夢喫茶でまた会いましょう

立藤夕貴

第1話  霧雨 のち 夢喫茶

 霧雨が降る中、私は見知らぬ公園にいた。暖かくなり始めた気候は身を潜め、指先から体の芯が冷えていくのを感じる。

 静かだった。

 雨の日だからだ。子供や母親で賑わいそうな公園も今は人影がない。

 そんな中、銀杏いちょうの木陰で私は一人うずくまっていた。肩より少し長い髪が乱れて視界を覆う。時折落ちてくる滴で服は所々濡れ、冷たくなる空気にぶるりと体が震えた。


「大丈夫かい?」


 唐突に声をかけられ、私は視線を上げる。ゆっくりとした動作でしか動けないのは体が冷え切ってしまったからだろうか。指先を動かそうとして悴んでいることに気が付く。ようやく向けられた視線の先には、銀フレームの眼鏡をかけた白髪混じりの男性が立っていた。

 紺の上着に白いシャツ姿の男性は穏やかな笑顔を浮かべている。

 男の人は私の頭の上に傘を差し出して中腰になった。


「こんなところにいたら風邪をひいてしまうよ」

「……いいんです」


 私は首を横に振り、再び膝に顔を埋める。これでは駄々っ子と変わりないと分かっているけれど、今は一人でいたい気分だった。


「そうか。でも私は君を放っておくことが出来なくてね」


 人の気配を間近に感じて私は顔を上げる。目の前で男の人が屈み込み、手を伸ばしていた。


「本降りにならないうちに、雨宿りしに喫茶店にでも行かないかい?」


 何がそうさせたのかはよく分からない。けれど、いつの間にか私はその手を取っていた。

 雨なので時間帯がいまいち分からない。そういえばスマートフォンの電源も切ったままだ。最後に時間を確認したのはいつだっただろう。そんなことを思いながら私は男の人の後ろ姿を追う。傘を貸してくれた男の人も雨に濡れ始めていた。


「ここだよ」


 そう言われて私は伏せがちだった視線を上げる。

 白い壁に大きめのガラスがめ込まれた木製の扉。その横にある大きめなガラス窓はカーテンで閉じられている。喫茶店と言われなければ分からないぐらいのシンプルな外装だ。

 男の人は鍵を開けて中に入っていく。少し迷ってから私はそれに続いた。


 扉を開けてまず視界に入ったのは木製のカウンターだ。カウンター四席と二人がけのテーブルが四つのこじんまりとした室内。壁の所々にドライフラワーが飾られていてシックな室内は綺麗に整っている。

 そこで私はようやく気付く。喫茶店は――まだ開店前なのだ。


「はい、よく拭いて。風邪をひいてしまう」


 そう言って差し出されたのは厚手のタオル。確かにずぶ濡れではないけれど、濡れた服で体がとても冷えてしまっていた。私が遠慮がちにタオルを取ると男の人はにこりと笑う。


「落ち着いたらカウンターに座って待っていてくれないかな」


 そう言って男の人はどこかへと言ってしまった。濡れた髪や服を拭きながら所在のない私はカウンターに向かう。その一席には掛け物が置かれていた。冷えるのを気遣ってくれたのだろうか。私は躊躇ためらいながらも掛け物を肩に掛けて席に座る。


