな様子を見てマスターも微笑む。そうして一際目立つ一皿が目の前に現れた。


「では、今日の逸品――ドゥーブルフロマージュだ」


 カウンターに乗せられたのは雪化粧した真っ白なケーキ。それは切り分けられることなく、綺麗な円を描いている。

 目の前に現れたホールケーキに四人とも目を瞬かせる。私達の疑問を代弁するのは柚葉ちゃんだ。


「へ?  なんでホールっていうか、何かいつもと違う……」

「そりゃ今日のは逸品だから」


 そう言ってカウンターの奥から出てきた意外な人物で、思わず私はその人の名前を呼んでいた。


「橙山さん」


 いつもと変わりないパーカーとジーンズいうラフな格好だ。

 橙山さんはわずかに視線を反らして頭を掻く。状況を呑み込めないままの私の口から疑問が溢れた。


「逸品って……?」

「それ俺が作ったの」

「え」

「俺、元パティシエで今はここのデザートのメニュー一緒に考えてんの」

「えええぇぇえーーーー!?」



 驚愕の事実に私達は揃って声を上げた。揃いに揃った声の後、続けざまに柚葉ちゃんが口を滑らせる。


「嘘だ、だって滅茶苦茶不器用そ……」

「柚葉ッ」


 すかさず水野君が柚葉ちゃんを肘で突く。肘鉄を喰らった柚葉ちゃんが小さな苦悶の声を上げ、橙山さんは双眸を細めて不適な笑みを浮かべた。


「よし、柚葉は俺がいいと言うまでデザートの注文ダメ。湊真は飯なしな」

「やだ、ごめんなさい!」

「ってかなんで俺まで!」


 三人のやりとりに思わず私は吹き出した。堪えきれなくて笑ってしまう。それにつられて彩乃も笑った。


「笑えるなら大丈夫だな」


 橙山さんはそう言ってドゥーブルフロマージュを手元に寄せる。優しい手つきでケーキナイフをその雪景色に立てた。

 スッと滞りなく入る切れ目。もう一つ切れ目を入れるとケーキサーバーでお皿に乗せていく。一皿一皿続けていくその動作はしなやかで丁寧だ。


「わぁ」


 高揚した彩乃の声が聞こえる。

 目の前に置かれた雪景色のケーキ。白と柔らかいクリーム色の二層で出来ている。さらにその間に紫色の層が見えた。

 いつもはマスターが伝える注文の品。今日はその逸品をもてなした人から改めて告げられる。


「どうぞご賞味あれ。橙山特製ドゥーブルフロマージュだ」


 並ぶ四つの皿。私達はそれをありがたく頂く。


「いただきます」


 ひと口ふくむと、まるで雪のようにとろけだす滑らかなレアチーズ。その下のベイクドチーズケーキの濃厚なミルクが絡み合う。

 そして、その間にある紫の層は爽やかな酸味と甘味。コクがあるチーズによく合うその酸味はブルーベリーだ。


「美味しい……」


 彩乃が満面の笑みを浮かべるのを見て橙山さんも満足そうに笑う。言葉なく食べ進めていると、一番に食べ終わりそうな勢いの柚葉ちゃんがそこに割って入った。


「っていうか、橙山さんがパティシエかぁ。何かここのお菓子とイメージと違うんだけどなぁ」


 確かにパティシエと言われて思い浮かべるのは綺麗に飾り付けられたケーキだ。ガラスケースに整然と並ぶ繊細な姿が脳裏に浮かぶ。夢喫茶のケーキも綺麗だし美味しいけれど、どちらかというと素朴だと思う。

 柚葉ちゃんの言葉に橙山さんは腕を組んで眉根を寄せた。


「……柚葉、ここで綺麗に着飾ったケーキ食いたいか?」

「ううん」


 即座に首を横に振る柚葉ちゃん。そうだろ、と渋い顔で橙山さんは息をついた。続いて隣に立つマスターに一皿差し出す。


「マスターもせっかくだから食べてください」

「いいのかい?」


 橙山さんの申し出に珍しくマスターが意外そうな表情をする。それを見て橙山さんは苦笑した。


「悪いわけないじゃないですか」


 俺も食べますから、と言って残りの一切れを示す。それを聞くとマスターはありがとうと言って笑った。

 一口含む雪景色。その声は本当に優しく広がってその場に染み入る。


「ああ、やっぱり美味しい」


 良くも悪くも込めた気持ちは物に宿る。それは作品であっても食事であっても変わらないかもしれない。いや、食事だからこそより強く感じるのかもしれないと私は思った。

 マスターが作る料理も橙山さんが作ったケーキもどちらも心がこもっていて美味しい。愛がこもっていると言った晴人さんの言葉が改めて頭に浮かんだ。

 貸しきりの喫茶店でマスターと客が一緒にお茶をする。とても不思議な空間でありながら、まるで当たり前のような一時。


「あの」


 自然と溢れた言葉にみんなの視線が集中する。

 ふと思い付いたやりたいこと。

 もし形に出来るのならここでそれをしてみたい。


「もしよかったら、私のわがまま聞いてもらえませんか?」

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