第4話 キリトリの世界
新緑の時期、私は校舎の片隅で濃さを増した空を見上げる。
「進路かぁ」
配られたプリントを見ながら隣に座る親友がため息をつく。
「具体的にっていうとまだまだ分からないよね」
学年が上がって早々に開かれた進路ガイダンス。そして、新しいクラスに慣れ始めた頃に差し掛かる頃の個人面談。進路を決めるのには早すぎる気もするけれど、三年になったら勉強でそれどころではないのだろう。時間のある二年の夏のうちにオープンキャンパスを見にいく人もいるという話だ。
けれど、みんなまだ現実を帯びない夢の途中。私も例外なくそんな一人だ。
「そうだね」
かきんと遠くからボールが弾き飛ばされる音がする。
野球部の練習試合がグランドで行われていた。ざわめく声と声援。その賑やかさから私は起死回生の一打なのかもしれないと思った。他にも様々な部活動の生徒が練習に励んでいる姿が見える。
キラキラと輝く笑顔。中には明確な夢を持った同級生がいるもの事実で、その煌びやかな世界が目に痛い。なりたい目標が見つからない自分が情けなく感じてしまうことがある。いや、正確に言えば目標はあった。
ただ、今の私が理想を語るには――視野が狭すぎるのだ。
「友紀」
名前を呼ばれて私は遠い彼方から視線を戻す。そこにあるのは笑顔を浮かべる彩乃の姿。
「気持ちが向いてきたらでいいから、また部活に来て」
「ん」
待ってる、と彩乃は付け加える。それ以上何も言えなくて、私はスマートフォンで時間を確認すると一足先にその場を後にした。
教室での担任の先生との面談。奇しくも去年に引き続き同じ先生が担任で、私の家庭事情もよく理解してくれていた。
両親が離婚したのは去年の冬の初め。
理由はごく一般的な性格の不一致と生活面での行き違い。大きな喧嘩があったわけではないけれど、父は仕事人間で言葉数の少なかった。きっと積もり積もった何かがそうさせたんだろうと子供ながらに思う。母が二人の子供の親権を持ち、私は住み慣れた家を後にした。
先生は少し困ったように微笑んだ。
「部活、まだ行けそうにないか」
「……すみません」
「いや、家の方が大変だもんな。ただもったいないと思うから」
すまなそうに言う先生を見て私も更に申し訳なさが募る。心配してくれるからこそ部活に行けないことが心苦しい。
「進学は考えているんですけど、私立はちょっと難しそうで」
「うん。でも国公立という手もあるからな。白谷なら実技の方は問題ないと思うけど」
できれば早めに部活に戻ってほしい、そんな先生の気持ちがそこにはあって。
部活に行けない。それが長ければ長いほど致命的になってしまうことは十分に分かっているつもりだ。何事も続けていくことで技術は磨かれる。特別な才能がないからこそ知っている事実。
「色々と思うところはあるだろうけど、前向きに考えてみてもいいんじゃないか?」
「……はい」
言葉に詰まる私を見て先生は苦笑いを浮かべる。
先生に会釈をして、私はその日の個人面談を終えた。
* * *
五月始まりの連休。世間一般でもてはやされるゴールデンウィークも私の家では普通の休みと変わらない。
朝食を済ませ、仕事に出掛ける母を見送る。私は洗い物を終えると今度は洗濯物を取り出してベランダへと向かった。
夏に傾き始めた日差しが私の目には強い。光に目が眩み、目を瞑った私はしばらくそのまま立ち止まる。落ち着いた頃にそろそろと目を開け、いつもと変わらない青空を確認すると洗濯物を干し始めた。ベランダには母が植えた小さな鉢植えがあるので足元に注意する。
鉢植えには綺麗な青と白の花が咲き揃っていた。植えた頃に比べて間延びしていた空間が埋まり、格好のいい鉢植えになっていた。
可能性と観念の話を聞いてから一週間空け、私は夢喫茶へと足を向ける。店先の花が色を増して綺麗だ。
たった一週間開けただけなのにとても久し振りに感じる。私は少しだけ遠慮がちに喫茶店の扉を開けた。そこでいつもと違う店内に自然と息を潜める。
喫茶店の壁に写真が飾られていた。合間に飾られるドライフラワーが素朴な雰囲気を引き立てる。
パネルに印刷されるでもなく至って普通のサイズだ。シンプルにそのまま張られているところもあれば、四つほど取り纏めて額に入れられている物もあった。
その写真に写るのは壁が抜けた鉄筋コンクリート製の居住地。長い階段に広がる瓦礫の山。崩れたロ型の建物の吹き抜けから見上げる空。半壊した部屋のから見える海岸と外に向かって置かれている椅子。残された電化製品や食器の生活用品が所々に見える。
まるで世界の終わりを見ているような写真だ。しかし、嫌な気持ちはない。そこにかつてあっただろう人の営みを不思議と感じ、廃れていく世界に郷愁を覚える。
