隠れ束縛系婚約者に捨てられましたが、殺したはずの仇敵が復讐しに来たので良かった!

小野上明夜

第1話 完璧な運命の婚約者

 巨大なドームの上部にもうけられた明かり取りの窓越し、静かに地上を照らす月の位置は夜半に差し掛かったことを示している。庶民であれば蝋燭がもったいないと、とっくの昔に寝入っているだろうが、国の象徴であるラージャ宮殿にて王家が主催する祝勝会は宴もたけなわ。しかも先程、最大の功労者が姿を見せたばかりだ。


「あら、銀月の君様じゃない」


 盛大なファンファーレと口上付きで宴の席に足を踏み入れた瞬間、待ちかねたとばかりに大勢に群がられている長い黒髪の少女。遠目でも整った顔立ちが分かる、実に美しい彼女を見つめ、壁際に立った一人の令嬢は扇に隠した口元を歪めた。


「タルマガ王国からもうお帰り? 数百匹以上の魔獣が出たという話だったのに、逃げ帰ってきた……というわけではなさそうね。さすが、獣を惑わす月の女神の生まれ変わり」

「ふふふ、そうね。獣に媚びて、うまく追い払ったのかも」


 隣にいる彼女の友人も、似たような表情で皮肉っぽくつぶやいた。だがすぐに、諦めが丁寧な化粧よりも濃くその顔を覆う。


「……そんなわけがないわね。あのイシュカ様の婚約者であり、寵愛を一身に受けているというのに、魔獣に媚びるなんて馬鹿馬鹿しい。その程度の女性が、あの方に選ばれるはずがないもの」


 切ない視線は銀月の君の名に恥じず、本日も純白にところどころ清らかな濃紺をあしらったドレス姿の少女を意識して素通りする。その横にぴたりと寄り添った、金髪の男性のみを見つめて彼女はぼやいた。


「タルマガにももちろん、イシュカ様が一緒に行かれたのでしょうしね。……仕方がないわよ。あの方も、太陽神の生まれ変わりでいらっしゃるんだもの」


 しなやかな褐色の肉体を黄金と紫と無数の宝玉で飾り立てた彼、イシュカは、時刻を忘れさせるようなまばゆい輝きを放っている。伝統と王家の威光を誇示する、麗しい広間の内装も彼を引き立たせる背景でしかない。天井から下がった豪華絢爛なシャンデリアより鮮やかに、この場を真昼のように照らす光はイシュカが発しているものだ。


 ここマーバル王国のみならず、近隣の国々にも敬われ畏れられる美青年が起こす奇跡はそんなものに留まらない。イシュカは世界の始まりより存在するとされる太陽神の生まれ変わり。世俗的な爵位などは一切持たないが、豊かな知見と強大な戦闘能力を有し、その気になれば時の流れに干渉できるとさえ言われている。


「創世の時代から定められし、偉大なるマーバル王国の守護者である恋人同士ですもの。仲睦まじくて当たり前。そう見せるのがあの方々の使命なのだから、しっかりやっていただかないと」


  暗にイシュカの意思でも銀月の君の魅力のおかげでもない、そのようになっているだけだと、最初に話し始めた令嬢が匂わせた。それがあまりピンときていない令嬢が、純粋な羨望を込めてため息をつく。


「そうよね、運命に決められている結び付きなんだもの。イシュカ様がお味方になってくださったことで、国王陛下も従兄弟君との争いに勝利し、無事に玉座を得られたのですし……」


 一見二十代の美青年であるイシュカには父も母もなく、地上に戦乱の気配を察知すると忽然と「生じる」。現国王アルウィンがまだ王子であった九年前、従兄弟のナインからの攻撃を避けるため山岳地にある離宮へ避難していた際、彼の妹であるユスティーナ王女を突然訪ねてきた逸話はあまりにも有名だ。


『やっと会えたね、僕の女神』


 陽光を背負い、薔薇色の笑みを浮かべ、彼は五歳の銀月の君の手の甲に再会の口付けを落としたという。その場面をうっとりと思い浮かべ、令嬢は頬を赤く染めた。


「ああ、羨ましいわ。私にもある日突然、『やっと会えたね』と素敵な殿方が訪ねてきてくださるような、すばらしい奇跡が起きないかしら。この間見てくれた占い師は、近々きっと将来に繋がる出会いがあると教えてくれたのだけど……」

