第15話 霞の先に

 夏休みの晴れたある一日、私は彩乃と会う約束をした。西洋絵画の展示会を見に行こうという約束だった。前に展示会の誘いを断ったことに対する不安があったが、彩乃は二つ返事で返してくれた。


『もちろん! 楽しみにしてる!』


 その時のメッセージを見てから私は空を仰ぐ。

 午前十時過ぎ。既に駅は待ち合わせや公園へ向かう人で賑わっていた。


 天気は快晴で陽が眩しい。暑すぎるぐらいだ。むしろ少し陰ってくれていた方が親切なのではと思ってしまう。カラッとした暑さではなく湿気を含んだ熱風が漂うのだから打つ手もない。

 そんな思考を打ち切る弾んだ声が耳に届く。


「友紀!」


 振り返ると手を上げて駆け寄る彩乃の姿がそこにあった。柔らかなフレアスカートが翻る。


「ごめん、待った?」

「ううん、大丈夫」


 待ち合わせの十分前に噴水広場に合流する。そう、今日は奇しくも写真撮影を行った上野公園の美術館での展示だ。


「じゃあ行こう」


 そう言って彩乃は率先して道を歩き出す。横に並ぶ彼女はとても嬉しそうに笑っていた。


「なんかすごく嬉しそう」

「嬉しいよ、だって友紀と久し振りの展示会だもん」


 彩乃は屈託なく笑った。それに伴って栗色の髪がさらりと揺れる。天真爛漫で人を惹き付ける笑顔だなと改めて思う。腕を後ろに回してわずかに体を傾けながら私を覗き込んだ。


「友紀は嬉しくない?」


 相手が男だったら勘違いしそうだなぁなんてらしくないことを思いながら、私はつられて笑う。


「嬉しい」


 私の答えに満面の笑みを浮かべ、彩乃の足取りはよりいっそう軽くなる。話ながら歩いているとあっという間に目的地に着いた。


 今日やって来たのは印象派を代表するフランス画家、クロード・モネの展示。

 絵画をあまり知らなくても代表作である《パラソルを差す女》や《睡蓮》を見たら、ああこの作者かと思うんじゃないだろうか。絵画に詳しいとは言えない私も知っている著名な画家。


 美術館は人で賑わっている。観覧チケットを買う窓口にも人が並んでいた。私達は前売り券を持っていたので待つことなく美術館の中へと入る。しっとりと落ち着いた空間には大小さまざまなキャンバスが飾られている。


 《印象派》

 戸外制作を重視し、物の固有色ではなく、自分が認識した感覚――日光やその反射を受けて目に映る《印象》を再現することを追求した。

 絵具をパレットで混ぜずに、素早い筆さばきでキャンバスに乗せていく。実物を近くで見るとその筆遣いがよく分かる。近くでは朧げで形を結ばない絵画も、離れて見ると明るく臨場感のある画面が華やかに広がる。

 作品と共に掲示される作者の経歴と背景。それは作者が生きた道そのもので、その足跡を一つ一つ辿っていく。


 《ラ・グルヌイエール》

 水上に浮かぶボートと小島で会話を嗜む人々。勢いのある筆遣いできらきらと反射する水面が描かれている。光と水がまるでそこにあるかのようだ。絵から爽やかな季節と空気を感じる。モネはルノワールと共に反射する太陽光をどのように表現するか熱中していたとか。


 《睡蓮》

 光と水が織り成す色を追求したモネの代表作。

 淡い色彩が美しい。水面に映り込む柳の影などで空間が画面外に広がっていることを想像させる。連作で作られた《水蓮》は作品数も多い。ジヴェルニーの庭園は代表作である水蓮が植えられた水の庭やバラのアーチ、温室の設備もあり、それだけでも作品といえる代物だ。

 それらを圧倒する作品を目の前にして私達は息を呑む。

 それはル・アーブルの港の風景を描いた油彩作品。当時の展示会では酷評された、印象派の名前の由来となる重要な作品。


 《印象、日の出》


「わぁ……」


 彩乃の声がその場に溶けて消える。見た瞬間、私達はその絵に呑み込まれていた。

 日の出の橙色。澄み切っていて、まるで本当に太陽そこにあって光を発しているようだった。太陽の光と霞む朝の港の空気感がここにある。


「……すごい」


 圧倒される時は本当に大した言葉も出てこないのだと初めて知る。この気持ちをどうやったら表現出来るだろう。この絵が持つ魅力をどうしたら伝えられるだろう。その答えは出そうにない。


