第13話 摘まれた初恋

 近頃は眠れるようになったとはいえ、眠れば悪夢を見るのだ。食べてばかりでろくに運動していないこともあり、数時間あまりも寝台の上を転がって、やっと意識が途切れるという夜も多かった。


 しかし今宵、ヴァスと再会したことで皮肉にも人生に新しい目標ができた。ようやく罪を償えるのだ。断罪が決定したことでかえって安心できたおかげか、いつもより運動をしたおかげか、十分も経たないうちにユスティーナはすやすやと寝息を立てていた。


「……抵抗を感じるどころか、果てしなく安らかに寝ていやがるな、この女……」


 音もなく人間の姿に戻ったヴァスは、猫そのものの動きでしなやかに寝台の上を這い、眠るユスティーナの顔を間近から覗き込んでぼやいた。


 伏兵を使って片付けたはずのヴァスが崖下より舞い戻れば、想像上のユスティーナは白い肌から血の気を失いながらも臆せずヴァスを睨み付ける。そして卑怯な手段を取ったことは恥じてもあなたを殺したこと自体は後悔していない、と誇り高く叫ぶはずだった。どこまでも高慢で、この手には抱けぬ、正しく月の如き好敵手を今度こそ殺すのだ。決して報われぬ想いと共に。


 そのつもりだったのだが、だいぶ、とても、予定が狂った。アルウィンが妹についての情報を厳しく制限しているため、この離宮にいると掴むだけでも一苦労だったというのに、まさかこのような姿になっているとは。中身まで、これとは。


 咄嗟に猫化したとはいえ、射られた上にあの高さから落とされた傷は深かった。どうにか動けるまでに回復した後も、野良猫じみた逃亡生活のせいですっかり薄汚れたヴァスに向かって、面白半分に石を投げてくるような連中も多かった。ただでさえ神話のせいで、獣はマーバルでは下に見られがちなのである。


 それなのにユスティーナは、そこだけは変わりない大きな目を輝かせ、「なんてふかふかの猫さん!」と喜んでくれた。おなかが空いていないかと、心配さえしてくれたのだ。


 いやお前のほうがふかふかだが? という衝撃も手伝って、つい申し出を飲んでしまった。どういうつもりかと疑い、何度も試すような行動を取ってみた結果、手ずから洗われ、毛をひきちぎりながらも梳かれ、食事を提供され同じ寝台で休むことさえ許された。とてもあの、会うたび冷淡な眼を向けてきた銀月の君と同一人物とは思えない。


「やせて見た目が元に戻ったところで、獣返りを本気で褒めてくれるような愚か者が銀月の君など……だが、あの動体視力と、一瞬見せた技の冴えはあの女のもの……」


 リラの手を避けて厨房の中を飛び回っていた際、ユスティーナだけは常にヴァスの姿を眼で追っていた。さり気なく出口を封じる位置にいた。沐浴場では暴れるヴァスの急所を正確に捉えてみせた。


 そして不器用だが心のこもった、優しい手付きで触れてくれた。


「いや……いや、くそ、馬鹿な。そんなわけがあるか」


 舌戦でも多くの敵を倒してきたこのヴァス様が、こんなくだらない手に引っかかってたまるものか。卑しい獣め、獣返りめと、誰よりも馬鹿にしてきたくせに。──この姿で、この山で再会してなお、最初の出会いを思い出しもしないくせに。


『ごめんなさい。わたしはね、ええと……わたしとつりあう人としか、けっこんできないの』


 無邪気な残酷さでヴァスの初恋を摘み取った、それさえもユスティーナにとっては記憶にすら残らない、どうでもいい出来事なのだ。


 騙されるものか。彼女は月の女神の生まれ変わり。神話の昔より、獣に愛されても獣を愛さない。同じだけの想いを返してもらえる相手は決まっている。今よりずっと若かったヴァスには、それが理解できていなかった。


 生まれた直後から差別を受け続け、危険な怪物として排除され続け、ならば望みどおりにしてやるとばかりに暴れてきた。そうやって心を守っていたヴァスさえも惑わせておきながら、にべもなくはね付けた冷酷な女神。太陽神だけの花嫁。


 戦場でもそれ以外の場所でも、ユスティーナは常にあの忌々しいイシュカと共に在った。ヴァスでさえ次元が違う存在だと認めざるを得ない、太陽神の生まれ変わり。微笑み合い、顔を近付け合い、相手にだけ聞こえる声で囁き合う運命の恋人たちを、指をくわえて見ていることしかできなかった。ヴァスごときが入り込めるような隙は、どこにもなかった。


 どうせ手に入らない女なら、せめてオレの手で。その一心で、今まで彼女を追いかけてきた。


「ナインに味方したのも……何も彼も、お前を殺す機会を得るために……」


 内乱の最終局面で、願いはついに叶ったはずだった。しかし、ユスティーナと二人きりになれるはずだった最期の舞台に、彼女は伏兵を引き込んだ。挙げ句にそのことが世間にばれてしまい、イシュカにさえ捨てられたと知った時、熱い汚泥のような歓喜が胸を満たしたことをよく覚えている。


 大陽の加護を失った月が堕ちてきた。このオレにさえ手が届く場所に堕ちてきたのだ!


 復讐するつもりは元々あったが、イシュカが側にいるといないとでは難易度が段違いである。最後の最後で裏切られた屈辱も、イシュカがユスティーナを見限るきっかけになったのだと思えば溜飲が下がった。


 あの日ヴァスの求愛を拒んだ挙げ句、そのことすら忘れている高慢な月の女神。彼女が全てを失った無様な姿を嘲笑いながら、今度こそこの手にかけるために来たのだ。


「死体であれば、もうオレを拒むこともできん。そうだろう? 我が女神よ……」


 憎き愛しき銀月の君は、すぐ側に警戒心の欠片もない姿で横たわっている。暗い衝動に導かれるまま、ヴァスはぐっすり眠りこけているユスティーナの首に手を伸ばした。


 今この瞬間、長く愛憎をたぎらせてきた彼女の命を取ることはたやすい。それ以外のことも、簡単にできる。


 しかしながら、あらゆるやる気は、かすかに触れた首の肉の感覚によって一瞬で削がれた。


「……この女、ここの肉までぷくぷくになっていやがる……」


 指が太っている時点で察してはいたが、女性の顔周りが太っているということは、そこ以外はすでに太りきっているということだ。乾いた声でつぶやいたヴァスは猫の姿になり、ユスティーナの足元で丸くなる。


『ふん……しかし、何かおかしいとは思っていたが、イシュカの野郎……可能ならやつの腹も、もう少し探りたいものだな……』


 猫に戻ったため、人の耳には不機嫌なうなりにしか聞こえない声を発したヴァスは、眼を閉じて無理矢理眠った。

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