「あら、どこの占い師?」


 別の令嬢が興味津々に質問を始める。場の話題が移りかけたことを察知して、まだユスティーナの悪口を言い足りない令嬢は強引に話を戻した。


「でも、正直、現在の月の女神様は、ねぇ」

「まるでイシュカ様の操り人形。あの方がいなくては、何もできないともっぱらの噂よ? タルマガでもどうせ、イシュカ様の命じた方向に矢を放つだけ……あっ」


 彼女の友が調子を合わせてくれたが、次の瞬間二人は揃って顔色を失った。


 噂話に夢中になっていて気付かなかったのだ。件の銀月の君が賞賛の輪から抜け出し、すぐ側まで歩み寄ってきていることに。


「ウルール様、でしたかしら。わたくしの悪口で盛り上がる前に、あなた方はもっと素敵な殿方とやらに媚びるべきではないですか?」


 大きくて少しつり上がった、猫のような黒曜石の瞳を煌めかせ、銀月の君ことユスティーナは愛らしい唇でせせら笑う。イシュカとは趣の違う、清楚可憐な美貌の持ち主であるだけに見る者の心を抉る表情だった。


「本日の宴には、わたくしとイシュカ様に挨拶をしようと、名家の方々が大勢集まってくださっています。あなた方程度の家格の娘であっても、目に留まれば愛人ぐらいにはしていただけるかもしれませんよ」


 言うだけ言うと、彼女は柔らかに波打つ黒髪を軽く払い、颯爽とした足取りで兄王アルウィンと談笑しているイシュカのところへ戻っていった。


「なッ……!?」


 まるでユスティーナの得意とする矢のようだ。突如として放たれた暴言に反論もできないまま、一方的に馬鹿にされて取り残されたウルールと令嬢たちは、わなわなと肩を震わせ始める。


「ご自分が恵まれているからといって、あんな……なんて高慢な方! ふん、悪口だけは一人で言えるのね」

「何が月の女神よ、獣の血に塗れて戦い続けるなんて、獣と変わりないわ。そもそも、天地の起こりに魔獣たちを惑わせたのも月の女神ではないの! なのにどうして、無関係のわたくしたちが脅かされなくてはならないの……!?」


 率先してユスティーナの悪口を楽しんでいたウルールとその友人は、こそこそと陰口を叩いていたことも忘れて怒り狂う。占い師の情報交換で盛り上がっていた令嬢たちも肩を落とし、うっすら涙ぐんでさえいた。


 その様を背にひしひしと感じながら、ユスティーナはおずおずとイシュカに声をかけた。先程とは打って変わって、彼女の表情は迷いに揺れている。


「……あの、イシュカ様」

「さすが僕のユスティーナ。今日もちゃんと、教えたとおりに振る舞えたね」


 ユスティーナが戻ってくるのに合わせ、そつなくアルウィンとの会話を切り上げていたイシュカは穏やかな微笑みを浮かべて婚約者を出迎える。


「え、ええ……ご助言、ありがとうございます……」


 そこまで言ったユスティーナの視線がまだ泳いでいることを察し、イシュカはさり気なく彼女の腰を抱いて顔を近付けた。


 運命の恋人同士の人目もはばからぬじゃれ合い。そうとしか見えない姿に周りは気を遣い、そっと距離を置く。マーバル王国を象徴する二人の結び付きを、誰も邪魔してはならない。


 イシュカの加勢を得たアルウィンが勢いを取り戻し、玉座を勝ち取りはしたものの、ナインはいまだ至尊の座を諦めていないらしい。懲りずに兵を集めていると噂の彼が内乱を起こした場合、イシュカの加護を受けた銀月の君が鎮圧する流れとなるだろう。


 しかも現在のナインには、忌々しくも強靱な戦士である獣返りが味方しているらしいではないか。アルウィンに味方したことで得た地位や財産を守るためにも、ユスティーナは偉大なる太陽神の愛を受けていなくては困るのだ。


