第9話 夜明けのティータイム
写真を眺める男性を見て私はあっと声を漏らす。その間にもあかりさんはその人の元へと歩み寄っていた。
「しぐさん」
親しげなあかりさんの声掛けとは裏腹に男性――時雨さんが眉根を寄せて振り返った。機嫌が悪いのかなと思いつつ、恐る恐る私は二人のやりとりを見守る。
「どう? なかなかいいでしょ」
「まぁ」
「相変わらず素っ気無いなー。でも、しぐさんは興味なかったら見ないもんね」
その言葉に時雨さんはあかりさんをじっと見据える。ちょっと睨みつけるような視線に私は心の中で狼狽えるも、あかりさんは意に介さない。
「あの子の作品なの。よかったら感想でもあげて」
あかりさんの手に導かれて時雨さんの視線が私に向く。急に話を振られて私はしどろもどろになりながら挨拶をした。
「え、はい。白谷友紀です。よろしくお願いします」
今更ながらの自己紹介と共にお辞儀をする。注文の品を運んだことは何度かあるが、対面で話をしたことがなかったのだ。
「藍川時雨。……別にそんなにかしこまらなくてもいいんだけど」
聞き覚えのある名前に私は目を見張った。それは思ってもみなかった名前で思わず復唱する。
「藍川時雨ってあの……小説家の?」
「うん、最近話題になりつつある新進気鋭の作家さん」
私の問いに答えたのはあかりさんだ。まるで自分のことのように胸を張って言う。対照的に時雨さんは冷めた言葉で淡々と返した。
「まだぽっと出ですけどね。でもよく知ってるね」
時雨さんの視線が私に向けられ、慌ててそれに応える。
「あの、兄が好きで。勧められて読ませてもらいました。登場人物の心理描写や移り変わりが濃くて、一気に読んでしまいました」
私の言葉に時雨さんは少し意外そうな表情をしてからどうも、と言った。そっけないような反応に少しだけ抑揚がついたのは気のせいだろうか。
「まあ立ち話もなんだし、座ろうよ。しぐさんもご飯はまだ?」
「まだ。仕事始めて一休みしてたところ」
そう言って時雨さんが指し示すのは窓際のテーブル席に置いてあるノートパソコン。それを見て、ここで仕事――小説を書いていたのかと納得する。ちなみにここには仕事で来るので、ペンネームである藍川時雨で名を通しているのだそうだ。本当の名前はなんだろうかと思ったけれど、もちろん聞く勇気はない。
「マスター、食事を三つお願いします」
「ああ、少々お時間いただくよ」
あかりさんの注文を受け、マスターは待っていましたと言わんばかりに支度を始める。時雨さんはそのまま窓際のテーブル席に、私とあかりさんはその隣の席に座った。そういえばテーブル席に着くのは初めてだ。席に座ると改めてあかりさんは時雨さんの方を見た。
「しぐさんのミステリー小説なかなか濃いよね。ああいう恐怖感掻き立てられるような描写初めてだったなぁ。しかも日常に潜んでる悪意だから身近に感じて余計に臨場感増すし」
「あ、はい。すごく分かります」
あかりさんの感想は私が言いたかったことを的確に表現していて、思わず便乗する。
「新刊は読んだ? 今までとガラッと変わっていてあれも面白いよ」
私は言葉を詰まらせる。少しだけ声の調子が落ちてしまうのをどうすることもできなかった。
「あ……その、新刊はまだ読んでいなくて」
「そっか。時間ある時に読んでみたらいいよ。ここにも置いてあるから」
あかりさんが指差すのはお店の出入り口近くにある本棚だ。
夢喫茶初めて来たあの日、手を伸ばして取らなかった本。そこには時雨さんの本が並んでいた。
視線を感じて私は意識を向ける。ノートパソコンを閉じた時雨さんがじっとこちらを見ていた。
「な、なんでしょう?」
「なんか変わったなと思いつつ。でも変わらないなとも思って」
「え」
「まあ、それでいいんじゃないの」
時雨さんは一人納得したようにそう言うが、言われた私は何がなんだか分からない。そんな重くなりそうな雰囲気を打ち破る快活な声が店内に響く。
「こんにちは!」
「来た」
ぽつりと時雨さんが呟く。その視線の先にいるのは日向大君と柔らかく波打つ髪の女性。会釈でセミロングの髪がふわりと踊る。
「花菜さん。調子はどうだい?」
「はい、だいぶ落ち着いてきました」
挨拶で日向大君のお母さんだと気付く。カウンター席に着いて早々、日向大君はそわそわしていた。きっと配膳のお手伝いを任されたのだろう。
「相変わらずよくやるよね」
時雨さん感心とも呆れとも取れるような声音で呟く。その声に潜む感情が汲み取れず、私はただ聞き届けることしか出来ない。程なくして、日向大君の手で時雨さんの目の前に今日の一品が運ばれた。
「お待たせしました」
卵の衣を纏うチキンライスの山。それにお供するのはボウルいっぱいの温野菜サラダだ。同じものが私たちにも届けられる。
「夢喫茶特製オムライスです」
私たちのテーブルに注文の品を置いたのは日向大君のお母さん――花菜さんだ。その時になって、三人分の注文を運ぶには日向大君だけでは手が足りないことに気付く。
