第52話 彼女の日常
「きゃ……!?」
獅子の前足に踏み潰されそうになったユスティーナは、ナインを抱え込むようにしながら転がって避けた。地面が叩き割られ、飛び散った泥や石に地の術をぶつけて相殺したが、彼女の反射神経でもぎりぎりの攻防だった。
「ナイン、逃げて!」
これ以上、ナインを庇いながら立ち回るのは無理だ。ユスティーナは彼を後ろに突き飛ばした。
ヴァスの怒りと殺意は現状、明確な目的を持っていない。恨みがあるからユスティーナやナインを狙ってきたというより、彼を受け容れなかった全世界に対する恨みをたまたま眼に留まった相手にぶつけてきた、のほうが正しいだろう。
ならばその視界から出てしまえば、攻撃対象から外してもらえる。読み自体は正しく、ヴァスのもう一撃はユスティーナだけを狙って振り下ろされた。
ただ、攻撃範囲を少し読み違えた。ユスティーナは再び避けたが、割れた地面の一部、人の頭ほどある石がナインにまっすぐ飛んでいった。
「わ、あ、ああああああああッ!! くそッ!!」
瞬間、ナインが腰の剣を抜いて飛来した石を弾いた。まともに当たれば剣が折れてしまったところを、刃に沿って滑らせるようにして軌道を変え、器用にやり過ごしたのだ。見事なものだと、ユスティーナは感心してしまった。
「……腕は落ちていませんね。あなた、黙って剣を振っていれば強いのに……」
「やかましい、お前に言われても嫌味にしか聞こえんわ!」
自分は兵士を使う側だと公言し、前線に立つことを嫌がるナインであるが、彼もドルグの教えを受けている。平均以上の腕前は持っているのだ。超一流にはなれずとも、平均よりは高い能力があるために、ナインも野望を捨てられないのだろう。
そこへ再び、地の震えが伝わってきた。ヴァスではない。馬車の響きだった。
「ユスティーナ! ナイン様!」
「ローゼ!?」
ナインの陣営の手前で待機していたはずのローゼが、馬車ごと駆けつけてきたのだ。
「危ないです、離れて」
「分かってるよ! だが、ナイン様にも離れてもらわないと、お前が満足に戦えないだろう!」
顔色を変えるユスティーナに、必要以上に出しゃばるつもりはないとローゼは言い返した。ナインは「でかしたローゼ、褒美は弾んでやるぞ!」と言いながら、這うようにしてちゃっかり馬車に乗り込んだ。
「心遣い感謝します。ローゼ、ナインを頼みます!」
「任せろ! 行くぞナイン様、もう俺たちが出る幕じゃねえからな!!」
言うなりローゼは、ナインの着席を待たずに馬首を巡らせて駆け戻っていった。ナインが何やらわめいている声が聞こえたが、落車さえしなければ問題あるまい。
これで戦場に残ったのは、ユスティーナ一人となった。
緊張を覚えたが、ヴァスも、そしてイシュカもナインたちを追っていく様子はない。彼らごときはこの場で逃がしても、なんとでもなると思っているのだろう。
遠ざかっていくナインたちの無事に注意が逸れていたユスティーナに、再び獅子の前足が振り下ろされた。左に飛んで躱し、跳ね上がる諸々の破片を術で防ぐ。だがヴァスはその直後、振り下ろした足で地面を擦りながらのなぎ払いを仕掛けてきた。
「ぐっ……!」
単調な攻撃に慣れ始めていたユスティーナは、それでもなんとか風の盾を張って直撃を避けた。しかし反射でつがえた矢は、彼女の手から飛び立つことはなかった。
ユスティーナの躊躇に気付いたイシュカが、紫の瞳を冷たく光らせる。
「ユスティーナ、どうしたの。まさかとは思うけど、ヴァスの手にかかりたい、とか? まだあいつの逆恨みを遂げさせてやりたいなどと、愚かなことを考えているのかい?」
「そう、いう、わけでは……! ヴァス!! 眼を覚まして……!!」
違う。ナインに愚かな真似をやめさせるために来たのだ。彼を操る、イシュカを止めるために来たのだ。
それぐらいはイシュカのことだ、分かっているだろうに、彼はさも悲しげな顔をして見せた。
「ヴァスの眼を覚まさせて、どうするつもりなんだい。こいつの狙いは、恋敵の排除じゃないか? ティナ」
違う。神話の時代でもあるまいし、ヴァスは私のことなんて好きじゃありません。そう言おうと息を吸った瞬間に、イシュカは畳みかけてきた。
「君はこいつに、僕を殺させるために来たのか?」
「そ……そんな、つもりでは……!」
眉根を寄せてユスティーナはイシュカを見つめた。あんなに会いたかった、世界一の美男子。姿形だけではなく、ヴァスでさえ認める万能の太陽神。彼の対とされるユスティーナは月であり、彼なくしては輝けない。
「私は……イシュカ様に……ただ……か、考え直して、ほしくて……」
「考え直す?」
深まっていく夜を押し退けるように、イシュカが放つ光が一層強くなる。その様を見ればマーバルの創世神話を知らない者でも、ただ者ではないと理解するだろう。まぶしくてまぶしくて、堪らない。
「僕はいつも完璧で、全てにおいて正しいのに?」
心の底まで刺し貫くような光が痛いのに、眼を逸らすことはできなかった。五歳の時から肌身に教え込まれた太陽神の引力が、それを許さなかった。
「ごめんなさいは? ティナ」
「ご……ごめ……ごめん……なさい……」
「いい子だね。でも次は、ちゃんと覚えているかな。反省する時、どうするんだった?」
気が付くとユスティーナは、妖しい紫の瞳に映る自分がこう言うのを聞いていた。
「は……い。ごめんなさい、イシュカさま。もうしわけ、ありません」
月の女神の生まれ変わりであることとは別に、マーバル人なら誰もが一つは持つ加護。ユスティーナにとっては風。汎用性が高い術が多く、女性であってもこの加護を受けた者であれば積極的に磨き、役立てている者も多い。
その術でユスティーナは、いつものように自身の足をずたずたに切り裂いた。
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