第53話 幸福な姫君

 巨大な獅子が振りまいた水を浴び、手傷を負った獅子自身の血を浴びた上、手当たり次第の獅子の攻撃によって穴だらけになった大地。そこに、ユスティーナの血が追加された。


「あ、あ……」


 清らかな白い衣装は銀月の君の象徴である。ヴァスの攻撃による余波を何度も至近距離で浴びていたが、土埃程度なら幾重にも施された術の加護によって弾いてしまう。激しい戦いの中でも穢されることのない、純白の姿を要求されているためだ。


 だから消火のために振りまかれたジスラの水を浴びても、濡れているのは顔と髪だけ。服の下は濡れていない。逆に足の皮膚を切り裂いても、同じように外からは見えない。


「う、う……」


 骨までは達していない。回復不能なものではない。その証拠にユスティーナ自身が使った創の術によって、切り裂かれた足はあっという間に治っていく。


 何度も同じことを繰り返しているため、両足の表面には細かな傷痕が残ってしまっているが、マーバルの女性は家族や恋人以外には足を晒さない。着替えを手伝ってくれるサラもリラも、理由を察しながらも何も言わない。


 イシュカの求めに応じられなかったユスティーナが悪いからだ。


「弓と体術には、汚い癖が付いてしまっているようだけど……創の術は、相変わらず上手だね」

「あり、がとう……ござい……ます……」


 怪我は塞がったが痛みの記憶と出血した事実は消えない。めまいでふらふらしながらも、ユスティーナはイシュカに褒められて、へにゃ、と笑った。うれしい。


 痛かったけれど、おかげで正しい道に帰ってこられたのでうれしい。心を決めてここへ来たはずだったのに、イシュカと対決し始めた途端、ぐちゃぐちゃに乱れてしまった心が定まってうれしい。


 自分で考えないほうが、ユスティーナには向いている。そのほうがイシュカに愛してもらえる。使命を果たせる。みんなが、よろこぶ。みんなに、あいしてもらえる。


「でも、まだ少し太ってしまっているようだからね。太腿あたりの肉を、ついでに少し削るかい? そうすればひとまず、見た目だけは僕に相応しい、理想の姫君に戻れるからね」

「……はい!」


 ほんの少しの間を置いて、ユスティーナは再び風の術を使おうとした。その直前、定まったはずの心の中に、声が割り込んできた。


『お前、いつもこんなことを強要されていたのか』


 太陽の光で曇っていた瞳を、ユスティーナは思わず上げた。


「……ヴァス? 眼を、覚ましたの……?」

『自分よりおかしいやつを見ると、不思議に冷静になれるものでな』


 神話の獣の力を発揮した反動で、小さな傷にも猛り狂うような暴走状態に陥っていたヴァス。彼はユスティーナとイシュカのやり取りを見ている間に、念波を送れるほどの冷静さを取り戻したらしかった。


『そうか。だからお前は、風のように加護があるわけでもないくせに、創の術がやたらとうまいのか……』


 冷静を通り越し、金の瞳には彼が決してユスティーナに向けるはずのない感情が交ざっている。びくりと震えたユスティーナは、怒りを込めて、縋るように、強く愛弓を掴んだ。


「なんで、そんな眼で見るの?」


 生まれてすぐに母に捨てられたヴァス。実力を持ちながらも獣返りと馬鹿にされ続けたせいで、ナインのようなろくでなししか周りに残らなかったヴァス。


 憐れまれる筋合いはない。


「わた……わたくしは、幸せ者なの。だって月の女神の生まれ変わりなのだもの。銀月の君と呼ばれ、イシュカ様に……偉大なる太陽神様に選ばれて、この方に相応しいよう、育てていただけたのですもの」


 豊かな国の王女として生まれた。優しい兄がいて、有名な師匠がいて、気の利く侍女など二人もいる。


 暗殺されかけて宮殿を追われた不幸に見舞われても、五歳にして最高の男性の対として見付けてもらえた幸福の前には霞む。みんなユスティーナを羨んだ。才色兼備の銀月の君、イシュカ様に選ばれた者と妬まれてきたのだ。


 かわいそうなんかじゃない。


「やめなさい。わたくしを憐れむな、おぞましき獣返り風情が……!」


 忘れかけていたヴァスへの恐怖が憎しみとして噴き出した。その勢いでつがえた矢を向けても、ヴァスは独りごちるような声を送ってくるだけだ。


『オレもナインも、自分は誰よりも不幸だとわめきながら戦ってきた』


 世界の底辺から成り上がってきたヴァスはもちろん、ナインも彼の主観としては不幸なのだ。王族でありながら王座には決して手が届かず、どんなに能力があろうとも国王アルウィンに臣従するしかない。決して無能ではないゆえに、諦めきれない彼の苦悩に共感する者もいるだろう。


 残念ながらアルウィンは温厚な人格者であり、公平な王であり、ドルグの弟子の一人であるため戦っても強い。口を開けば不幸を嘆くせいもあって、同情を集められないナインだが、ユスティーナは妬まれることはあっても同情などされるはずがない。誰よりも本人が、そう思い込んできた。


 かわいそうに見えないから、誰も、ヴァスも、ユスティーナを満たす「幸福」がどういうものか、ろくに知ろうとしなかった。彼女に近く、何かに気付いてしまった者は、同時にイシュカにも近い。追及できるはずがなかった。


 今のヴァスは違う。


『訂正せねばならんな。自分は幸福だと言い聞かせなければ立ち行かない、お前と比べれば、オレたちなどまだ幸せ者だった』


 息を呑んだユスティーナの表情がひび割れていっても、ヴァスは容赦しない。彼はイシュカとは違うのだ。


『生憎とオレはそこの太陽神様のように、何も彼もご丁寧に教えてやるほどお優しくはない。──その必要もあるまい。分かっているはずだ、ユスティーナ。今度はお前が、眼を覚ます番だ』

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