第12話 君の目
写真の展示が無事終わり私の生活も元に戻る。慣れないことをして何だかあっという間の日々だった。一息ついている内に学校では文化祭に準備の話や期末テストが差し迫る時期になる。文化祭か、と思ったところで私はそれ以上考えるのをやめる。
テスト勉強の集中力が切れて私は背もたれに体を預けて大きく延びをした。こういう時は続けても仕方ないので、気分転換に写真展の感想ノートを引き出す。そこに綴られるのは私の写真を通じて書き残された思い。
『やっぱり良いもの持ってると思ったんだ。また一緒に写真取りに行こう! 千草晴人』
『上手く言えないけど良い! 好きだな~この世界観! ごめんね、良いこと書けなくて! 柚葉』
どちらも元気よく話す姿が簡単に想像出来た。私の中で揺るぎない晴人さんと柚葉ちゃんの姿にくすりと笑う。
その他にもあかりさんや橙山さん、花菜さんなどたくさんの人の感想が綴られていた。顔も名前も知らない人もいて、そんな人が感想を綴ってくれたことがとても不思議で嬉しかった。そして、次に捲ったページはまさにその顔も名前も知らない人だった。
『独特の世界観だと思った。どこか寂しさもあるけど、可能性があるように感じた。
私はその人の感想を見つめる。整った字で書かれていて、博識そうな男の人の姿が勝手に頭の中に浮かび上がる。どんな人だろうか。
そこで不意にマスターがその名前を呼んでいたことを思い出す。喫茶店で勉強をする男子高校生だ。
ただ最近は姿を見ないなと思う。そんなことをぼんやり思いながら私は目を伏せて天を仰いだ。
* * *
梅雨の時期は湿気と熱が同居して纏わりつくような暑さだ。そんな梅雨空の中、珍しく晴れた休日に私と柚葉ちゃんは夢喫茶に集う。勉強が苦手な柚葉ちゃんから一緒に勉強して欲しいと誘われたのだ。だって一人だとやらないんだもん、というのは後に聞いた話だ。
「はい、どうぞ!」
「ありがとう、日向大君」
日向大君が運んできてくれたポットとカップを乗せるため、私はテーブルの筆記用具を寄せる。お茶の一式を置くと日向大君は手をぐっと握った。
「頑張ってね!」
「うん」
日向大君はカウンターに戻り、再び他のお客さんへの配膳に向かう。それを見届けて私は目の前に座る柚葉ちゃんに目を向けた。応援を寄せられたことにも気付かず、教科書と睨み合いをしている。
「あーうん。うーん……」
唸り声を上げながら苦手な生物の化学式に頭を悩ませている。それに重なるように遠くで扉が開く音がした。
「柚葉がここで勉強とか珍しいな」
そうして私の背後に届いた男の子の声。呆れたようなその声はどこか聞き馴染んだものだった。その声を聞いて柚葉ちゃんはがばりと顔を上げ、救急要請をかける。
「湊真~! 助けてー教えてー!」
「教えてください、だろ」
湊真――写真の感想を書いてくれた人だ。思いがけない名前に私は自然と振り返る。そして、そこに立っていた人物を見て私は目を見張った。
思わず口からこぼれ落ちるその人の名字。
「水野……くん?」
そこにいたのはクラスメイトの水野君だ。柚葉ちゃんの驚いたような声音が続く。
「あれ? 知り合い?」
「知り合いっていうか……」
クラスメイトなんだ、という言葉は続かず尻切れとなる。
何で水野君がここにいるのだろう。私が夢喫茶に来ていることは母や兄、彩乃にすら話していない。彼はクラスメイトだけれど用事があれば話すというぐらいで、ここのことを知るはずがなかった。
当の水野君も困惑したような表情を浮かべている。彼は腰に片手を当てて深いため息をついた。
「あー……本当に気付いてなかったんだな。俺、いつもここで勉強してるんだけど」
その言葉で脳裏に蘇る風景。
テーブル席で一人黙々と勉強をする男子高校生。テーブルに乗せられた私と同じ数学の教科書。それらが目の前の水野君と繋がって――私は声を上げる。
「え、ええーーーー!?」
「うん、俺も結構ショックだわ。白谷、結構周りのこと見てると思ってたんだけど」
「そ、それはごめん。きちんと見てなかったのと、その、視野が狭くて……」
まぁいいんだけどさ、と言って水野君は私達の隣のテーブルに座る。
「今日のおすすめの飲み物お願いします」
そのまま流れるように手を上げて注文。当然だけど慣れている。いや、これくらいは普通じゃないかと、私は混乱で動揺した心を宥めた。そんな私に追い討ちをかけるように水野君は言う。
「白谷と日向大が張り切りすぎるから、最近手伝いすることないんだよな」
「ご、ごめん……」
男子高校生――水野君が何もしないで帰っていたのは出来ることがなかったからなのだ。主に最近来た私のせいで。
