第2話 こころ小春日和
黒い髪はそのまま肩に流し、白のニットと紺色のパンツというシンプルな服装。動き始める春という季節の中に私は一人出掛けた。
ごとんごとんと小気味よく車体が揺れる。暖かな日差しが差す土曜日、車窓から流れていく景色を眺めていた。
何の目的もなく遠くへ行ったつもりだったあの日。私はあの日の出来事が本物だったのか確かめるために、もう一度その場所へと向かう。
目的地は思っていたよりも近かった。最寄りの駅から歩いて十分ほど。目の前にある建物とショップカードを見比べて私は思わず息をつく。
「本当にあった……」
喫茶店トロイメライ。私は再びそのお店の前に立つ。
まるであることの方がおかしいと言わんばかりの言葉だけれど仕方ない。だってあの日のことは夢だったとしか思えなかったからだ。
私は改めてお店を一通り見る。お店の前に並ぶ鉢植えには色とりどりの花が咲いていた。ただ、看板もないシンプルな外装は喫茶店と認知されているのか怪しいところだ。
閉店と開店を示すプレートもない。ただ、大きな窓のカーテンは開けられていて、そこからテーブルに座るお客さんの姿が見えた。少し迷ってから私はその扉を開ける。
「いらっしゃい」
カウンター越しから掛けられる柔らかな挨拶。マスターはあの日のように整えられた
「お好きなところへどうぞ」
差し伸べられた手に惹かれて私はお店の中を見渡す。同い年ぐらいの男の子と五十代ぐらいの女性が二人がけのテーブル席に着いていた。男の子は真剣にノートに文字を綴っている。
そして、マスターと相向いのカウンターには三十代前半と思われる男性が座っていた。私は二つ席を開けて席に着く。
「また会えて嬉しいよ」
その一言で、あの日のことは夢ではなかったのだと改めて実感する。
「いえ、そんな」
マスターの笑顔に私は曖昧な返事を返す。夢か現実か確かめるために来たというのも失礼な話だと思ったのだ。自分でも変だと思うのだが、何故かそうせずにはいられなかったのだ。
「おー、最近ここに来た子?」
そう投げかけられたのはゆるさを感じる明るい声音。同じカウンターに座る男性が頬杖をついてこちらを見ていた。
跳ねる鳶色の髪にはっきりした二重の瞳。パーカーとジーンズというラフな姿だ。しっかりした体系でスポーツマンのような印象だった。どちらかというと人見知りの私は少しだけ身を引いてそれに応える。
「は、はい」
「大丈夫。取って食わないから」
男性はひらひらと手を振って笑う。人懐っこい笑顔は時雨さんとは真逆だな、なんて失礼なことを思ってしまった。
「俺は
「あ、はい。白谷友紀です。よろしくお願いします」
そう挨拶すると橙山さんはにっと笑った。マスターもそうだけれど、男の人でもこんなふうに笑うんだなんて私は思う。橙山さんは目を細めて眩しそうに言った。
「高校生かな? いやいいね、可能性の塊って感じ」
その言葉に私の心はずきりと痛む。悪気もなく言われた言葉がかえって辛い。にこにこと笑う橙山さんに対して私は曖昧な笑顔を浮かべた。
「……そうですね」
可能性の塊。
本当にそうだとしたらどんなによかっただろう。
その思考を蹴破るように勢いよく店の扉が開け放たれた。私がびくりと体を震わせると同時に響くのは快活な声。
「マスター、こんにちは!」
「お、もう一つ可能性の塊が来た」
橙山さんは身を反らせて私越しに入り口を見る。私はそれにつられて入り口に視線を向けた。
そこにいたのは明るい栗色の髪の男の子。小学生中学年ぐらいのその子は元気よくカウンターまで近づき、私の側に立つ。
「いらっしゃい、
「いつものお願いします!」
「はい、ちょっと待っててくれるかな」
そう言ってマスターは奥の部屋へと向かう。その後ろ姿を眺めていると視線を感じて私はそちらに目を移した。
そこには興味津々といったように顔を輝かせる男の子がいて。なんだろうと戸惑っているうちに日向大君が橙山さんの隣の席に座る。
「よ、日向大。手伝い頑張ってるか?」
「頑張ってるよ! 今日はお父さんにオムレツの作り方教えてもらった」
「へぇ、よくやってるじゃないか」
「でもダメなんだ。卵割るとぐしゃってなっちゃって」
「あー分かるわそれ。上手く割れないよな」
