第11話 ある愛の話
動き始めた喫茶店にぱらぱらと人が訪れる中、私はページを捲る。
ここではないどこかの物語。そこに描かれるのはごく普通の少年と七つの人格を持つ少女。二人はそれぞれの願いを叶えるために世界を巡る。いつもと違う時雨さんの世界だ。
少し読み進めたところで扉が開く音が響き、私は顔を上げる。
花菜さんだ。ただ、今日は元気印の日向大君はいない。視線が会うと花菜さんはにこりと笑い、私の元に歩み寄る。
「友紀さんですよね? 日向大がお世話になってます。母の
花菜さんは挨拶と共に会釈をする。柔らかく波打つ蜂蜜色の髪がふわりと揺れた。その姿に見とれつつ私は挨拶をする。
「はじめまして。白谷友紀です」
「最近、日向大が友紀さんのことを話してくれて。一緒にお手伝いしてくれるお姉さんが来るようになったって嬉しそうに言っていました」
「そうなんですね」
日向大君の言葉が気恥ずかしくて私は少し視線を下に逸らしてしまう。花菜さんは微笑みながら私の隣の席に手を掛けた。
「良かったら一緒にお茶させてもらっていい?」
「はい」
花菜さんは席に着くと今日のおすすめハーブティーを注文する。私もマスターに勧められて頂くことにした。
「日向大君とてもしっかりしてますよね。いつも元気もらっています」
花菜さんは少しだけ意外そうな顔をしてからふっと表情を崩す。
「ここだとすごく大人ぶってるのよ。家だとどこにでもいるやんちゃな男の子。この間も友達と喧嘩して、マスターとの約束守れなかったって言って落ち込んでたわ」
花菜さんが語るのは私の知らない日向大君の姿。
家族の中で見せる日向大君という人。当然私が知ることがない時間があって、普段の見ている姿なんてごく一部なのだと改めて思う。
それにしてもマスターとの約束とはなんだろう。その疑問は自然と言葉となった。
「約束ですか?」
「そう。怒りそうになったときはまず深呼吸。それで落ち着いてからちゃんと話合おうって」
「日向大君頑張っているね」
マスターが微笑みながらポットとカップを花菜さんに差し出す。私の疑問を汲んだ花菜さんが説明を加えてくれた。
「あんな感じでしょ? いいことも悪いことも真っ直ぐ言葉と態度で返しちゃうのよね」
真っ直ぐさ。それは自分の気持ちを違えることなく相手に伝える。
けれど、それが全ていい結果をもたらすかと言えばそうではないのかもしれない。たとえそれが正論だとしても。
「それで友達と喧嘩することが度々あって。自分が悪くないと思った時でも、まず深呼吸して落ち着こうって約束したの」
花菜さんの言葉を続けるのはマスターだ。
「感情に揺れている時、人は物事をありのままに見られない状態だからね。だから少しでも落ち着いて状況を見られるように心を澄ませるんだ」
感情に揺れる。怒りも不安も悲しみも喜びも、私たちの心を大きく揺さぶるもの。そこに自然とかかるバイアスは私たちの思考力を削いでいく。
そうして思う。
今の私は私と向き合えているだろうか。
一呼吸置き、マスターは続ける。
「それに今私達にもたらされているものは全て心の表れ。周りにいる人は自分を映す無数の鏡。自分の姿が映っているだけにすぎないんだ。人に怒りを撒けばそれは自分に返ってくる」
鏡の前で笑えば笑顔を、怒れば嫌悪を映し出す。自分の内側に宿るものしか鏡は映し出さない。
「それなら笑顔でいた方がお得じゃないかな?」
そんなわけで私は笑っているんだよなんて言って、マスターは片目を瞑ってみせた。
「今日のおすすめ、ローズヒップティーだ」
私の目の前に置かれる新しいカップ。そこに黄金のハーブティーが注がれる。穏やかな声が静かに響いた。
「私はみんなに笑っていて欲しくてね」
皆に幸せになってもらいたい。
遠く透き通る五月晴れ。写真撮影の日に聞いた晴人さんの呟きとマスターの言葉が重なる。
「そうですね。みんなで笑っていたいから私も見習わないと」
つい腹を立てちゃうのよねと言い、花菜さんは苦笑混じりの笑顔でローズヒップティーを一口飲む。
すべては心の表れ。
クラシック音楽を背景に流れる時間はとても穏やかだ。ここに訪れる人が纏う空気もこのお店の雰囲気も、マスターが作り出している世界なのだと私は思った。
ふと気付くと花菜さんが私の手元を見ていた。それに気が付いて私は手元にある物に目を落とす。
そこにあるのは写真集と感想ノート。