それからふと思い出したのは、以前柚葉ちゃんが言っていた言葉。
「柚葉ちゃんが前に言ってた
「これ」
そうだったのかと、身近すぎる答えに肩を落としながら納得する。
「これ言うな」
指差された水野君は手を無理矢理下げようとして抵抗を受けた。結局は柚葉ちゃんが負けて、少し不満げな顔で私に問う。
「そっちは?」
それに応えたのは私ではなく水野君。
「高校のクラスメイト。ちなみに同じクラスになったことないけど、同じ中学な」
「あ、そうなんだ……」
追加で知らされた事実に私は更に肩を落とす。確かにクラスは多かったし一緒になったことがないのなら覚えていなくても仕方ないと思う。ただ、相手が知っているのに自分が知らないというのはなんとも情けない。
「あのさ、白谷が俺のこと知らないのは別に普通だからな。クラスも同じじゃないなら知らないやつとか、覚えてないやつがいて当然だろ?」
水野君は私が思っていたことをそのまま指摘する。
ただ、それなら私も水野君に知られるよう人ではないと思うのだ。少なくとも目立つタイプではなかった。どうして知っているのだろう。それは自然と疑問となって口から溢れる。
「じゃあ何で私のこと……」
「中学の時、藤崎とよく一緒に作品飾られてただろ。それに美術部で時間ぎりぎりまで絵を描いてたことあったし。すげえ頑張ってたじゃん」
水野君の言葉で私は微かに息を呑む。
それと共に蘇るのは懐かしい中学の部活動。元々、美術部は好きに作品を作るという緩やかな活動をしていた。それは根本にありながら、私達の世代はコンクールに意欲的に参加するようになった。
あまり遅くまでは残れなかったけれど、コンクール前は部活の先生に頼み込んで彩乃と一緒に絵を描いていた。その一部の熱心な活動で私達の代は珍しく賞を取ることがあったのだ。
それを、知っている?
近しい人以外知らないと思っていた。今こうして見ていてくれた人がいると知り、ぐっと胸が苦しくなる。
「ってかなんでそこまで知ってんの?」
柚葉ちゃんは訝しげに目を細めて僅かに身を離す。そんな彼女に対して呆れ返った声音で水野君は返した。
「あのな、書道部の部室が近かったんだよ。廊下に作品とかコンクールの掲示あったらそりゃ見るだろ」
書道部と聞いて私は感想ノートの字を思い出す。綺麗に整った文字を反芻して水野君の言葉に一人納得した。その時になって、高校の書道部が賞をとっていたという話題を思い出す。
「っていうか書道部だったんだ。今も?」
「まあな」
水野君はそう軽く返すと私に視線を向ける。
真摯な目。それは私を試すようなものに見えて。
「白谷、部活に行かないの?」
私は口を開きかけて――閉じた。
何て言ったらいいのだろう。まずは話さないといけない事実があって、でもそれを私はまだ口に出せない。そして、私は絵に対してどう思っているのだろう。纏まらない思考と思いが轍を作って同じところをぐるぐると巡る。
その時、マスターの声がすぐ側でした。
「お待たせ。夢喫茶特製ブルーソーダだ」
テーブルに乗せられるのは、普段お目に掛からない背の高いグラス。
その中に広がるのは沖縄の海を思わせる透き通る青だ。海の底には半透明の結晶が沈んでいる。グラスの天辺に乗せられるのはアイスという名の白い雲。
柚葉ちゃんはテーブルに乗せられたブルーソーダに目を輝かせる。
「うおぉ! なにこれマスター、今までこういうの出したことないじゃん!」
「今日は特別だよ。頑張っている若者にいい春が来るといいと思ってね」
腕を組み、透き通るブルーソーダを眺めながら水野君はぽつりと呟く。
「……アオハルですか。マスターそれはちょっとないです。俺に青春とかないです」
時雨さんをも凌ぐバッサリとした発言に私は言葉を失う。マスターは気にした様子もなく笑った。
「はは。まあそう言わないで、ゆっくりしていって」
それだけ告げると、マスターはカウンターに戻っていった。目の前からいただきますという柚葉ちゃんの声が微かに聞こえる。怒涛の流れに飲み込まれるばかりの私は取り残されてしまった。
くり抜かれる白い雲。その下に広がるのは真夏の色。
「率直にさ、すごいと思ったんだ」
唐突な言葉に、私は声がしてきた方向へ視線を向ける。
水野君はブルーソーダの雲をスプーンで削っていた。ただそれは口に運ばれることはなく、少しずつ上澄みに溶けて青と混じっていく。青と溶け合う白は滑らかな水色を作り出していた。
「絵ももちろん上手いしさ。それより、同い年で一生懸命になって一つのことやってる人がいるって知ってすげぇって思った。藤崎と――友達と一緒に切磋琢磨し合えるって格好良かったし、羨ましかった」