殻が入っちゃって大変なんだ、なんて言って日向大君は顔を顰めている。そんな彼に対して橙山さんはぽんぽんと頭を叩いてみせた。
「だんだん力加減も慣れるさ。ちょっとずつ出来るようになればいい」
それは友人同士のような会話にも聞こえ、一方では親子のようなやりとりにも見えた。笑い合う二人の姿が私には眩しく映る。
「えっと。はじめまして、だよね」
そんな声がした時には日向大君の顔が目の前にあった。いつの間にか彼は一つ席をずらして私の隣に座っていた。日向大君はにこにこと笑う。それにつられて緊張していた私の顔も綻んだ。
「
「白谷友紀です。よろしくね」
私の中では喫茶店はそれぞれの世界に浸る場所だと思っていた。喫茶店でこんな風に自己紹介をすることも考えたこともない。不思議な感覚でなんなく落ち着かなかった。
そんな私をよそに日向大君と橙山さんは親しげに話している。弾む会話の中、マスターが奥の部屋からカウンターに戻ってきた。
「はい、日向大君。特製のカモミールティーだよ」
そう言ってマスターが差し出したのは店のロゴが印刷された紙袋だ。日向大君はお金を出して代わりにそれを引き取ると、確認のために中を覗き込む。満面の笑顔が眩しい。
「お母さんは元気かい?」
「うん、調子いい時にいろいろ教えてもらってる!」
「それはよかった」
「マスター、今日のお菓子は何?」
「それは後のお楽しみだ」
そう言ってマスターは悪戯っぽく片目を
「店の手伝いするんだよ。で、いつもお菓子もらって帰ってるの」
食事をいただいて何もしないのは気が引ける。そんな学生に対してはお店のお手伝いをしてもらう――それが夢喫茶のお礼の仕方らしい。もちろん手伝いは強制ではなく自由とのことだ。
日向大君はお使いで販売しているハーブティーを買いに来る。その時にお店のお手伝いをし、お菓子を頂いて帰っていくのが恒例なのだそう。待っていられないと言わんばかりに日向大君は手を上げる。
「マスター、何すればいい?」
「そうだね。お皿を下げてもらいたいな」
そう言って視線を店内に向けると、先ほどまで勉強していた男子生徒がいなくなっていた。お手伝いをしてもしなくてもいい。本当にここは自由なんだなと改めて私は思う。
「はい!」
元気いっぱいの返事をして日向大君は空いたお皿を下げにいく。お皿を下げたら洗い物。手伝う様子を橙山さんが優しい視線で見守っていた。それからすぐに数人が喫茶店の中に入ってくる。
「
「マスター今日は食事を頼む〜」
そう言うのはゆるく波打つ
「私もご飯かな。飲み物はいつも通りで」
分かったよとマスターは笑顔で女性に返す。その後ろから更に五十代ぐらいの男性が続いた。先の二人と打って変わって厳しそうな印象の人だ。
「……食事と今日のおすすめの飲み物を」
「かしこまりました。土屋さんもゆっくりしていってくださいね」
次々と挨拶を交わしてお客さんは席を見繕う。始めに入ってきた男性と女性が窓から二番目の席へ。もう一人の男性は店の一番奥の席に着いた。私は思わずマスターに声を掛ける。
「あの、私も手伝わせてもらえますか?」
「ああ、もちろん。よろしく頼むよ」
マスターは快く返事をしてくれると、あの日のように手際よく支度を進める。私は肩にかかる髪を後ろで手早く一つにまとめた。何かするときはこうして一つに髪をまとめるのが落ち着くし、何より食事を運ぶのにばらけるのは失礼だ。その間、日向大君はマスターの様子をじっと眺めていた。
準備を終えて待つ私と日向大君。まずはこれを、とマスターは言ってポットとカップの乗ったトレーを日向大君に差し出した。
「新聞を読んでいる男の人に持っていってくれるかい」
「うん!」
日向大君は頷くと席を立ちトレーを持つ。その間にも手早くマスターは食事の準備を進めていた。四角い大きめのプレートが広げられる。その上に乗せられる厚切りの食パン。徐々にそこに色が添えられていく。それはまるで真っ白なキャンパスに絵を描いていくように見えた。
ボウルにはレタスと色とりどりのベビーリーフ。それに載せられる鮮やかなトマトの赤。さらに茹で卵が添えられれば華やかな絵となる。言葉なく見守っていると、程なくして華やかな食事が出来上がった。
