第6話 始まりの終わり
食事も食べさせた。見た目もきれいにしてやった。満足して去るかと思いきや、猫は石榴石のような毛並みをつやつやと輝かせながら、ユスティーナの側を離れなかった。
「この猫、もしやこのままユスティーナ様の飼い猫に収まる気なのでしょうか」
ユスティーナと同じ長椅子の端、繊細な縫い取りをされたクッションの上で偉そうに丸まった赤毛の猫を見てサラが眉をひそめる。
「どうかしらね。夜の森は危ないから、一夜の宿にするには、ちょうどいいと思っているのかも」
マリエルが手早く調理してくれた、一番大きな魚の蒸し焼きを食べ終えてユスティーナは首を傾げる。その横で猫は、四番目に大きい魚の身をほぐしたものを黙々と食べている。ユスティーナは自分の分を少し分けてやろうとしたのだが、サラに「それはユスティーナ様が召し上がるべき一品です!」と止められてしまったのだ。
「一晩ぐらいなら、置いてやってもいいですけど……」
「いいじゃないサラ、今の姿ならずっと置いておいてやってもいいわ。もちろん、この毛並みを保つことが前提だけど。目付きの悪さも、毛がきれいなら堂々としているように見えるし」
ユスティーナの慰めにはもう十分ではないか、と言いたそうなサラ。美猫を保つならまあ良かろうと、現金なことを言っているリラ。最初と意見が逆転している双子の話をぼんやり聞いているうちに、眠気を誘われたユスティーナは小さくあくびをした。ちなみに二番目と三番目に大きい魚も全て食べた。
「少し早いけど、今夜はもう眠るわ」
夕食を始める前、ついでにと軽く沐浴をして夜着に着替えてある。その際は自主的に沐浴場の外に出ていた猫は、ユスティーナと同時に立ち上がった。とうとう出て行くのかと思いきや、当たり前のようにユスティーナの斜め後ろを付いてくる。
「あら……猫さん、私と一緒に寝てくれるの?」
宿代わりにするにせよ、離宮のどこかで勝手に寝るのだと思っていた。意外な態度にユスティーナは黒曜石の瞳を丸くし、サラは水色の瞳を吊り上げる。
「……まさかこの猫、ユスティーナ様に悪さをする気では……?」
「ちょ、サラってば……オスといっても、猫だって言ったのはあなたじゃない……」
考えすぎだとリラが止め、ユスティーナも苦笑いして足下の猫に微笑みかけた。
「大丈夫、この猫さんは悪い子じゃないわ」
ついでにちょっと頭を撫でようとしたところ、案の定かわされてしまった。ほらね、と忠義が過ぎて心配性のサラに笑いかける。
「私から触ろうとしても、この調子なのだもの。悪さなんてするはずがないわよ。贅沢な猫さんは、一番いい部屋でゆっくり眠りたいだけ。ねえ、猫さん?」
答えはぷい、と顔を背けるというものだったが読めていた反応だ。……「彼」に何かしてあげられている、という錯覚を守るためなのだから、これでいい。
「さあ、サラもリラももうおやすみなさい。見張りなどはしなくていいですからね? 警備兵はいるのですし、私だってまだ、ただの猫に負ける気はないわ」
そうかなあ、と双子の視線は言いたげだったが、ユスティーナの言うとおり警備兵はいる。何より、
「……ユスティーナ様がこんなに楽しそうなのも、久しぶりですしね……」
「そういうことよ。サラ、大丈夫だって、私たちも食事にしよう! おやすみなさい、ユスティーナ様!!」
姉の腕を取ったリラは、笑ってユスティーナと猫を見送った。
※※※
手すりをしっかり握りしめ、それを支えに階段を上がるユスティーナの丸々とした背中に、猫の信じられないものを見るような視線が突き刺さっている。
「ご、ごめんなさいね、猫さん、みっともない姿を見せてしまって……でも、これぐらいの運動はしないと……先に行っていいのよ……」
「にゃ、にゃん……」
なんとも言えない顔をした猫だが、ユスティーナの部屋が分からないからだろうか。彼女が階段を上りきるまで、ずっと後ろを離れなかった。
「ふう、ふう……お待たせ、猫さん。ここからは、普通に歩けば着くから……」
最大の関門を抜け、二階の一番奥にある見晴らしの良い大きな部屋がユスティーナの私室だ。子供の頃から変わらない、豪奢な天蓋付きベッドに寝転んで一休みしたいところだが、まだやることがある。
「……さーて」
「にゃ?」
「あ、いいのよ猫さん、私のことは気にしないで」
不思議そうな眼をしている猫にそう言って、ユスティーナはベッドの飾り板と天蓋の間に手を突っ込んだ。そこには小さな手押し車が隠してあり、台の上には布を被せてあった。
「ああ、そう、だめよ、だめなのよね……分かってる、分かってるわ……」
先程よりさらに信じられない、と言いたげな猫の視線を痛いほどに感じながらも、ユスティーナはまるまっちい指先で被せていた布を取り払う。
現れたのは、ここ何日かの間にこっそり食事やおやつから抜き取って、部屋に忍ばせていた大量の菓子類だった。日持ちを考慮して生のフルーツやクリームを使ったものは避けているが、その分揚げ菓子が多い。特に甘さで有名な、グラジャブンの栄養価を想像したのか、猫がごくりと喉を鳴らした。
「分かっているけれど! この量の! お菓子を!! 寝る前に食べる背徳にはあらがえない! 銀月の君と呼ばれていた頃には、絶対にできない行為! イシュカ様には、お見せできない、姿……」
お見せできないも何も。術でも癒やせない心の傷の中、イシュカがそれは美しく微笑んでいる。
僕に向かって、それもあの男絡みであんな口をきいた恩知らずのことなんて、もう僕は知らないよ。
言っただろう? それさえも覚えていないのかい? 本当に頭が悪いんだね。
さよなら、ユスティーナ。もう要らないよ、君なんか。
雄々しい宣言が幻の声に打ち消されていく。知らずみじめに丸めた背を無理矢理伸ばすように、ユスティーナは再び声を張り上げた。
「いいえ、いいのよ、もういいの! ナインの内乱は終わった、私もイシュカ様も役目を果たし終えた! 銀月の君なんてもう要らないの!! ただのユスティーナなんか、そもそも誰にも必要とされていない!!」
何も食べられなかった時よりはいいと言っても、暴飲暴食を重ねた先にもろくなことはない。健康は害する。精神にも良くない。まだユスティーナを愛してくれている人がいると分かっているが、自分を止められない。この考え方自体が暴飲暴食のせいなのかもしれないが、悪循環を止められない。
「どんどん太って、もっと醜くなって、兄様やサラやリラにさえ相手にされなくなっても……いいの。もう全部、終わったのだから……」
今はまだ愛してくれている人たちも、いずれは呆れ、離れていってしまうだろう。月の女神の生まれ変わり、麗しき銀月の君。イシュカの婚約者に選ばれるだけの価値を、ユスティーナは自分の手でめちゃくちゃにしてしまったのだから。ならばいっそ、もっと早く、もっとめちゃくちゃになって完全に価値を失えば、優しい人たちにまで人生を無駄使いさせることもないかもしれない……
「いい加減に、しろッ!!」
震えながら手押し車に伸ばした腕を叩き落とすような、男の怒声はすぐ側から聞こえた。
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