「お待たせ」


 声がしてきた方に視線を向けると着替えを済ませた男の人が立っていた。

 きっちりとアイロンをかけたシャツに黒のベスト姿。まさに喫茶店のマスターと呼ぶ以外ない姿だった。その佇まいは妙に落ち着いていて、何故だか不思議と気持ちが静まる。


「私はここの喫茶店の店主。マスターと呼んでくれると嬉しいかな。君の名は?」

「……白谷しらたに友紀ゆきです」

「白谷さんだね。よろしく」


 いい名だねとマスターは柔らかく笑う。


「ここの喫茶店のメニューは日替わり。ただ、食事もお菓子もその日決まった一品なんだ。君はどちらがいいかな?」


 気持ちがいっぱいでお腹は空いているとはいえない。ただ少し甘いものが食べたい気分だった。喫茶店でお茶なんてあまりしないけれど、今日ぐらいは大丈夫かな、なんて思う。


「……お菓子でお願いします」

「お茶はいろいろあるけどどうするかな? お任せでも大丈夫だよ」


 今は選ぶ元気もなかったので私はお任せすることにした。それじゃあ今日のとっておきを、と言ってマスターは笑う。


「少々お時間をいただくよ。あそこにある本は好きに読んでくれて構わないからね」


 そう言ってマスターは本棚を指差す。入り口近くにある小さな本棚には文庫本を中心とした本が並んでいた。


「ありがとうございます」


 暖かいお店の中に入ったお陰だろうか。少し気持ちが落ち着いた気がする。何気なく私は本棚の前まで足を運んだ。

 近くまで寄って綺麗に並ぶ本の背表紙を指でなぞる。その中に気になっていた作者の文庫本を見つけて少しだけ引き出した。

 そこで私の手はぴたりと止まる。本を引き出すことなく戻し、私は目をつむった。


 穏やかなメロディが喫茶店の中に響く。クラシック――確かドビュッシーの月の光だったと思う。穏やかな音楽が今の私にはちょうどいい。

 私は大判の本が並ぶ段に目を移し、写真集を一冊手に取ると立ち上がった。直後に入り口のドアが開いて私は盛大に驚いてしまう。


 そこにいたのは男の人だ。三十代前半ぐらいだろうか。中背で細身なその人は少し眉を寄せてこちらを見る。癖のない黒い髪と瞳。藍色のフレームの眼鏡を掛けていて少し神経質そうな印象を受けた。

 男の人は頭の先から足元まで私を見渡す。そんなにじろじろ見られるほど変だろうかと思っていると、その人はふうと息を軽くついた。


「……マスター、また拾ったんですか?」

「え」


 一瞬、何を言われたのか理解出来なくて私はぽかんとしてしまう。

 それじゃあまるで私が捨て猫のようだ、と思ったところであまり否定できないことに気が付く。男の人は私を気にすることなく店の窓際のテーブル席に腰を下ろした。


「こんな雨だからね、傘も持っていなかったから雨宿りに誘ったんだ」

「つまりいつも通りってことですね」


 そうばっさり男の人は返すがマスターは至って変わりなくにこにこと笑っている。何だろう。険悪と言うわけではない不思議な空気だ。間に入るなんてことは当然出来なくて、その間にぽんぽんと会話が進んでいく。


時雨しぐれ君。まずはいつも通りでいいかい?」

「はい」


 時雨君と呼ばれた男の人はノートパソコンを開く。しばらくすると姿勢を正してキーボードを打ち始めた。ピンと筋が通っていて綺麗だ。


 静かに生まれるキーボードの音。

 クラシックの穏やかなメロディ。

 本降りになり始めた雨が窓を叩く。


「君も座ったら?」


 その声で私は我に返る。いつの間にか時雨さんがこちらを見ていた。


「す、すみません。そうですね」


 じろじろ見ていたことに気が付いて、私は慌ててカウンターに戻った。

 カウンターではマスターは二人分の注文を手際よくこなしていた。その立ち振る舞いに思わず目を奪われる。

 何と言ったらいいのだろう。とにかく綺麗だなと率直に思った。手際よい動きに忙しなさがないんだとそこで気が付く。

 カウンターに差し出されたのはトレーに乗った白いポットとカップの一組。


「よければ、時雨君に持って行ってもらえないかな?」


 それは唐突な頼まれ事。断る理由もなくて、私は軽く頷くとトレーを持って席を立つ。席の時雨さんは真剣にノートパソコンに視線を落としていた。

 言葉は自然と形となる。

 それはお店で慣れ親しんだ言葉。


「お待たせしました」


 時雨さんはこちらに視線を向けると、ありがとうと言った。冷たい人なのかと思ったのだがそうでもないのかもしれない。カウンターに戻るとマスターが待っていたかのようににこやかに笑う。


「ありがとう。助かるよ」

「いえ」


 大したことはしていないけど、それでもやっぱりお礼を言われるのは嬉しいもので、私は軽く微笑んだ。

 それからもてきぱきとマスターは手を動かしていた。私は何気なくその動きを見守る。穏やかな時間が心地いい。次第に甘い香りが店の中に漂い始めた。

 そうして目の前に出されたのは。


「どうぞご賞味あれ。特製米粉バナナパウンドケーキとチャイだ」


 飾り切りのバナナが載せられたパウンドケーキが二つ。そして、シナモンスティックが乗ったチャイだ。出来立てのケーキからはほのかに暖かく甘い香りが漂う。


「冷めないうちにどうぞ」


 マスターに促されて私はフォークを手にする。パウンドケーキをフォークで切ると思ったよりしっかりした感触だった。フォークで切り取ったパウンドケーキを口に運ぶ。


 始めはさくりとした独特の生地の食感。外側はかりっと焼けていて小麦粉とは違った食感が新鮮だ。続けてバナナの優しい甘味が口の中に広がる。加熱されたバナナは甘味が増してしっとりと美味しい。思わず顔が綻ぶ。