「それ、私が撮ったの。どう?」
そう声を掛けられて私は振り向く。
そこにいたのは以前見かけた褐色の髪の女性。セミロングの髪が肩に流れて明るい印象の人だ。私の側まで近づくと写真を見上げる。
「……なんて言ったらいいんでしょうか。荒廃している様子が物悲しいっていうか、変わっていく世界を感じて。でも、そこには人が生活していたという跡があるっていう感覚がとても不思議です」
「そっか、うん。いいね。私もそんな感じ」
「ここは……?」
「明治から昭和にかけて海底炭鉱都市として栄えた宮崎県端島。――通称『軍艦島』」
聞いたことはある。二〇一五年に世界文化遺産に登録されたような話だったような。そんなことを記憶の底から引き出していると女性が笑う。
「ごめんね、ちゃんとした挨拶がまだだった。私は
そう言ってあかりさんは一枚の名刺を差し出す。
そこに書かれているのは自己紹介と違わない名前とグラフィックデザイナーという文字。私は軽く会釈をして挨拶をする。
「白谷友紀です。あかりさんはデザイナーさんなんですね」
「と言ってもしがないデザイナーだけどね」
そう言ってあかりさんは笑う。写真は趣味で昔から撮っていたそうだ。それから自分で作ったという冊子を幾つか見せてもらう。展示されている写真とはまた違う世界だ。
溶け込むような優しい色合いの草花の風景。どこか懐かしい日本の裏路地。モノトーンの写真で切り取られた世界。写真に添えられている言葉がぐっとその世界へ没入させる。
それぞれ違う主題があって一つ一つ世界を作り上げている。私はほうっと感嘆の息をついた。
「すごいですね。こんな冊子作れるなんて」
「今は印刷技術が良くなってるから一部から作れるところもあるし、思ってるより大分敷居は低いよ」
そうは言っても一つの作品を作り上げる労力は私も知っているつもりだ。言葉では簡単に言えるけれど、決してそうは受け止めない。
あかりさんは飾ってある写真を見上げて言葉を続ける。
「個人的に撮った写真、たまに飾らせてもらうの。個展ってほどでもないんだけど、折角なら形にした方がいいってマスターに勧められてさ」
「とても素敵だと思います」
あかりさんはありがとう、と言ってはにかんで笑う。
「写真って不思議よね。止まるところを知らない世界の一瞬を切り取れるの。人によって見るところも違うし、感じ方も違う」
「はい」
「こういう展示の時、感想用のノート置いてるの。もし気が向いたら――」
「マスター、こんにちは~!」
そこで唐突に響く扉を開ける音と間延びした声。驚いて私は振り返りお店の入り口を見る。
そこにいたのは以前あかりさんと一緒にいた男の人だ。その人は私とあかりさんを見るとぱっと顔を明るくさせる。
「あかりさん。それに前にお店を手伝っていた子だよね。俺は
「は、はい。白谷友紀です。よろしくお願いします」
晴人さんは目の前に詰め寄り、両手を握ると軽く上下に振る。相好を崩す晴人さんと硬直する私の間にあかりさんが割って入った。
「ほら、ビックリしてるでしょ! あんたみたいにコミュニケーションの塊じゃない人もいるんだから」
「あ、ごめんごめん」
指摘されて晴人さんは手を離す。それを見てあかりさんは呆れたように軽くためを息ついた。晴人さんに手の平を向けて私に一言。
「これ私の腐れ縁。よろしく」
「これってひどくない?」
少しだけ不服そうに晴人さんは抗議するがあかりさんは素知らぬ顔をしている。挨拶で驚いてしまった私も二人やり取りを見て思わず笑みが溢れてしまった。晴人さんは満足したように微笑んで一人頷く。
「うんうん、その方がいいよ」
「え?」
「いやさ、なんかちょっと真剣そうっていうか思い詰めた顔してるなーっと思っててさ。君は笑ってる方がやっぱり似合うっていうか……いひゃい」
そこで言葉が唐突に尻切れになる。いつの間にかあかりさんが晴人さんの頬をつねっていた。
「……そしてデリカシーがない」
呆れを通り越して冷たい視線が注がれる。その視線を受けながら晴人さんがはなひてくだしゃいと頼りない言葉を漏らすと、ようやく手が離れた。
自分では普通だと思って気表情は気にしていなかった。指摘されて私は思わず自分の頬に両手を当てる。今までどんな顔で過ごしてただろう。
周りに気付かれていないだろうか。頭に過るのはそんな微かな不安。
ぱんと手を叩く快活な音が一つ響く。視線を上げた先のあかりさんは柔らかく笑っていた。
「こんな時はちょっとお茶しましょう。丁度喉も乾いてしまったし。マスター、今日のおすすめのハーブティーお願いします」
カウンターの向こうでマスターは分かったよ、と言って笑った。