「友紀さんの写真素敵だった。私では見れない世界だった。普段見ている風景があなたにはこんな風に見えているんだって思うと、とても不思議な気分」
花菜さんはふわりと笑う。
お茶を飲み終えた頃合いに日向大君とお父さんがお店にやって来た。視線が会うと日向大君のお父さんが会釈をしてくれた。爽やかな人という印象だった。
「友紀姉ちゃん、写真格好よかった!」
開口一番、日向大君はそう言った。その笑顔は好奇心と興奮が混ざってキラキラと輝いている。
日向大君の笑顔につられて私は笑う。落ち込んでいたという話だったが、もう立ち直っているらしい。前向きなところは花菜さんの言う通り見習わないとだなと思う。
「ん、ありがとう」
「また何か作ったら飾ってほしいな。ちゃんと見に来るよ!」
真っ直ぐな言葉が嬉しくもあり、くすぐったい。作品を飾ってこんな風に感想を言われたのはそういえばいつだったろうと思った。
それから花菜さんたちは街へと出掛ける。お父さんと日向大君が家事をしている間、ゆっくりしてきてと言われて一足先に夢喫茶に来たそう。これから三人で買い物にいくという話だった。山吹一家は夢喫茶の今日のお菓子を帰りがけに受け取るよう注文してから店を出る。私は手を振って三人を見送った。
その後ろ姿は理想の家族の形。
残された私は夢喫茶のカウンターに戻った。ぼんやりとカップを眺めるうちに自然とその言葉は溢れていた。
「家族ってなんでしょうか」
千差万別の世界。
花菜さんや日向大君のように仲睦まじい家族。
時雨さんが暗い感情を秘めてしまうような場所。
私のように離れてしまった人達。
愛を誓い共に微笑みながら歩み続ける家族もあれば、いつの間に離れていく家族もある。寄り添ってもらえる人もいれば、中には存在すら否定される悲しみもそこにあって。
愛していると言いながらも傷付けることを厭わない私達。それは距離を分からず右往左往するヤマアラシのジレンマ。
愛を歌う歌はたくさん溢れているけれど、時や環境が変わればいつの間にか憎しみとなっていたりして。人の心は容易く変わっていく。
「愛ってなんでしょうか」
人が歌う愛。その愛とは一体何だろう。
「他の人の成長を願うその心。エゴのない――見返りを求めない献身かな」
かたりと置かれるのは真っ白な一皿。その上乗るのは輪切りのレモンが飾られた美しいタルトだ。
「得てして私達はああして欲しい、こうして欲しいと自分の意思を押し相手に付けてしまうものでね。それが軋轢となって小さな傷からいつの間にか大きな溝が生まれる」
こうして欲しい、こうあって欲しいと思うのはエゴで。それを知らないうちに私達はそれを
あの日私が父に重ねていたのは親友――彩乃のお父さんだ。
一緒に笑って触れ合って、隣に居てくれる優しい父。私が望んだ理想の父親の象。
あの日、望みが叶わかった私は諦めた。理解してもらえないと。自分の思いは伝わらないと。
確かにあの時、私が望んだことは叶わなかったけれど。
今まで学校に来られなかった父がそこにいたのは確かで。
不器用ながらも絵を褒めてくれた父がいて。
父と距離が出来たのは。
距離を取ってしまったのは。
もしかして――自分?
「どうぞご賞味あれ。特製レモンタルトだ。頂いてくれないかな」
輪切りのレモンが主張する鮮やかな黄色。それは自然の恵みを一身に受けて育った太陽の色だ。
私は輪切りのレモンと共にタルトをフォークで切り取る。一口食べると爽やかなレモンの風味が口に広がった。
一つ気がついて。でもまだ歩みだすには至らなくて。
もどかしいぐらいに足掻いている。
「私は」
口にしようとして言葉をぐっと飲み込んだ。言葉にしたらそれが現実になってしまうような気がして。
だから私は否定の言葉を余さず
私に一体、何ができるのだろう?
「まずは一歩から。君はまだ歩けるさ」
マスターはそう言って微笑んだ。それ以上は言葉を重ねず、黙々と注文をこなしていく。それを見ながら私は静かにレモンタルトを口に運んだ。
全てが心の表れだと言うのなら。
まだ歩けると。そう言ってもらえた私に、出来ることがあると受け取ってもいいだろうか。
ほろほろとタルト生地が口の中で崩れていく。レモンクリームの甘みと共にレモンの皮のほろ苦い味が後に残った。
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