 それからチャイを一口。

 チャイも飲んだことのあるものより紅茶の香りがはっきりしている。濃いミルクに合わせても負けないぐらい主張していた。甘味は抑えられていて心まで軽くなる。

 温かい。

 ほうっと思わず息をつく。


「……美味しい」

「苦手でなければシナモンスティックを入れてみるといいよ」


 そうマスターに勧められて私はソーサーに乗せられているシナモンスティックを手にしてみる。それから少し固まってしまった。

 どうしていいか分からない。シナモンスティックなんてお洒落なもの、家の料理では使わない。


「スプーンのように数回かき混ぜるんだよ」


 固まったまま私に向かってマスターにこやかに笑う。言われた通りにシナモンスティックでチャイを混ぜ合わせ、口に運んだ。

 口に含むとスパイシーなシナモンの香りが強く広がる。けれど嫌ではない。むしろ癖になりそうなんて思う。少しずつ飲み進めていくと冷えた体がぽかぽかと暖まってくる。


「時間があればゆっくりしていくといいよ」


 そう言われて、私は鞄の中にあるスマートフォンの電源をつける。今更と言わんばかりに身を震わせてスマートフォンが起動した。

 ようやく起動した画面に映し出されたのは十四時六分という時刻。もう少しお店にいてもいいかなと思って、私はカウンターに置いていた写真集を開く。

 一瞬の世界を切り取る写真たち。

 遠く透き通る空や草花を写す何気ない写真が綺麗だ。四季折々、それは淡く目に優しい色彩の世界。


「写真は好きかい?」

「……はい。その人の世界が見えるというか、自分にない視点で切り取られた世界を見るのが好きで」


 そこまで言って、気恥ずかしさから私は写真集に視線を落とす。聞かれていないのに思わず口から出ていた。


「素敵だね。いい視点だと思うよ」

「あ、ありがとうございます」


 真っ直ぐに褒められるなんて普段あまりない。それに慣れなくて私は誤魔化すように写真集を捲った。

 おかわりは自由だから気軽に頼んでいいからねと、マスターの言葉が耳に届く。その言葉に甘えて私はチャイをもう一杯頼んだ。

 キーボードを叩く音とクラシックの曲。そして、本を捲る私。


 こんな穏やかな時間がいつまでも続けばいいのに。

 安心したのもあったのか、頬杖をつきながら写真を捲る私はうつらうつらと夢と現実の間を漂っていた。寝てしまいたいぐらい心地よさでふっと意識が飛ぶ。


「駄目だ」


 唐突に響き渡ったその言葉で私は現実に一気に引き戻された。慌てて声がした方を見ると、時雨さんがノートパソコンを閉じているところだった。


「マスター、また来ます」


 そう言って時雨さんは荷物を片付けると慌ただしく席を立つ。マスターとその後ろ姿を見送ってから私はあることに気がついて愕然とした。


「今日は調子が悪かったかな」


 マスターは顎に手を当てて一人納得したかのようにそう言う。けれどこんなに悠長にしていていいのだろうか。心の中で蒼白になりながら私は口を開く。


「あ、あの」


 出てきたのは自分でも分かるほどに狼狽うろたえた声。私の言葉を汲み取ってマスターはこちらを見ると笑った。


「ああ。お代のことかい? この店では払っても払わなくてもいいんだよ」

「え?」


 マスター曰く、この喫茶店ではお客さんに値段を決めてもらうのだそうだ。先ほど言っていた通り、食事もお菓子も飲み物も全て好きなだけ頼んでいい。ちなみに時雨さんは仕事の調子が乗らない時、こんな風に立ち去ってまた店に来るんだとか。

 ちなみに学生は無料ね、なんて言ってマスターは笑う。


 客に値段を決めてもらう店なんて聞いたことがない。今まで出会ったことのないことに直面した私は何も言えずに立ち尽くす。そんな私にマスターは名刺大の紙を差し出した。

 そこに書かれているのはお店のロゴ。ローマ字つづりでトロイメライと書かれている。裏面を見返すと地図と住所、お店の営業時間が書かれていた。


「喫茶店トロイメライ。皆には夢喫茶って呼ばれているんだ。よろしく」


 そこは現実から離れた不思議な空間。それはまるで夢のようなひと時のようで。



 暖かさが増してきた時期。

 柔らかな花の香りがする季節。

 それが私と――夢喫茶の出会いだった。

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