第21話 名師匠の愛弟子
獣の血が強いせいか、ヴァスは血は飲まないが、内臓は好みらしい。彼の案内に従って山中を流れる川に辿り着き、ユスティーナが猪の心臓に小刀を突き立て血を抜いた後、腹を裂いてかき出し始めた内臓を生のまま食べ始めた。一見野蛮極まりないしぐさだが、整った容姿と優雅な手付きが、奇妙な上品さを同居させている。
「……言うだけはあるな、下手な猟師よりうまいじゃないか」
赤く汚れた口元を拭いながらも、ヴァスはユスティーナの仕事ぶりを観察している。彼女が操る小刀は慎重かつ軽快に動いており、全く迷いがない。
「あ……ありがとうございます」
褒められるのはユスティーナにとって日常である。何事も完璧にこなす銀月の君であれば当たり前だが、もうそうではなくなった上に、相手がヴァスだからだろう。皮肉っぽい褒め言葉も、やけに胸に染みた。
「……こんなことまで、イシュカが教えてくれたのか?」
「え、いえ……山での暮らしについては、ダーントが」
さり気なさを装った質問にユスティーナが首を振ると、ヴァスはかすかに眉根を寄せて聞き返してきた。
「ダーント?」
「昔、離宮で御者を務めていた人なんです。山のことにも詳しくて」
「……どこかで聞いた名だな」
まずい。ユスティーナの背筋を冷や汗が伝い落ちた。
父親の名に反応するということは、やはりヴァスはローゼの知り合いなのだ。彼について聞きたい気持ちと、聞きたくない気持ちがぶつかり合い、ユスティーナは押し黙った。ヴァスも沈黙している。遠い鳥の声ばかりがあたりに響く。
「そういえば、あの双子たち、もしかするとドルグの孫ではないか?」
「えっ」
やっぱり聞こうかとした矢先、思いがけない方向に話が逸れた。動揺しながら、ユスティーナは老練な戦士の精悍な顔を思い出す。
「あ、ああ……そうですね。ドルグ師匠も、あなた方と共に戦ったのでした」
ドルグは非常に優秀な武芸の師範だった。幼い頃からユスティーナはもちろん、兄など王族の者たちを厳しく優しく鍛えてくれた。サラとリラは彼の孫娘であり、その縁もあってユスティーナの侍女になってくれたのだ。
「道理でな。だから侍女風情が、お前の修行相手を務められるような腕前を持っているわけだ」
山籠もりの話に動じないのも、ユスティーナの訓練に付き合えるのも、彼女と一緒に幼い頃から祖父に鍛えられていたからなのである。やっと納得できた、とうなずいたヴァスの目が不意に暗くなった。
「孫がいると、ドルグから直接聞いたわけじゃないがな。あのじじいは、粗野な獣返りめとオレを嫌っていた。ナインから頼んでも、稽古を付けてくれなかったからな」
名師匠として有名だったドルグの弟子になりたがっていた者は数多い。しかしドルグは残念なことに、才能はあるが獣返りであるヴァスのことを嫌っていたようだ。若く貧しかった頃、最初に取り立ててくれたナインに従い内乱に付き合いはしても、そこまでは譲歩してくれなかったらしい。
「お前は、ドルグの愛弟子だったらしいな」
暗い目をしたままのヴァスが、何を言いたいかはユスティーナも分かっている。ずっと陰で言われてきた言葉だ。王女であり、月の女神の生まれ変わりであり、あのイシュカの運命の恋人。全ての方術を使える上に、ドルグにまで贔屓されている。
さすが銀月の君、あらゆる点において恵まれている。あそこまでお膳立てされていれば、誰だって強くなれるわよ。
そうです、とユスティーナも思っている。私は恵まれている。栄光は常に用意されている。イシュカの導きに従い手を伸ばせば、誰もが羨む幸福をたやすく掴み取ることができる。
だから時々、何も彼も捨てて逃げ出したくなるのは、単にユスティーナが我が儘なのだ。イシュカにもたびたびそれを指摘され、身勝手さを反省するように諭されてきた。もちろん反省した分、ユスティーナだけに向ける笑顔で甘やかしてくれるのだが。
「つまりは、オレほどの腕前を持つと、師すら必要としないという話だ」
知らずうつむいていたユスティーナは、その一言にはっとして顔を上げた。見つめたヴァスの瞳に先程の陰りはなく、傲岸なまでの自信に満ちている。時には味方とも衝突してしまう大口のせいもあって、素直な弟子を好むドルグは彼を嫌ったのかもしれないが、ユスティーナは心から同意した。
「……ええ、そうですね! そのとおりです、ヴァス!!」
ユスティーナにはドルグもいた。イシュカもいた。だがヴァスには、まともに口をきいてくれる相手もナイン以外いなかったようなのだ。逆境をばねにして、崖から落とされても這い上がり、ここまで来てくれた執念に今度こそ報いなければ。
決意を新たにしたユスティーナは空になった猪を川に浮かせた。続いて水の術を使えば、通常は半日以上かかる冷却時間は数時間に短縮される。これで当面の食料と水は確保できた。ちなみに水の術を使用して水そのものを地面や空中から取り出すことも可能であるが、ユスティーナが使える程度の術では消耗の割に取り出せる量が少ないため、使用可能な水源があればそちらに頼ることにしている。
「私はまだおなかが空いていませんので、食事は肉が冷えてからでいいです」
昼食の時間に差し掛かっていたが、まださほどの空腹は感じない。やせることを決意して数日は食事量の制限に苦しみ、サラにもリラにもヴァスにも「いきなり半分の量に減らすのは無謀だったのでは?」という顔をされたが、今はもう平気だ。
「……待ちきれん、という顔だな。いいだろう」
それより今は、別にほしいものがある。そう言いたげなユスティーナに、ヴァスはにやりと笑った。
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