第18話 不思議な涙
「ヴァス、私の体も大分軽くなってきました。そろそろ山に籠もろうと思うのですが」
『それも結構、極端だと思うんだが?』
差し当たっては、もっとやせなけば。次の段階に進もう、と提案するユスティーナをヴァスはじと目で睨み付けてくる。
「えっ? あなただって、昔は山賊をやって鍛えたのでしょう?」
『山賊と山籠もりは違うわ! まさかお前の言う山籠もり、山に入ってきた連中を襲うことじゃないだろうな……!?』
とんでもない誤解だ。ユスティーナはきっぱり首を振った。
「まさか、そんなことはいたしません。民を守るのが私の務めです。私の言う山籠もりとは、単純に体を鍛えるために、弓と小刀のみを持って一月山で暮らすだけです」
『それは……! それは、山籠もり、だな……!!』
条件反射で言い返そうとしたヴァスも納得してくれたようである。それは良かったのだが、やはり彼は勘が良い。
『お前、そんな過酷な修行をしていたのか。道理で強いはずだ』
普通は姫君、というか女性全般が兵士として戦場に出てくること自体が異例なのだ。方位の術は身体能力に比例はしないが、特に火や破など、殺傷に向いた術の才能があってもそれを磨く女性は少ない。そんな怖い女とはお近づきになりたくない、という男が多く、結婚に不利になるからである。
ユスティーナは将軍の地位さえ得ていたが、銀月の君という例外中の例外だからである。太陽神の妻となる女性は並の女性とは違う。そこいらの男より強くて当たり前なのだ。
もちろん、大した努力なんかしなくても。そうだよね? 僕の可愛いティナ。まぶたの裏で、イシュカが華やかに笑っている。
「あっ、いえ! 修行なんてそんな、大袈裟なことは全然……わたくしは銀月の君、生まれついての万能の女神なのです! 修行など必要ありません!!」
『もう違うんだろうが』
すかさず否定され、ユスティーナは口ごもった。その隙を逃さず、ヴァスは念波でべらべらとまくし立てる。
『お前がこんな短期間でやせたのは、食事量の制限もだが、暇さえあればそのへんを走り回ったり弓だの剣だのの訓練を始めた……いや、再開したからだろう? すぐ側で見ていたんだからな、オレは。隠しても無駄だ』
「そ、そんな……!」
見た目がふわふわの猫さんであるため、赤毛をなびかせながら付いて来ても「今日もふかふかね」「触りたいな」という気持ちしか湧いてこなかったが、よく考えれば訓練している姿など見せべきではなかったのだ。せっかく見た目は、ヴァスの理想像に戻ってきたというのに。
「……ああ、でも、そうでしたね。私が万能の女神などではないことは、あなたが一番よく……」
『……そうだな』
同意はしたヴァスだが、ユスティーナが落ち込むのを待たずこう続けた。
『だが……別に、幻滅などしていない。そこは安心していい』
「え?」
ユスティーナのよく知っているヴァスとは、言葉による攻撃で相手の弱点を突いたと察知すれば、同じところをより深く抉ってくる男だった。まして相手は憎きユスティーナである。
どうしたのだろう。調子でも悪いのか、それとも一度持ち上げてから叩き落とす気か。イシュカがよく、やったように。ユスティーナに身構えられ、ヴァスは決まり悪げに何度も尾をばたつかせた。
『ええい、そんな目で見るな! オレの努力がお前に分かるなら、お前の努力もオレは分かってやる。オレにもその程度の器はある。それだけの話だ!!』
「ヴァス……」
意外な答えに驚いたユスティーナの肩から力が抜ける。
「その程度の器はある、なんて言い方、しないでくださいって何度も言いましたのに……」
『お、お前なあ! 人がせっかく……!!』
「でも……ふふ。ありがとうございます」
真っ先に注意が出てしまったが、ユスティーナは微笑んで礼を述べた。その瞬間、意図していなかったものまでぽろりと零れ出た。
