第3話 理想鏡

 休日は家族みんなで食事を食べる唯一の時間だった。父はいつも仕事が忙しく、平日帰ってくるのは夜遅くだったからだ。

 普通なら一家団欒で盛り上がりそうな一時。でも、そんな休日の夕食は私にはちょっとした緊張の時間だった。


 私はちらと、父の方を見る。日本酒を飲みながら肴の箸を進めていた。食卓に響くのは主にテレビのニュース番組の音。

 特に話題はない。学校に関すること、勉強や進路、学校行事のことも父と話すことはなかった。あれこれ言われなくていいじゃないと友達から言われたことがある。けれど、私にとって父の言動は無関心にしか映らなかった。頑張りなさいと言われたことはあっても褒められた記憶はほぼない。私の努力が足りないのだと思って自分なりに頑張ってみたけど変わることはなかった。


 その反面、兄に関しては勉強や進路に意見を言っていることあった。兄はよく出来た人だった。勉強は常に学年上位だったし、頭の回転も速い。運動も卒なくこなす人だった。

 それに比べると私は平均から少し上ぐらいだ。取り立てて得意な科目と言えば国語と美術だろうか。そうして私が導き出したのは期待されていないんだろうという結論だった。


 それでも認めてもらえたことがある。部活動だ。昔から好きだったこともあるし、やるからにはきちんとやりなさいという言葉通り、私は部活動に打ち込んだ。言葉数の少ない食卓の中、ニュース番組の中で絵画コンクールの報道が流れる。


「そうそう。この間、コンクールで賞を取ったのよね、友紀」

「あ、う、うん」


 唐突な母の振りに私は声を上擦らせる。まさかそんな話をすると思っていなかったからだ。顔を少し伏せてご飯の箸を黙々と進める。そうして降りかかってきたのは思いがけない言葉だった。


「そうか。よかったな」


 その言葉に私は思わず顔を上げる。父は変わらずにお酒を飲み進めていたけれど、その言葉は私にとって今まで欲しかった言葉そのもので。

 お父さんが認めてくれた。それも得意なこと、好きなことを褒めてもらえた。とても嬉しかったのを覚えている。これなら大丈夫だと自信が持てた。

 それが唯一の支えであり、私を形成かたちなすもの。

 理想の鏡だった。



 *  *  *



 天気は快晴。窓から見える青空と光が眩しくて私は目を細める。身支度を整えて私は玄関の扉を開けた。


「出掛けるの?」

「うん、ちょっとね」

「そう、気を付けてね」


 送り出してくれるお母さんに手を振って私はアパートを出る。暖かい日差しと春の香りが身を包んだ。

 肌と鼻で感じる春の息吹。日が伸びて花の香りが濃くなる季節だ。


 電車の車窓を流れるのは河原の景色。キラキラと反射する水面が目に映る。これを超えたら目的の駅はすぐだ。

 電車を降り、私は慣れ始めた町の中を歩く。初めは気がつかなかったが、町には古本屋やアンティークショップが並び、どこかノスタルジックな雰囲気が漂う。古い雑貨屋が好きな私にとってはどの店も個性的で魅力的だ。見るだけで楽しい。そこに行くことがいつの間にかそれは私の楽しみになっていた。

 けれど、その心は純粋なものだっただろうか。それが心のわだかまりを隠す一つの手段であることを私は少なからず理解していた。


「こんにちは」

「白谷さん、いらっしゃい」


 店内に入るとマスターいつものようににこやかに出迎えてくれる。窓際のテーブル席には時雨さん。一つ開けて男子生徒が教科書とノートを広げていた。

 そして。


「お、来た来た」


 カウンターにいるのは橙山さんでいつものように頬杖をついていた。

 こうして見てみると男の人がよく来る喫茶店だなと思いながら、私はカウンターの席に着く。


「橙山さん、こんにちは」


 会ったのはまだ数回だけれど、必ず橙山さんは週末にここにいた。入り浸っていると言った橙山さんの言葉はあながち嘘ではないのかもしれない。もしかして、本当に毎週ここにきているのだろうか。


