第3話 ふかふかの猫さん
山盛りだったビスケットも、溶けきらないほど砂糖を追加した乳白茶も、きれいにユスティーナの胃に収まった。
「……ふう。おなかいっぱい」
緩めの部屋着をだらしなく押し上げる、見事な腹をさすって満足感に浸ったユスティーナであったが、ふと何か言いたげだった双子たちの視線を思い出した。
壁掛けの姿見を一瞥し、すぐに逸らす。一瞬瞳に映った自分の姿は、さながら白いクリームの山だ。全身にまんべんなく付いた脂肪は腹だけでなく、頬を、二の腕を、太股をもっちりとふくらませている。波打つ黒髪は変わらず美しいのと、顔立ちがまだ崩れていないのが救いだが、体型をごまかすために着ているゆったりした部屋着程度では何もごまかせていない。
「やっぱり少しぐらい、運動をしたほうがいい、かしら……?」
以前と比べれば、食事ができるぐらいには心身共に回復している。その分、常にイシュカを筆頭に周囲の目を気にする癖も復活してきていた。
「いいえ、いいえ! こんな私に会いに来る人なんて、誰もいないもの。やせる必要なんてない。イシュカ様に相応しい姫君でいる必要なんて、ないんだもの……」
もう銀月の君ではない。イシュカの婚約者ではない。
それどころか今のユスティーナは伝統ある二つ名を地に落とした、恥さらしの卑怯者なのだ。わざわざこの離宮まで会いに来てくれる者といえばアルウィンぐらいだが、彼の訪問はユスティーナ自身が断っている。
半年前にナインが起こした内乱の影響が消えておらず、足下がごたついている兄王。一族の誇りから一転、後ろ指指されるようになった妹などに関わらないほうがいい。アルウィンまで己の失敗に巻き込んでしまっては目も当てられない。内乱に疲れている民を、これ以上苦しめるわけにはいかない。
しかし、である。それはそれとして、振り返れば二月あまりも食べて寝るだけの生活を続けている。毎朝の沐浴を除くと、ユスティーナが自主的に体を動かすのはお茶に砂糖を追加する際ぐらいのものだ。日に日に重くなる体では動く気にもなれず、その必要もない身分に成り下がったのだと嘆いていたが、さすがに己の健康が心配になってきた。
「う、運動しないと、おなかも空かないものね! よし、軽くお散歩でもしてきましょう」
何もかも失い、一時は死すら考えていたが、少なくともこの離宮にはユスティーナを愛してくれている者が存在するのだ。お前に過度の責任を背負わせてしまったと泣いていた兄にこそ、これ以上の負担をかけるわけにはいかない。最低限の健康は維持しておこう。
そう決意し、久々に部屋を出たユスティーナは手すりをしっかり握り締めて一階へ降り、やがて宮殿の中庭へ差し掛かった時だった。渡り廊下の途中、初夏の緑にあふれた庭の中に赤いものを見つけた。
「……あら?」
反射的にユスティーナはその場に屈み込む。なんでもないはずの動作も、めっきり増えた体重に邪魔されてよろよろしてしまったが、鍛え上げた体幹がまだ仕事をしてくれた。おかげでぎりぎりひっくり返らずに済んだものの、危なっかしい姿を金色の瞳が食い入るように見つめている。
「あら、まあ……なんてふかふかの猫さん!」
「にぎゃっ!?」
早くも軽く息を乱したユスティーナの前にいたのは、暗赤色の長い毛並みと金色の瞳が印象的な、大きな猫だった。歓声を上げたユスティーナに驚いたのか、猫は毛をびゃっと逆立て、逃げるそぶりをみせた。
「待って! 逃げないで。ねえ、お願い。少しだけ触らせて?」
慌てたユスティーナは機嫌を取るように優しい声を出し、そっと手を伸ばして暗赤色の毛を撫でる。逃げこそしないが、警戒は捨てきれないようだ。いまだ尾もぶわっと膨らませている猫の長い毛には、泥や枯れ葉が絡みついていた。
「あらあら、せっかくのきれいな毛並みが汚れてしまっているわね……山の中でたくさん冒険をして、ここまで来てくれたのね」
指にまで脂肪が回っているユスティーナであるが、弓だこはまだ目立つ。鍛えた証をじっと見ている猫に付いた、枯れ葉の欠片を払ってやろうとしたが、湿った泥と毛を巻き込んでしまっている。沐浴でもさせなければ取れないだろう。
「この毛の色、それに目の色も、まるで……」
ふと思い出した光景に、ユスティーナのふくよかな頬が強張った。
血と泥に塗れてなお、薄汚れない戦士の誇り。長めの暗赤色の髪の下、ぎらぎらと光る「彼」の瞳は、どれだけ戦況が苦しくなっても消えないどころか勢いを増していく。
内乱の終盤、ナインに味方していた者たちのほとんどが帰らぬ人となり、残った者たちも逃亡や寝返り、助命嘆願をする者が大半となった。しかし「彼」だけは最期までナインを見放さず、最期までユスティーナの前に立ち塞がった。武芸だけではなく忠義心の強さや度胸の座り方においても、到底勝てない相手だと何度も思い知らされた。
だがどうしても、君が勝たなければいけないんだよ、とイシュカが耳元でささやいた。僕の愛する月の女神、銀月の君でいたいならね。
どうせ逆らうのなら、せめてあの時にすれば良かったのに。
「……猫さん、おなかが空いている? 何か食べる?」
後悔混じりの優しさで申し出れば、猫ははっとしたように金の瞳をぱちぱちさせた。そしてユスティーナからつんっと顔を背けると、その横を通って離宮の中に入ってきた。長い尾の先で、ユスティーナの足をぺしんと叩いて。
「ふふ、現金な猫さんね」
嫌われてしまったようだが、触らせてはくれたのだ。これ以上は望むまい。……それに「彼」には、何もしてあげられなかった。
「こっちに来て、猫さん。ああ、サラ、リラ、丁度いいところに! この猫さんに、何か食べるものをあげようと思うのだけど」
厨房に誘導すると、猫はなんとなくふんぞり返った気配を漂わせながらついて来た。そのまま歩き出したユスティーナは、折良く通りかかった双子の侍女に笑顔で声をかける。
「えっ、ユスティーナ様、まだ召し上がるので……!?」
「リラ、違うって。ユスティーナ様、その猫はどうしたのですか? ずいぶん汚れていますけど……」
妹の勘違いを訂正する一方で、サラも彼女と揃いの水色の瞳に不審の陰りを浮かべている。
「迷い込んできたみたいなの。何か食べさせてあげて。それと、毛並みもきれいにしてあげてね」
自然豊かなカイラ山中の離宮であるため、動物が迷い込んでくることは多いのだ。危険な獣であれば警備兵が追い払うが、猫一匹なら彼らの目を掻い潜ったか、見逃されたかしたのだろう。
「……そうですね。ユスティーナ様の、慰めになるのでしたら……」
「……そうですね。そんなに可愛くないけど……」
ユスティーナのためならばと、サラは猫の世話を承知した。汚れている以前に妙に目つきが悪く、ふてぶてしい表情はリラの美意識には合わない様子だったが、同じく承知してくれた。
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