そう言う水野君の顔はどこか寂しげで。時雨さんの時と同じように、言葉の底に何かがあることに気がついて私は自然と口を噤む。
きっと、誰もが他の人に言えない何かを抱えている。水野君のそれが何かは分からない。ただ、足を絡め取られて転がって、それでも前に進もうと足掻いているように私には見えた。
不意に水野君の視線がこちらに向き、私は自然と身を正す。
「白谷、藤崎と喧嘩でもしてんの?」
「喧嘩してる……わけじゃないけど」
「ふーん? ならどうして」
部活に行かないのか。言葉に秘められた問いにやはり私は口を噤む。
「まあ、それならいいけどさ。気持ち的に描けないなら、ちゃんと話せば藤崎とか分かってくれるんじゃね」
水野君はそう言うとバニラアイスを一匙口に運んだ。ブルーソーダは透明な青と水色の層が出来上がっていた。
無言の空間の中、クラシック音楽だけが聞こえる――。
「わーだめ! 本当にダメ! こういう雰囲気、私ダメなんだよ〜!」
何の前触れもなく轟いたその声に私と水野君は跳ね上がる。いや、お店にいる人たちの視線から見て、恐らくここにいる全員が同じ反応をした。
「柚葉、お前……」
呆れを通して注がれる水野君の冷たい目線。続くだろう苦言を跳ね除けて、柚葉ちゃんはテーブルに手をついて私に差し迫る。
「友紀はどうしたいの? 絵を描きたい? 描きたくない?」
「わーすげー、どストレート」
もはや棒読みと化した水野君に臆することなく、柚葉ちゃんは食ってかかる。
「だって聞かなきゃ分かんないし、言ってもらわなきゃ分かんないよ! 私バカだもん」
「分かってんじゃん」
「なにぉー!」
柚葉ちゃんが声を荒げたその瞬間。
「うるせぇ」
その一言と共に二人の頭が真下に押さえ込まれる。押さえ込んだその人は。
「と、橙山さん」
「元気なのはいいけどな、ちょっとは静かにしろ」
「いや、これは真面目な話で……」
柚葉ちゃんはもごもごと口籠る。ついでに橙山さんの手を除けようとするが、力の差で叶わない。対する水野君は諦めているかのように俯いたままだ。
「真面目な話してるなら、尚更落ち着け」
そう指摘され、柚葉ちゃんはピタリと動きを止める。それから橙山さんの腕からのろのろと手を離した。
落ち着いたところを見計らって橙山さんは二人の頭から手を離す。顔を上げた二人と私を見渡して息をついた。
「それ飲んだら今日は帰ろうな」
橙山さんは私たち三人の頭をぽんぽんと軽く叩いてカウンターに向かっていった。先ほどまでの喧騒は落ち着き、喫茶店はいつも通りの雰囲気に戻る。
私は目の前に置かれたブルーソーダにスプーンを差し込み、底に沈んでいる結晶を引き上げた。薄い青色の寒天は海を固めたような色だ。口に運ぶと寒天は独特の食感で口の中で崩れていく。
「白谷はどうしたい?」
再び訪れるその問い。投げたはずの匙はいつの間にか私のポケットに舞い戻って選択を差し迫る。
けれどそれは決して責め立てるものではない。自分と向き合うように渡された問いだ。
「写真も良かったけどさ。俺はまた白谷の絵を見てみたい」
それ以上は何も重ねることなく、水野君はブルーソーダを余さず頂く。今日の手伝いは俺がやってくからと言って、彼は一足先に席を立った。私と柚葉ちゃんもブルーソーダを飲み終え、勉強道具を鞄の中にしまう。
「今日はなんかごめん」
お店を出て柚葉ちゃんはぽつりとそう言った。見るからに落ち込んでいる様子がいたたまれなくて、私は笑顔を浮かべる。
「ううん、こっちこそ変な話になっちゃってごめん」
ただその笑顔はどうしても苦味が混じってしまう。それに反するように、真剣な表情で柚葉ちゃんは口を開いた。
「私があれこれ言うことじゃないけどさ。でも、湊真が言ってたように友紀自身がどうしたいかなんだと思う」
それじゃあと柚葉ちゃんは言い、私たちは店先で別れた。一人空を見上げながら最寄り駅まで緩やかに歩く。
何かを作るというのは私にとっては当たり前のことだった。昔から気付けば何かを作っていて、あかりさん達と写真を撮るのも楽しかった。写真や冊子を作った時のように新しい知識を得るのも好きだし、その思いに偽りはない。
けれど、戻ってきた匙が私に問いかける。
本当の気持ちは?
繰り返される問いと答え。再び巡る轍の道。
そうして行き着くのは以前から私が持っている答えだ。
出来ることなら親友と共に絵を描きたい。
それが私の中に戻った匙――紛れもない気持ちだった。
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