 そうやって否応なく、大勢の中で愛するイシュカと二人きりにされたユスティーナは、ごくりと喉を鳴らしてからおそるおそる訴えた。


「あの、でも、イシュカ様。先程の件、私の悪口はあなたの悪口も同然なのですから、無論注意は必要です。しかし、下級とはいえ貴族の女性にとって、結婚は一生を左右する大切な問題。神経質になってしまうのも当然で、それを……、軽々、しく……」


 似たようなことは過去に何度も繰り返されてきた。そのたびにいつか言おう、言おうと温めていた文章が、静かなイシュカの視線を浴びてもろく崩れていく


「なに?」


 軽く小首を傾げる仕草に合わせ、右耳の下で結んだ長い金髪がさらさらと流れ落ちた。神秘的な紫の瞳は知性と理性に満ち満ちて、彼が人より遙かに高次の存在であることをユスティーナに思い知らせる。


 銀月の君と呼ばれる女神の生まれ変わり、魂の片割れといえども、イシュカという導き手あってこそ。ユスティーナなどは人より多少優れた能力を持った程度の、ただの小娘でしかないのだと。


「……なんでも、ありません。イシュカ様は、いつも完璧で、全てにおいて正しいのですから……」

「そうだよ、ユスティーナ。愛しい僕の女神。僕はいつも完璧で、全てにおいて正しい。君はただ、僕の愛に包まれていればいい」

「……はい」


 自らの完全性をイシュカは堂々と認める。自信に満ちあふれた態度に、ユスティーナはかすかに波打つ胸を押さえつけてうなずくしかない。


「いい子だね、ティナ」


 ふわりとイシュカが笑った。出し抜けに愛称で呼ばれ、はっと端正な美貌を見つめ直せば、彼はユスティーナにしか見せない蕩けるように甘い笑みを浮かべている。その表情を与えられるたび、初めて会った、否、また迎えに来てくれた時と同じ感動と陶酔がユスティーナの心を支配する。


「それに引き換え、先程の子たちときたら……正しいことを言われても闇雲に反発するばかりで、成長の機会として素直に受け止められない。あの調子では、たとえどんな名家の娘であっても、まともな男には相手にされないだろうね。かわいそうに」


 ときめきを思い出したばかりの柔い心を、冷たい刃と化したイシュカの言葉が串刺しにした。


「え、ええ! そう……ですよね。私とは、違う。私はイシュカ様のような、この上なく素晴らしい男性に魂の始まりより選ばれて、愛されているのですから……!!」


 馬鹿なことをしてしまったと、白粉の下の顔を青くしてユスティーナは自分を恥じた。余計な情けをかけた相手はイシュカが哀れみを誘われるような、つまらない娘たちだったのだ。これ以上下手な真似をして、彼に愛想を尽かされてはならない。ユスティーナだけではなく、兄王及びこの国全体を危機に陥れてしまいかねないのだから。 


「よくできました。ほら、ご褒美だ。君の好きなお菓子だよ」


 期待どおりの答えだと微笑んで、イシュカは自ら側にあったテーブルに手を伸ばした。様々なデザートが満載のそこから、色鮮やかな果物が詰め込まれた小さなフルーツサンドが一つふわりと持ち上がり、艶かな褐色の指の中に収まった。


 広大なマーバルは場所によって気候が異なるが、ラージャ宮殿を中心とした王家の直轄領はもっとも太陽の恵みを受ける土地柄だ。特に太陽神が顕現している現在は、質量共に最高の作物を提供してくれる。たっぷり陽光を吸った果実を中心としたデザート類は、見た目も可愛らしく美容効果にも期待できる、乙女御用達の一品である。


「どうしたの? 君は、これが好きだろう?」

「……え、ええ。ありがとう、ございます……」


 私はとってもおいしいです、でも食べたらどうなるか分かりますね。そんな軽口を叩きながらウインクしてくるような、砂糖とバターとクリームたっぷりの菓子類からユスティーナは必死に目を反らす。小鳥がついばむようにちまちまと、時間をかけてフルーツサンドを食べる彼女を、イシュカは愛おしそうに見つめていた。

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