第50話 終わりの始まり
離宮で可愛がっていた猫の印象が強く、つい「猫さん」と表現してしまったが、実際に彼女の前に姿を現したのは猫というより獅子だった。暗い赤色のたてがみをなびかせた獅子は、ラージャ宮殿と同じぐらいの大きさがある。
「これが……ヴァスの、本当の姿……」
本当のオレ様の姿を見たら、女子供など震え上がって逃げ出すといつかヴァスが言っていた。あれは嘘だったのだ。
ナイン軍の戦士たちも、全員真っ青になって我先に逃げていくではないか。ラージャ宮殿を守る兵士たちも、さすがに逃げ出しはしないが、消火の手を止めてしまっている。
その場の全員の注目を奪ったまま、巨大な獅子が動き出した。
「えっ、ヴァス!? に……逃げるんじゃないですよね!?」
これから何をするのかと思いきや、ヴァスは石榴石の毛並みを翻し、宮殿に背を向けて駆け出した。
ナイン軍を蹴散らす、という目的ならば八割方は達成されているとはいえ、ラージャ宮殿に放たれた火は消えていない。兵士たちは巨大な獅子に気を取られてしまい、消火の進みは悪くなっている。
ラージャ宮殿に想定外の被害を与え、慌てたイシュカたちが焼け出されてくるのを待つ気なのだろうか。ならばいっそ、ヴァスがあの巨体で宮殿を破壊したほうが早いのでは。
自分で考えず、命じられるままに動くよう躾けられてきたユスティーナだ。どうしよう、私もどさくさに紛れて火矢を放ったほうがいいのかしら、などと考えていた耳に、情けない悲鳴が届いた。
「あ、わ、あああああああわわわわわ」
「ナイン!」
警備の兵にも見捨てられたか、彼が警備を放り出して逃げたのか。どちらかは分からないが、ユスティーナの前に完全に腰が抜けたナインが一人で転がってきたのである。
「処刑」という単語が浮かんできたが、ヴァスに言い当てられたようにユスティーナもまた、ろくでなしの従兄弟になんの情もないわけではないのだ。襟首を掴み上げ、気合いを入れるに留めた。
「しゃんとしなさい! ヴァスが大きな猫さんになれることだって、あなたは知っていたのでしょう!?」
「き、聞いたことはあったが、どうせいつもの大口だと……あんなに、で、でっかいだなんて……!!」
「……そうね。それについては、ヴァスの普段の言動にも責任がありますね」
ほら吹き扱いしてきたのはユスティーナも同じある。苦笑する彼女を、なんとか起き上がったナインを、今なお遠い地響きが震わせている。
巨体の割にヴァスはすばやい。姿自体は走り出してすぐに彼方の赤い点になってしまったが、大木のような足が地を蹴るたび、まだその振動が伝わってくるのだ。
まさに、神話に記された獣そのもの。太陽神に刃向かうだけのことはある強大な力に、ナインは歯噛みした。
「何が友情を感じているだ! こんな力があるなら、どうして僕の反乱を成功させるために使わなかった!? お前のこの力さえあれば、僕はとっくに王に」
「ナーイーン!!」
この期に及んで、まだヴァスを利用することしか考えていないとは。眼を吊り上げて叱り付けたユスティーナに、いきなりナインがしがみついてきた。
「お、おい、ユスティーナ、僕を連れて逃げろ! あいつ、戻ってきたぞ!?」
言われてユスティーナも、赤い獅子が駆け戻ってくる姿に気付いた。まだ足に力が入らない様子のナインなど、あの勢いで突撃されたら、ひとたまりもないだろう。
思いきり助走を付けた上で突撃を食らわせるために、わざと一回離れたのだろうか。ナインにもユスティーナにも、まとめて復讐を果たす気になったのでは。疑いを抱いたユスティーナだったが、激しく地面を揺らしながら駆けてくる姿に違和感を覚えた。
「あら……? でも、なんだか、せっかくのふかふかがぺしゃんこに……?」
獅子に近い姿になったヴァスの全身は、猫の時のように全ての毛が均等に長いわけではない。たてがみ部分が特に長く、そこ以外はやや長い程度。四肢の形がはっきり分かる分、全体的に猫の時より引き締まって動きやすそうな姿になってはいるが、ふかふかの毛に包まれている点は同じだ。
しかし戻ってきたヴァスは、全身に風を浴びている状態の割に毛がなびいていない。体に張り付いてしまっているようだ。……濡れている?
ユスティーナがはっとした時、ヴァスもラージャ宮殿の手前で動きを止めた。そしてぶるぶるっと、大きく体を震わせた。
彼の動きによって生じた旋風には大量の水が混じっていた。それは突然の大雨となって、燃える宮殿に降り注いだ。
「そうか、ジスラの大河に飛び込んできたのね!」
降り注ぐ水を浴びながら、ユスティーナはヴァスの機転に気付いた。近くを流れるジスラの大河に入り、自慢の毛並みにたっぷり水を蓄えて戻ってきたヴァスが力強く身震いすれば、飛び散る水滴は雨となるのだ。
「すごい、ヴァス! 火が消えました……!!」
「おかげでこっちは風邪を引きそうだけどな!」
四方八方に飛び散った水のせいでユスティーナもびしょ濡れになりながらヴァスを褒め、ナインはがたがた震えながら文句を付けた。ともあれ、宮殿に放たれた火は消えたようである。
一安心したユスティーナとナイン。従兄弟同士、よく似た白い顔に、今度は赤い雨が降ってきた。
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