「あら……あら? ご、ごめんなさい。どうしたんでしょう、私ったら。人前で、それもよりによってあなたの前で涙を流すなんて、みっともない……!」
ふくらみの減った頬肉を伝い落ち、絨毯に染み込んでいく涙を慌てて止める。ヴァスに再会した際、感極まって涙を浮かべてしまったことはぎりぎりやむを得ないとしても、今のやり取りのどこに泣く要素があったのだ。
ユスティーナは自分で自分の反応が意味不明で、戸惑うばかりだったが、ヴァスはなぜか何かを確信したような顔をしていた。
『ユスティーナ、やはりお前は……』
「ユスティーナ様、お待たせしました。そろそろ午後の訓練を始めましょう」
そこへ、一足先に動きやすい服装になっているサラとリラが現れた。ユスティーナも訓練着に着替えると理解しているヴァスは、さっと寝台の下に潜り込む。そして暗がりで金目を光らせながら、ユスティーナに念波を投げかけた。
『山籠もり、この双子どもは連れて行かないのだろう?』
双子に着替えさせてもらいながら、ユスティーナは声に出さずこっくりうなずいた。
王族として離宮で暮らす以上、召使いたちの世話になるのは当然だ。人には生まれ持った立場と義務があり、互いにそれを守らねばならないが、山に籠もったユスティーナは一人の戦士である。単独で生き延びられる力を取り戻し、心身共に銀月の君に戻るために行くのだから、侍女たちは留守番だ。
『ならばオレも行くぞ。こいつらがいないなら、人型に戻れる。オレが直々に、お前に訓練を付けてやれる』
「まあ……!」
上着に袖を通しつつ、ユスティーナは黒曜石の瞳をきらきらと輝かせた。
「まあ、まあ、まあ……! あなたが私を訓練してくださるの!? あの超絶技巧の数々を、伝授してくださるのですか……!?」
はしゃいだ声を上げ、思わず寝台の下に目をやってしまうユスティーナ。リラが不審そうな顔になったため、慌てて背筋を伸ばし、ヴァスも一瞬前のめりになった足を引っ込めてより暗がりの奥へと逃げ込む。
『ふ、ふん、まあな。やせさせるためだ、仕方がない。……しかし、こんなに喜ぶとは……まさか、こいつは本心からオレを尊敬しているのか……?』
後半、念波に乗せずにヴァスが独り言をつぶやいている間に、ユスティーナの着替えは終わった。離宮の裏側に昔からある訓練場へ向かうため、ヴァスも含めた全員が階段を降りる。体重が減り、運動もある程度可能になったユスティーナは一応しっかり手すりは握っているが、以前までの危なっかしさはない。
『ところで、籠もる山というのは、もちろんこのカイラ山だよな?』
訓練場への道すがら、ユスティーナの隣を歩きながらヴァスが確認してきた。
「ええ……人目に、付きたくないですから……」
やせる、という当面の目的に集中していたため、意識が逸れていたが、離宮の外でのユスティーナの評価は地に落ちているのだ。ヴァスの復讐心を満たしてやりたいとは願っているが、冷たい針のような視線の中に戻るのには耐えられそうにない。
本当の私は、そこまで強くないのだから。どこまでも期待外れな自分にうんざりしながら答えると、ヴァスも妙にそわそわした態度でうなずいた。
『……よし。では、明日にでも発つか』
分かりました、と口で言う代わりにユスティーナはうなずいた。ヴァスと話している間に訓練場に着いたからだ。広々とした空き地の端に矢の的が並び、数多くの武具が常備してある。
「ではユスティーナ様、本日はサラより参ります!」
「ええ、どこからでもかかっていらっしゃい!」
向かい合った主従が手にするのは、訓練用の刃を潰したものではなく、切れ味鋭い小刀だ。山籠もり開始に向けて、一週間前から武器も切り替えたのである。動きやすいように一本のおさげにした黒髪を揺らし、火花を散らしながらサラと切り結ぶユスティーナを眺め、ヴァスはじっと何かを考えていた。
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