「あ、週末暇なんですかとか、彼女いないんですかとか。そういうのなしで」


 心の中で密かに思っていたことを言い当てられ、私はぎくりとする。橙山さんはまあいいんだけどさ、と言って笑った。


「まあ、まずはお茶でもどうぞ」


 まるで自分の家――いや、店のように橙山さんは言う。ここが好きなんだろうなと私はどこか納得していた。そこでマスターが声を掛けてくれる。


「今日はどうするかな?」

「えっと、またお菓子いただいてもいいですか?」

「もちろん」


 マスターは嬉しそうに笑う。私の注文に便乗して俺もと橙山さんが片手を上げた。ハーブティーはマスターにお任せだ。

 手慣れた手つきで準備するマスター。当たり前と言われればそうなのだけれど、初めてのものを見た時の子供のようにじっと見守る。

 かたりと置かれる今日の一皿は。


「どうぞご賞味あれ。特製オレンジマフィンとルイボスティーだ」


 綺麗な輪切りの上にアクセントのピスタチオが散りばめられたマフィン。夕陽のようなオレンジ色が映えてとても綺麗だ。


「綺麗」


 思わず感想が口から出ていた。マスターにありがとうと言われ、気恥ずかしかった私はまずルイボスティーを口にする。

 紅茶とは違った香ばしい香り。けれどクセがなくほのかな甘味がある。

 続けてオレンジマフィンを口にすると、しっとりとした食感が口に広がる。生地の中にオレンジの皮が混ぜられていて爽やかだ。甘味が程よく抑えられている。


「美味しいです」

「なー。美味いよな〜」


 まるで自分のことのように橙山さんは言い、少年っぽい笑顔に私もつられて笑ってしまう。そこで私は今更ながら確認のために尋ねた。


「橙山さん、甘い物好きなんですね」

「あー、うん。好きだよ。まあ今はそれほど珍しくもないでしょ」


 今はいいよなあ、なんて言いながら橙山さんはマフィンを突く。確かに最近は普通に受け入れられているけれど、昔はそうでもなかったとか。そんな話を聞いて私はお店のお手伝いをする。


 誰かを思ってもてなされる食事。その食材は契約農家さんから仕入れているらしい。ささやかながらもこだわりの一品なのだと、マスターの代わりに橙山さんが教えてくれた。

 そして、それを彩るのはお客さん一人一人に合わせた気配り。短い手伝いの中で少しずつ分かってきたのは、マスターがお客さんの好みやお茶を出す時間を全部把握していることだった。


 時雨さんは窓際のテーブルが所定席。ルイボスティーと共に仕事をするのが恒例で、それに合わせてマスターが飲み物を出していた。それがまず私が発見したことだった。


 時雨さんは一日の仕事の目処がつきそうになったところで食事を頼む。

 橙山さんは、いつも飲み物はマスターのおまかせ。

 晴人さんはがっつりご飯を食べるので食事の量は他の人より多め。

 あかりさんはルイボスティーにたっぷりのミルクを入れて、ロイヤルミルクティー風にするのが好き。だから別添えで出すミルクは多めに。

 そんなマスターの細やかな仕事が私には眩しく映る。


「お疲れ様」


 そんなマスターからの労いの言葉が嬉しくて、こんな自分でも少しでも役に立てているのかなと思う。

 マスターに再び入れてもらったルイボスティーで一息つきながら、私はスマートフォンの時計を見る。心の中でどこか待っていた日向大君は今日来なそうだ。


 マスターの話によると、日向大君のお母さんがつわりでここのところ調子が悪いらしい。ようやく叶った第二子らしく、旦那さんも日向大君もお母さんを支えるようにあれこれ慣れない家事をしているのだとか。