今日のメニューはピザトーストと根菜たっぷりのコンソメスープ。それにサラダが並べば色鮮やかだ。
マスターは注文のうち二皿を手で示す。そのうちの一皿はパンが厚く具材もボリュームたっぷりだ。
「これをお二人に。よろしく頼むよ。多い方を晴人君にね」
「はい」
私は二人組のお客さんの元へ運ぶ。資料を見ながら真剣な表情で話し合いをしていた。
お出しする時は丁寧に。自分の中での決め事を反芻しながら男性と女性の前に注文の品を差し出す。
「お待たせしました」
男性は顔を上げてこちらを見ると満面の笑みを浮かべる。
「おー、ピザトーストか。しかも今日は可愛い女の子が運んでくれるとかもう最高」
「ちょっと真面目にしてよね」
「あで! もうちょっと優しく扱ってくれよ、あかりさ〜ん」
「知りませーん」
男の人を軽くあしらうと、ごめんねと言って女性が苦笑する。男の人は気にする様子もなく、腹が減っては戦はできぬだからね、などと言って既にスープを飲み始めていた。そんな二人のやりとり私は思わず心の中で笑ってしまう。
遅れて出来上がったもう一皿を日向大君が新聞を広げる男性の元へ運んだ。
和やかな会話と共に食事が進む音。それを私はカウンターから聞き届ける。食事を終える頃を見計らってマスターが男性と女性のお茶を用意した。
以前来た時とは違う賑やかな空気だ。それでも根本にある穏やかな雰囲気は変わらないと思う。それから何名かのお客さんが来て、配膳と食器洗いを行う。
配膳を一通り終えて私は日向大君が下げてくれた食器に手をつけた。
「日向大君、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
そう言って日向大君は再びお皿を下げにテーブル席に向かった。大方洗い物を終え、店先の花に水をあげていた日向大君と合流して人心地つく。
「お疲れ様、もう大丈夫だよ。色々とやってくれてありがとう。疲れただろう?」
「ううん。楽しいから全っ然!」
矢継ぎ早に言う日向大君は元気いっぱい。確かにこれは橙山さんの言う通り可能性の塊だと思う。どこにその源はあるのだろう。
それに比べて私は――と思いかけて止める。視線を上げるとマスターがにこやかに笑っていた。
「改めてお疲れ様。どうぞご賞味あれ。特製卵カステラとレモンジンジャーだ」
綺麗な焼き色の付いたカステラ二切れ。手作りと分かるそれは天の焼き目がふっくらと盛り上がっている。なかなかのボリュームだ。それに添えられるのは黄金色のハーブティー。
橙山さんの前にも同じお皿が並ぶ。三人一緒に言う言葉はただ一つだ。
「いただきます」
フォークで刺すとふわりとした感触が伝わってくる。カステラのふわふわとした柔らかい感触が口の中に広がる。優しい卵の香りと蜂蜜の甘さがちょうどいい。ザラメを敷いていない分さっぱりとした味わいだ。
「うん、美味い」
橙山さんが満足そうに笑う。日向大君はゆっくりとお菓子を口に運んでいて先ほどとは対照的に静かだ。食器とフォーク、クラシックの音楽が重なり心地よい音を奏でる。
ハーブティーはレモングラスのさっぱりとした香りが立つ。その中に生姜の風味がアクセントになっていて、飲み切るときには風味がより一層強く感じられた。手伝いをしたのもあって、より一層美味しく感じてしまうのは現金だろうか。
帰り際に日向大君はマスターからお菓子入りの袋を受け取る。お母さんとお父さんのお土産なのだそう。
「また来るね、マスター!」
満足そうに笑ってお店を後にする日向大君を見送る。私もマスターと遠山さんに挨拶をしてお店を出ることにした。
「またな」
店を出る前にそう声を掛けられる。振り返ると橙山さんが穏やかに笑っていた。それはまたここで会うのは当然とでも言うかのようで。
私は会釈をして店を後にする。高く上がっていた太陽もいつの間にか傾き始めて、影を濃く落としはじめていた。
少し懐かしさを孕む街の中を私は歩く。体に残るのは少しの疲労感とそれを上回る充実感。
本当に手伝ったのは少しだけだったけれど、楽しかった。
不思議と軽くなる体。弾む心と足。
また来よう。
まるで当たり前のように私はそう思った。
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