 ただ、ずっと眺めていたい。そう思うほどに綺麗な太陽の色だった。

 私達はしばらくそれを眺めていた。目に焼き付けるように。余さず自分に中へ取り込むように。

 そしてまた一つ進めば、新たな一面を知る。


 《日本橋と睡蓮》

 日本風の太鼓橋、水面に浮かぶ睡蓮と湖面に映る柳の姿。和と洋が混じりあう絶妙な均衡を保っているように見えた。

 私達は和と洋の文化が織り成した作品を見ながら思いを馳せる。


「日本文化が大きな影響を与えたなんて、なんか不思議な感じ」

「うん」


 ヨーロッパ各国で開催された万国博覧会をきっかけに、浮世絵を中心とした日本の美術工芸品が大々的に紹介された。モネが活躍したパリは日本ブームの真っ最中。西洋に渡っていった浮世絵はジャポニスムと呼ばれ、印象派の画家たちに影響を与える。モネもまた浮世絵を収集していて、生涯に集めた数は現在確認できるだけでも二百点以上になるという。


 その他にも十代で描いたカリカチュアも展示されていて面白い。売り出された作品は町中でも評判になっていたそう。

 辿るごとに知る作者の一面。下積みと苦難を重ねながらも絵を描き続ける情熱は圧倒される。


 そうして最後に踏み入れる展示室。

 がらりと作風が変わる。画面に広がる濃い色彩と荒々しい筆遣い。圧倒されるほどの巨大なキャンバスが展示されていた。そして、ガラスケースに展示されている物を見て私は食い入るようにそれを見つめる。

 ガラスケースの中にあるのはモネが使ったとされる眼鏡や絵画道具だ。


「モネの晩年って白内障だったんだね。それでもこんな大きな絵を描き続けてたんだ」


 そう呟いて彩乃は巨大なキャンバスを見上げる。

 白内障を患いながらも芸術への熱は消えることなく、モネはシヴェルニーの庭園で絵を描き続けた。混濁した水晶体の影響で細部は見えず、健常時の色は保てない。晩年の作品で暖色が多く鮮やかなのもこのためだという。

 作品を追求し続ける。

 霞んだ視界の中、八十六歳この世を去るまで――。


「ゆ、友紀?」


 狼狽えた彩乃の声が耳に届く。その声に私は自分の異変に気がつく。

 自然と涙が頬を伝って慌てて涙を拭った。ただ、一度溢れた涙は――感情は塞き止められない。

 周りの人たちの視線もあって私達は足早に美術館を出た。彩乃に導かれるように歩き、公園に程近い木陰のベンチに座る。


「友紀、どうしたの……?」


 賑やかな公園と相反する静かな空間。心配と困惑に揺れる彩乃の声がする。


「網膜色素変性症」

「え?」

「私の病気。視野が狭くなってて――目の縁の方よく見えないんだ」


 すっと空気が冷える。彩乃が息を呑んだのが分かった。

 ずっと止めていた秘密が感情と共に溢れ出す。

 どうすることも出来ない事実に一人蹲ることしかできなかった、あの霧雨の日を思い出す。


「少し暗い所が見辛いって感じてたんだけど気付かないふりをしてた。春先になって外側の方がよく見えなくなってきてるのに気が付いて……病院に行って、それで」

「治療は……」

「病気の進行を確実に止める方法は……確立されていないんだって。失明もありえる病気だって」


 そこまで言って途切れる言葉。遠くで聞こえる笑い声がとてつもなく遠くの世界の出来事のように聞こえた。

 それを壊すように感情が止めどもなく溢れてくる。


「だから離れようと思った」


 好きだったから。目が見えなくなるかもしれない未来を見て、その時が訪れるのが何よりも怖かった。いっそ今手放した方が楽じゃないかと思った。


「でも、写真を撮って。それも楽しかったんだけど、絵を描きたいなって思っちゃった。苦しくてまた捨てようと思った」


 写真を撮ったことで露わになった本当の気持ち。

 確かに絵を描いて誉められることは嬉しかった。父に認められもらえた時は安堵した。でもそれ以上に大切なものがあって、それはとっくの昔に知っていた。

 上手くもなく、技術も知らない頃。ただ純粋にあった気持ち。

 ただ単純に絵を友人達と描いているのが好きだった。


「でも、描きたいって、その思いはやっぱり消えなくて」


 霞の先に絵を描き続けた画家がいて。

 見えない片目でもてなす心を持ち続けた人がいて。

 今まだ見えるこの目で、何も出来ないなんてない。

 あとはどうするか。どうしたいかは――自分の気持ちだけ。


「わたし、まだ描いていてもいいかな。ちゃんとしたもの描けなくても、みっともなくても笑われても。描きたいものを描けるまで……描いてていいかな?」


 きっと、自分の中の理想の絵は描けなくなるだろう。

 それでも。

 描けなくなるその日が訪れても後悔がないように、描いていたい。

 最後の最後まで吐露されたわたしの心。その言葉に寄り添うように彩乃は私の肩に触れる。その手は微かに震えていた。


「ごめん」


 揺れる声と共にそっと私を包み込む。

 それは優しくて暖かくて。

 それ以上の言葉なく、ただ二人で涙を流した。

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