こぽこぽと立つ湯気と暖かな香り。カウンターに座る三人の前に出されるのはルビーのように紅く深い色合いのハーブティーだ。小さな器に入れられた琥珀色の蜜がそれぞれ添えられる。
「どうぞ、今日おすすめのハイビスカスローズヒップティーだ。癖もないし飲みやすい。よかったら蜂蜜もどうぞ」
私はまず蜂蜜を入れずにそのまま頂く。酸味が強いけれどそれがとても爽やかだ。数口飲んで私は蜂蜜を入れた。
とろりとした綺麗な蜜が赤い水面を通り越して底に落ちていく。ゆっくりと混ぜ合わせてカップを口にした。
一口飲んで広がるのは蜂蜜の優しい甘み。酸味がまろやかになって飲みやすい。よく売られているブレンドのハーブティーだそうで、私は今度買ってみようかと思った。
喉が潤い、人心地ついたところで私は気になっていたことをあかりさんに尋ねる。
「あかりさん、グラフィックデザイナーってどんなことされるんですか?」
デザイン一言で言うけれど実はとても範囲が広いように思う。すぐに思い付くのはイラストの仕事なのだけれど、そういう人はイラストレーターと呼ばれているのでやはり別物なのだろう。
「あーそうよね。ぱっと聞いた感じだと分からないよね」
あかりさんは苦笑する。それを見て、もしかしたらよく聞かれることなのかなと私は微かに思った。
「平たく言っちゃうと写真とかイラスト、文字なんかを画面に構成する仕事。代表的なものならポスターや広告、パッケージのデザインとかロゴとかかな。あとは動画とか本の装丁とか。まあ、大々的な広告は広告代理店とかがやってるから、そうそう関わらないけどねー」
つまりは私たちの生活で普段目にするデザイン全般ということだろう。いつも何気なく見ていた広告やパンフレットがあかりさんのような人たちによって作られたのだと思うと、なんだかとても不思議だった。それと同時に写真の冊子が違和感なく見られたのも、普段の仕事があるからかもしれないと思った。
「このお店のカードもあかりさんに作ってもらったんだよ」
そう言ってマスターは名刺を見せてにこりと笑う。
初めて来た時に渡されたショップカードを思い出す。クラフト紙に茶色のインクで書かれた喫茶店のロゴ。裏面に簡易的な地図と住所、営業時間が書かれている、ごくシンプルで素朴な印象に名刺だ。
それは誰もが目にするお店の看板。
「シンプルでお店に良く似合ってると思います」
率直な感想を伝えるとあかりさんは少しだけ驚いた顔をして、ありがとうと笑った。
「また新しいのを頼んだんだけど、私の思った通りに仕上げてくれてね。また切り替える時に渡すよ」
「そうなんですね。楽しみにしています」
マスターはありがとうと笑い、改めて私は喫茶店のカードを見る。文字を気にしてみると面白い。
「あんまり意識していなかったんですけど、文字の置き方とかも大切なんですね」
「大分印象が変わっちゃうからね。ゴシック体、明朝体でも雰囲気がガラッと変わるからフォント選びは大切だし」
一区切りした後、さらにあかりさんは続ける。
「ざっくりだけどやっぱり和といったら明朝体、ポップさや力強さが必要ならゴシック体。最近は特徴的なフォントも多いしイメージに直結するから、複数並べて見て比べるのも必要。文章なら字間や行間は見やすさに影響してくるから――」
「あかりさん、熱入りすぎ」
饒舌に話すあかりさんに対して今度は晴人さんが止めに入る。はたと気が付いたあかりさんはそこで動きを止めた。
「……とまあ、しがないグラフィックデザイナーの言い分でした」
両手を合わせてすみませんと頭を下げる。晴人さんが頬杖をつきため息をつくのを見て私は思わず笑ってしまう。まるでさっきまでとは逆の立場だ。
本当に好きなんだなと思う。何かを作り出すことの熱意。それが自然と伝わってくる。
「真剣に向き合っているあかりさんの作品、素敵だよ。今回の写真も退廃的な空気、かつてあった生活感から来る物寂しさが好きだね」
「まぁ、場所がいいんです。私はただ自由気ままに撮っているだけで」
マスターの言葉にあかりさんは照れ臭そうに笑った。そこで私はいつもマスターの言葉は肯定的だと気付く。
決して押し付けるでもない言葉。ああ、だからここに来るみんな明るいのかな、なんて私は思う。
「写真、好きなんですね」
「うん。まあ写真だけじゃなくて何か作るのが好きだから、自然とやってるって感じ。仕事に全く関係ないものでもないしね」
そこで一つ、子供のように無垢な言葉が響く。
「よし決めた」
何事かと私とあかりさんは声がした方向を見る。声の主、晴人さんは満面の笑みを浮かべていた。
そこで表明されたのは思いがけない宣言。
「この休み、一緒に写真取りに行こう!」
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