第35話 薄氷の上
「そうか、そこまで分かった上で……そうだね、ナイン様もすっかりおとなしくなったみたいだし。戦いが終わってなお、せっかく生き残った連中が恨みを引きずってるんじゃ、死んでいった連中も浮かばれないだろう」
ダーントやドルグのことを思い出しているのだろう。少しだけ湿った声を出しながら納得してくれたマリエルに、ユスティーナはほっとして言い添えた。
「ありがとう、マリエル! ヴァスはね、お料理も上手なの。もし手伝いが必要なようだったら言ってね」
「はっはっは、ユスティーナ様に比べると大抵が料理上手ですがねえ! いまだに肉はひたすら強火で焼けば、早く火が通っていいと思ってるでしょう? ダーントが、なんであれは覚えてくれないのかと、よく嘆いていましたよ」
「えっ」
一人で山に籠もっていた時と比べ、ヴァスが焼いてくれた肉がやけにおいしかったのはそのためか。内心ユスティーナは、もっと肉を火に近付けたほうが早く焼けるのではないかと考えていたのである。
「……まあいいでしょう、得意な者がやればいいことです。この男、力はあると聞いています。訓練の合間に、用事があったら頼みますよ。それでいいね? ヴァス」
「……好きに使え」
諦め顔のマリエルに、ヴァスも諦め顔で応じた。衝撃の展開が挟まったとはいえ、ユスティーナの思惑どおりに事が運んだのは事実である。
「ありがとう、マリエル。大好きよ! ヴァス、では山籠もりに戻りましょう」
ローゼは問題なく受け入れられたようであるし、後は首尾良くヴァスの復讐を終わらせてやるのみだ。張り切ってその腕を引こうとしたユスティーナは、ヴァスはさり気なく払った。
「いや、それはやめておいたほうがいいだろう」
「えっ」
またしても驚いているユスティーナに、ヴァスはまたしても呆た顔をした。
「猫という体裁ならまだしも、オレは師匠の立場に立ったとはいえ若い男だ。お前と二人で寝泊まりなどしたら、世間体が悪すぎる。ただでさえお前の評判は下がっているのだからな」
「えぇっ!?」
仰天するユスティーナの危機感のなさをマリエルがたしなめる。
「そうですよ、ユスティーナ様。何かあれば双子たちが制裁を下すと聞いていましたから、送り出しはしましたが……思ったよりは信頼できそうな男ですけど、嫁入り前の姫君が婚約者でもない男と夜を共に過ごすなど、あってはならないことです」
「そ、そうか……あの頃とは、違うのね……」
ついローゼに眼をやってしまったが、彼と山で過ごしたのは十にも満たない頃である。イシュカには悪いが、今にして思い返せば彼に銀月の君として見出される前のあの頃、あの頃が一番素直に人生が楽しかった。
楽しかった。たった一晩で終わってしまったが、ヴァスとの山籠もりはあの頃に匹敵するほど、とても楽しかった。
「ヴァス、私と婚約します?」
「は?」
「ああ!?」
ユスティーナが放った衝撃に、ヴァスとローゼが同時に大声を上げた。
「婚約していれば、一緒に夜を過ごしてもいいのでしょう? イシュカ様は……いなくなってしまった、し……」
思い付きから始まった言葉の語尾は、厨房中の人々の視線を集めて儚く消えていった。
「ご、ごめんなさい。さすがに軽率でした……」
「──分かればいい」
しおしおとうなだれるユスティーナに、ヴァスは師匠らしく横柄にうなずいた。
「正体がばれているのなら、ここで訓練も付けてやれる。それで問題はないだろう。行くぞ、ユスティーナ」
「はいっ!」
さっと空気を切り替えてくれたヴァスに、ユスティーナも調子を合わせた。生活そのものが訓練となる山での暮らしは捨てがたいが、何よりあのヴァスが名実共に師となってくれるのだ。それに勝るものはない。
「訓練場に行くのか。そっちはまだ見ていなかったな、俺も付き合うぜ」
おまけにローゼまで乗ってきてくれた。舞い上がったユスティーナは頬を薔薇色に染め、率先して二人を先導して歩き始めた。
そんな彼女の背を、冷めた眼をした二人の男が追っていった。
※※※
昨日以上に熱心に弓の訓練を行うユスティーナの集中力を乱さないよう、双子の侍女が昼食やおやつを訓練場に持ってきてくれた。ヴァスとローゼの動きを見張るためだったのだろうが、ヴァスはユスティーナの望む師匠であり続け、ローゼは途中で見学を切り上げ、彼の仕事場である厩舎に行った。
夕食は二人の歓迎の意味を込め、マリエルが盛大に腕を振るった。ローゼが樹上の仮宿より降ろしてきてくれた猪肉の残りは、大半が飢えたユスティーナの胃袋に収まった。
「さっきはああ言いましたが、今日はローゼの帰還と不肖の師匠ができた祝宴です。たっぷり訓練されたようで、心なしかやせられてますしね。さあユスティーナ様、じゃんじゃんどうぞ!」
「あ、ありがとう……そうね、たくさん運動をしたから大丈夫……おいしい……大丈夫……明日からもっとがんばります……!」
そう言われては断りにくい。何よりおいしい。菓子類よりは太りにくいはずだと己に言い訳し、ユスティーナは勧められるままに皿を空にしていった。
「これでやせたのかよ。前はどうなってたんだよ……」
本日は客人として同席しているローゼは眼を丸くしている。その横でヴァスは物言いたげな色を瞳に浮かべながら、黙々と食事をしていた。なお彼の食事の席については師匠という立場や、一応ガンドル州の領主だった点を鑑みて本日以降もユスティーナと同席することになっている。
「黙って食事をしていれば、悔しいけどローゼよりいい男なのよね……」
せっせと給仕をするかたわら、リラはユスティーナと変わらぬ作法で食事をするヴァスを眺めてはぼやいていた。
やがて夏の陽も完全に沈み、就寝時間がやってきた。ヴァスとローゼにはそれぞれ離宮の一階にある、使用人用の空き部屋が割り当てられている。ローゼは希望で、昔ダーントと暮らしていた部屋に住むことになった。
警備の火は夜を徹して燃えているが、王家所有の離宮であっても用もないのに灯りは必要ない。ほとんどの者が寝入った時刻、ヴァスは見回りの眼を掻い潜って部屋を出ると、ローゼの部屋の前まで行った。
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