最終話 烏賊墨色ノ悪夢
「今度は何!」
部屋に静寂が戻ったと思ったのも束の間。今度はインターホンの音が響き渡った。驚きに比例して心臓が早鐘を打つ。
「
訪ねてきたのが宅配の配達員だと分かりホッと安堵する。例えば玄関の向こう側に巨大な烏賊が蠢いていたなら、その場で絶叫していたかもしれない。
「お疲れ様です」
ペルソナというのは体に染みついているもので、応対用の柔和な笑みを浮かべて繭美は玄関のドアを開けた。そこに居たのは町中でもよく見かける馴染み深い制服を着た笑顔の配達員の姿。それは紛れもない日常の一コマだった。
「
「えっ?」
その名前を聞いた瞬間、思考がフリーズした。烏丸瞳子の名義を使う人物など
急に顔色を変えた繭美の様子を訝しく思いながらも、配達員は淡々と仕事をこなし、玄関へと包装された荷物を運び入れた。組み立て家具のように薄く長い段ボールで梱包された荷物の形状とサイズ感は、やはりキャンバスを想起させる。
「ありがとうございました」
「……日用品まで持っていかないでよ。まったく」
梱包を解きたいのに、カッターナイフはクラーケンがどこかへと持ち去ってしまった。仕方がないので押収されずに残っていた定規を、デスクの奥から引っ張り出して来て代用品とした。繭美はそれをガムテープの隙間に差し込み、器用に包装を切っていく。
段ボールを開封すると、梱包材に覆われたキャンバスが姿を現した。これも運命の悪戯か、繭美の方を向いていたのはキャンバスの裏面で、梱包材越しに透けた絵の様子を捉えることは出来なかった。あえて表面を見ないまま、繭美はキャンバスを覆う梱包材を丁寧に剥がしていく。自分の死相をうっかり目撃するは心情的に避けたかった。
「……さぞ美人に描いてくれたんでしょうね」
海棠美墨への皮肉を口にしながら、繭美はキャンバスの両端に触れた。大きく深呼吸をしてから、一気にキャンバスを引っくり返した。
「どこまでも私を馬鹿にして……」
その絵を一目見た瞬間、繭美は全てを悟った。
セピア調でキャンバスに描かれた絵は確かに繭美の死の瞬間を切り取ったものだったが、これまでの被害者達とはあまりにも趣向が異なる。
描かれた繭美は白髪で、顔に皺やシミが刻まれた老齢の姿だった。病院らしき真っ白なベッドの上で、安らかに眠るようにして息を引き取っている。確かにこれも死を描いた絵ではあったが、これまでのような
「……観測者というのはこういう意味だったのね。どうり死ねないわけだ」
絶望に打ちひしがれた繭美はその場にへたり込んでしまった。
海棠美墨は老齢で亡くなる繭美の絵を、死の未来として送って来た。即ち繭美はこれ以外の形で死ぬことは絶対にないということだ。先程の自殺を食い止めるようなクラーケンの行動もそれで全て説明がつく。彼らは死の未来を現実のものとするために現れる。裏を返せば定められた未来に沿わぬ事象を徹底的に排除する、運命力としての役割も持っているのだろう。
観測者になるなど御免だと思っていたが、あの絵が現実のものとなるその時まで、恐らくこの先五十年は死にたくとも死ぬことは出来ない。情報生命体の流入によって浸食されていく世界を、繭美は嫌でも生涯をかけて目撃せねばならぬ宿命を背負わされたのだ。
「いっそ私を殺しなさいよ! あなた達に乗っ取られた世界なんて見たくな――」
舌を噛み千切ろうとした繭美の口に、どこからともなく出現したクラーケンの触手がねじ込まれ、無理やり口を開けさせた。運命は決して観測者の脱落を許しはしない。
「どうして私がこんな目に……」
繭美にとってそれは凄惨な死を迎えるよりも遥かに残酷な仕打ちだった。
今この瞬間も死にたがっている繭美を監視し、周囲のあらゆる暗がりから気味の悪い目が繭美のことをジッと見つめている。
その視線は決して繭美から目を離すことはないだろう。
彼女がこの世界の全てを見つめ、老いて天寿を全うするその日まで。
繭美にとってそれは、
ひょっとしたら彼女が亡くなったその瞬間に、純粋な人類は消滅してしまうのかもしれない。
この世界はこれからも、緩やかに彼らに侵食されていく。
電子の世界を泳ぐ巨大な魔物も、今も深淵から我々を見つめ続けている。
次に狙われるのは、あるいは……。
了
烏賊墨色ノ悪夢 湖城マコト @makoto3
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