「あ、すみません。私……」
思わず立ち上がろうとしたところで花菜さんが手で押し留め、ふわりと笑った。
「ダメよ? お客様なんだからゆっくりしていって」
そう言うと、花菜さんはカウンターに戻っていく。一足先に戻っていた日向大君と共にカウンターに腰を下ろした。気遣いに対する感謝と申し訳なさが同居する。
「たまにはいいんじゃない?」
心中を察したかのようにあかりさんがそう言った。なんだか最近は言い当てられることが多くて、そんなに顔に出ているのかなと心配してしまう。
「それじゃ、いただきますか」
あかりさんの一言で私たち三人の遅い昼食が始まった。
とろりとした半熟卵の衣を破ると、綺麗なトマト色に染まったご飯が身を現す。一口位頬張れば期待を裏切らない味が口の中に訪れた。添えられている温野菜のサラダはさっぱりとしたバジルソースで和えられていて、黙々と箸が進んでしまう。食べ終わりごろになって時雨さんがぽつりと漏らす。
「相変わらずここ、野菜の量多いね」
やや不服そうな声音の時雨さんに向かってあかりさんが即答する。
「しぐさんみたいなのがいるからそうなんじゃない? ご飯面倒臭くて、丼とかカレーとか一皿で済むものよく食べてるって言ってたじゃん」
「よく覚えてますね」
呆れたような声音で時雨さんは言う。そこ呆れるところじゃないよねと、すかさずあかりさんが突っ込んだ。それにも全く動じることなく黙々と時雨さんは食事を続ける。
なんだか不思議な関係だなと思いながら私はその様子を見守っていた。その時、不意に時雨さんの視線がこちらを向く。
「写真、いいんじゃない」
「え」
「なんていうか、きっと見る人によってすごく印象が変わる面白い作品だと思う」
「あ、ありがとうございます」
思い掛けない時雨さんの言葉に私は上手く言葉が返せない。気の利かない言葉しか出てこないなと焦っているうちに、時雨さんが続けた。
「それに作ってるのが楽しかったなら、それが一番いいんじゃない」
時雨さんの言葉に含まれている暗い感情に気がついて、私は問う。
「……時雨さんは作品を作るの、楽しくないんですか?」
どうなんだろうね、と時雨さんはぽつりと呟いた。何かを思い返すように目を閉じて時雨さんは私の問いに答える。
「自分は文を書くことしか出来なかったから。それで周りや父親を見返したかった。それだけ」
それだけと締め括られた回答。
けれど、その言葉には想像できないような何かが含まれていて。時雨さんが抱いている感情を私は言い表すことが出来そうになかった。
「まあ動機はともかくとして、なかなか名乗れない肩書きの仕事できてるんだからいいんじゃない?」
あかりさんのその一言でわずかに張り詰めていた空気が弛緩する。時雨さんが一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの淡々とした表情に戻った。
「東雲さんはほんと楽観的ですね」
「そこは前向きって言って欲しいんだけど」
「同じじゃないですか」
「危機感がない人みたいに聞こえるじゃん」
同じじゃないですかと、時雨さんは素早く切り返した。不服そうな顔をするあかりさんを見て、肩を竦める。
「橙山や東雲さんみたいにはなれないもので」
あまり人と関わり合わない時雨さんから出てきた二人の名前。私は気になって尋ねる。
「橙山さん、ですか?」
見たままの印象であるが時雨さんと橙山さんは真逆に感じていた。
動と静。陽と陰と言ったらいいのだろうか。もちろんどちらがいいとか悪いという話ではない。ただ、普段関わり合わないだろう二人の関係が想像もできなかった。
「ほら、近い年代とか立場とか、人って無意識のうちに比べるもんでしょう」
「つまり、橙山くんと比べて卑屈になってるわけだ」
「……否定しませんけどね」
あかりさんの指摘に時雨さんは珍しくふてくされたような声音でそう言って、黙々と食事を口に運ぶ。
無意識のうちに比べてしまう。
時雨さんの言葉と思いが分かるだけに私は何も言えない。あかりさんは変わらずに時雨さんを探るように見ていた。
一人いたたまれない想いに沈んでいる時、テーブルにガラスのポットとカップが置かれた。ソーサーにはレモンが添えられている。それは見たことがない、透き通った青色のハーブティー。
「お待たせ。おすすめのハーブティー、マロウブルーだ」
視線を上げるとマスターがいつもの笑顔で立っていた。
失礼するよと言ってマスターが私のカップにお茶を注ぐ。透明なカップに透き通る青が広がっていった。綺麗な青だと心の中で呟く。
「まずはそのままで。後でレモン果汁を入れてみるのをお勧めするよ」
ゆっくりどうぞ、と言ってマスターはその場を後にする。ちょうど時雨さんが食事を終えたところだった。
「本当にしれっとこういうの出してくるよね」
「え?」
「ちょっと喉の調子が悪くてさ」