 羨ましいな。

 率直な思いが心に過ぎる。私は暗い感情をすぐに奥の引き出しにしまい込んだ。そんな私の隣に橙山さんが戻ってくる。


「あー、ひと休み」

「お疲れ様です」


 私がお店の手伝いをしている間、橙山さんは男子学生と一緒に教科書と睨み合いをしていた。ちらりと男の子の方を見るとハーブティーで一休みしているところだった。


「こういうこともするんですね」

「と言っても、俺の分かる範囲だけだけどなー」


 そもそも教えるのが苦手な私は十分すごいと思う。私の思いを代弁するかのようにマスターが口を開いた。


「橙山さんはそれだけと言うけれど、とても素晴らしいと思うよ」


 マスターは微笑みながらテーブル席に座る男の子に視線を向ける。


「それにしても湊真君はいつも頑張っているね」


 私は男の子の方を横目で見る。

 視界の端に映るのは高校二年で使う数学の教科書。つまり同い年ということだ。橙山さんほどでもないけれど、彼も週末によくここで勉強しているのを見かけていた。


 真剣に勉強するその姿はどこか妙に落ち着いている。何か一つのことに真剣に取り組む姿がまるで昔の自分のようで、意図せずに懐かしい日々が脳裏に蘇えった。

 眩しくて、私はその鏡から視線を逸らす。

 橙山さんは頬杖をついて目を瞑ると笑った。


「ここに来るのはみんな可能性がある奴ばっかりだからさ。そういうの見てると応援したくなるんだよね」

「可能性、ですか」


 再び耳にした可能性という言葉。私の歯切れ悪い言葉に対して見越したかのように橙山さんは言う。


「もちろん、君にもあると俺は思うけど?」


 なあマスター、と言って橙山さんはカウンターの奥を見る。


「ああ、もちろんそう思うよ。みんなそれぞれいい色を持っている。ただ、いらない観念がそれを潰してしまっているだけさ」


 マスターがポットからお茶を注ぐ。周りにはルイボスティーの豊かな香りと湯気が広がった。


「観念ですか」

「まあ、いわゆる思い込みだね。『自分はこうだ』ってみんなどこかで決めつけてしまっている。特に周りにいる人から受ける影響は強いものだ」


 そこで一区切りつけてマスターは続ける。


「例えば一人男性がここにいるとしよう。その人に対して『どうした、顔色が悪いじゃないか』と会う人会う人が言ったとしよう。その人はどうなったと思う?」


 静かに音を立てて橙山さんの前にカップが置かれた。マスターの問いに対して私は答えることが出来ない。

 流れる僅かな沈黙。その沈黙が私には長く感じられた。マスターの穏やかな声が続く。


「周りの人の言葉の通り、その人は具合が悪くなってしまった。それまでは体に何も問題がなかったのにも関わらずね」


 沈黙の間にクラシックの音が静かに響く。それを溶かすようにマスターは呟いた。


「思い込みは人を不幸にする。常識も場合によっては枷になる。自分はこうだから駄目だなんて、思い込んではいけないよ」


 出来ることも出来なくなってしまうから。そう言ってマスターは笑った。

 いつの間にか植え付けられる観念。常識や自分はこうだという思考が轍を作り、身動きを取れなくしている。言われていることは頭で理解できても、その場から簡単には抜け出せない。


 私は帰りの電車の中でぼんやりと車窓から景色を眺めていた。最寄駅についてもすぐに家に帰ることが出来なくて、駅近くの商店街を歩いていた。

 雑貨や洋服のお店が並ぶ。通い慣れた本屋にまで足を運んだところで通りすがりの人と肩がぶつかってしまった。


「す、すみません」


 ちらと男の人がこちらを見る。特に何も言われることなくその人は足早に立ち去った。注意していたつもりだったのにな、と思いながら私はふうとため息をつく。


 目的地だったはずの本屋を少しだけ眺めて私はその場を後にする。目的もなく彷徨っているうちに陽が落ちてきてしまった。暗くなる前に早く帰らないとといけないと思い、少し足早に家に向かう。

 家の扉を開けるといい香りが私を迎えてくれた。夕食の支度をする時間に帰ってきたつもりだったけれど、母が既に支度を始めているようだった。


「ただいま」

「おかえり」


 台所に立つ母はこちらを見て柔らかく微笑んだ。普段の疲れた様子はなさそうで私は一人心の中で安堵する。


「ゆっくりしてて大丈夫なのに」

「いつもやってもらってるから、お休みぐらいはしないとね」

「休みだからこそ休むんだと思うけどな」


 そう言うと母は少しだけ意外そうな顔をしてからふっと笑った。


「そうね。じゃあちょっと手伝ってもらえない?」

「うん」


 私は考えるまでもなく返事をする。

 コトコトと煮える鍋の音。

 大根を擦り下ろす感触。

 ふわりと漂う炊き始めのご飯の香り。

 ごく当たり前の日常。それを噛み締めるように私は夕食の準備を手伝う。


「今日はね、花を買ってきたの。この時期になると色々出回るからいいわね」

「そうだね。何買ってきたの?」

「ネモフィラとスカビオサと……イベリスだったかな? 夕方植えてみたの。後で見てね」

「うん」


 たわいもない話をしながら進める料理はやはり楽しい。里芋と人参の煮物をお皿によそい、真っ白な炊き立てのご飯を盛り付ける。焼き上がった鮭には大根おろしが添えられた。

 母とは仕事のシフトの関係で生活時間が合わないことも多かった。だからこうした時間は私には貴重だ。母が植えた鉢植えは明日見てみよう。

 程なくして、小さなテーブルに二人分の夕食が整った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る