私の半端な返事に気を止めることなく、時雨さんはカップにお茶を注ぐ。せっかくだから早めに飲みなよと時雨さんが続けた。
勧められるがままに私はカップを手に取り、普段よりぬるめのお湯で入れられていることに気が付く。温かいうちに飲むよう勧めてくれたのだ。一口飲むと程よい暖かさで、少し薬のような風味と蜂蜜の甘みがする。
「調子悪いなら無理しないでよ?」
あかりさんの言葉に分かってますよと時雨さんが返した。その後は三人、静かに食後のハーブティーを頂く。
ゆったりと流れる時間。その中で時雨さんが静かに口を開く。
「ここは自分には眩しすぎる。場所も人も」
ぽつりとつぶやかれた言葉。
それは私が以前抱いた思いと同じだ。今もかすかに燻り続けている。だから時雨さんが呟いた言葉は身に染みた。
カップを静かに見つめる時雨さんはどこか遠くに心を置いていた。
「でも、嫌いじゃないでしょ?」
「ここは個性的な人が来るから小説にはうってつけの場所。自分はここを《利用》しているだけ。真っ黒でしょ」
卑下するような言葉にさすがのあかりさんも口を噤む。時雨さんはカップのお茶を飲み干すとノートパソコンを鞄にしまった。
「二人はゆっくりしていってどうぞ」
そう言い残すと時雨さんはカウンターで支払いを済ませ、夢喫茶を後にした。声をかける暇もなく、私とあかりさんはその後ろ姿を見送る。まるで取り残されたような気分だ。
頬杖をつき、あかりさんが蜂蜜をカップに垂らしながら誰にともなく呟く。
「しぐさんは自分のこと過小評価しすぎだよねぇ。まぁ私も比べられっ子だったから分かるけどさ」
珍しい不満そうな声音に私は自然と口を噤んだ。あかりさんはしばらくティースプーンでカップの中をかき回していたが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そうだ。レモン入れてみなよ」
面白いよと言われて私は残っていたポットのお茶を注ぐ。時間が経ったマロウブルーは綺麗な紫色に変化していた。
誘われるがまま、添えられているレモンを絞る。果汁が紫色のハーブティーに滴り落ちた途端、透明な紫は柔らかな桃色に様変わりした。
「わ、色変わるんですね」
「そ。夜明けのハーブティーって言われてるんだって」
透き通る青から紫、そしてレモン果汁を落として変化する薄桃色。
まるでそれは夜が明けていくような移り変わり。
「アントシアニンだったかな。水の性質によって色が変化するんだって。ちょっとした化学反応よね」
化学反応。私は心の中でそれを復唱する。
反応しあって変化するその様。私はそれに少しだけ人の関係を重ねた。
あかりさんは姿勢を正すと店内を見渡し、私も改めて周りに視線を巡らせる。
自分が作り上げた世界がそこにある。
「しぐさんが褒めるのって珍しいから。あなたもあなたの世界に自信を持っていいと思う」
私の色があるように、時雨さんの世界がある。
きっと話さなければ分からなかった藍川時雨というその人。どこか影のある思いは私とよく似ていて他人事には思えなかった。
* * *
陽が落ち切る前に私はアパートに帰宅する。今日も母は夜勤で不在だ。最近、休みの日の夜勤が多いなと思いながら自分の部屋に向かった。
独りだと音がないと少し物寂しいので好きな音楽をかけてベッドに腰掛ける。小さいアパートでも一人では妙に部屋が広く感じられるから不思議な感じだ。
音楽をつけたまま写真集を捲る。初めて作った冊子は拙いながらもそれなりの格好をしていて、自分なりに納得した仕上がりだった。
一枚一枚振り返っているとスマートフォンが身を震わせる。私はメッセージ主の名前を見て一度手を止めた。
送り主は彩乃だ。
『ね、こんな展示会見つけたの。よかったら行ってみない?』
翌週の日曜日にどうかというお誘いが続いていた。メッセージ欄の一番下には展示会のサイトのリンクが貼られている。私はそこからサイトに飛んで内容を確認した。
最近よく広告を目にする浮世絵の展示会だ。彩乃にしては珍しい展示のお誘いで少し興味が湧く。
翌週の土曜日は朝早くから展示の片付け。日曜日は今のところ予定はない。ただ、私の影が不穏に心の中でざわめく。
揺らぐ私の心。迷いに迷って私はそのメッセージを送った。
『ごめん、その日も用事があるんだ』
当てのない用事があるとメッセージ送る。程なくすると『そっか、残念……。また誘うね!』という文章が目に入った。
その文章を見届けてスマートフォンを手放し、ぼすんとそのままベットに倒れ込んだ。展示会の写真集が横になった私の視界に入る。二冊の写真集を眺めながら私は時雨さんとのやりとりを思い出していた。
互いに夜が明けるときは来るだろうか。そんなことを思いながら、私は一人夜明けのお茶会に思い馳せた。
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