第33話 虎落繭美

 1月12日午前。


 繭美まゆみがノルウェーから帰国してから二週間。

 日本国内では【FUSCUS】に関連したと思われる怪死がさらに増加している。最初の犠牲者である二輪にわ和仁かずひとの死から三ヵ月余り、【FUSCUS】による犠牲者は確認されているだけでも十万人を超えると推計されてる。把握されていない事例も含めれば、その件数はさらに跳ね上がるだろう。すでに【FUSCUS】による怪死は、前代未聞の災厄として世間にも広く認知されている。


 当初は興味本位で【FUSCUS】と関わりを持った者だけが亡くなっていたので、これは一過性の流行で、被害はいずれ下火になると予想されていたが、電子の海を自由自在に移動するクラーケンたちはすでに【FUSCUS】という画像生成AIとしての形態を必要としておらず、時には既存のイラスト投稿サイトに出没して利用者に死の未来の絵を送り付けたり、既存の検索フォームに擬態し不可抗力で【未来】と入力した者の死の未来を描いたりと、傍若無人な振る舞いを見せている。


 中には現実世界で突然、自身の死を描いた絵が宅配で送りつけられ、被害者がその通りに亡くなった例まで存在している。海棠かいどう美墨みすみを始め、すでに現実世界でも無数の器が活動しており、現実でも不特定多数に絵を送りつけることが可能になりつつある。そういった方法で普段インターネット等を利用しない層にも傍迷惑なアプローチを続けているのだ。


 電子の海から一つでも多くの仲間の情報をこの世界に注ぎ込むため、彼らは器を求めて日々活動を続けている。まだ日本ほどの混乱は見られないが、世界各地でも同様の動きが見られており、今後被害は世界規模で拡大していくことだろう。


 毎日大勢が死の未来を描かれて亡くなり、その一部が器となり、新たな仲間を招来する。確実に人類は数を減らし、生き残った人々もアカシックレコードから流入した情報生命体に中身が塗り潰されていく。人類は緩やかだが確実に、彼らに侵略されていくことだろう。


『続いてのニュースです。各地で確認されている【FUSCUS】の被害について、政府は緊急の安全対策会議を――』


「もう全てが手遅れなのよ」


 カーテンを閉め切った自室の中で、繭美はお昼のワイドショーを放送していたテレビの電源を切り、そのままベッドへと仰向けに倒れ込んだ。着替えるのも億劫で、寝間着のスウェットとショートパンツ姿のままだ。


 一カ月前の自分だったら、未曾有の危機に政府が乗り出したことに高揚感を覚えたかもしれないが、すでに情報生命体の侵入は取り返しのつかない所まで来ていることを、繭美はあの日のオスロで思い知らされた。


 自宅謹慎中にあろうことか海外へ渡航していたことが問題視され、すでに警察官としての復帰の目は詰んでいる。良くて閑職への異動が関の山だ。


 ノルウェーから帰国してからの二週間。必死に自分自身と向き合ってきたが、日々増え続ける犠牲者の数と、それを指を咥えて見ていることしか出来ない己の無力さ。復讐心さえも下火となり、もう全ては手遅れだと諦観する日々。絶望感が募るのみで、一切の希望を持てないでいた。


「……雨谷あまがいくん。私、もう駄目かもしれない」


 恋焦がれた人のことを思うと、自然と涙が溢れてきた。

 全ては海棠美墨の言った通りだ。自分は現状に対する観測者でいる以外の役割を持てない。そんな自分が不甲斐ないと同時に、海棠美墨の思惑通りになってしまっている己に嫌気が差す。


 復讐さえも実らぬ今、愛する人を喪ったこの世界に対する未練はいよいよ無くなりつつあった。郷里の家族や信頼出来る同僚。繭美にはまだ大切な人々が残されているが、誰よりも早く世界がもう手遅れであることを知ってしまったからこそ、今後彼らを喪うかもしれない現実に耐えられそうにはなかった。だったら、いっそ自分が見送られる方に。雨谷光賢と同じ場所へと。


 ベッドの上で上体を起こした繭美は、近くのサイドテーブルの上に置いていた一本のナイフを取り出し、鞘から抜いた。この数日間はまるでお守りのように寝所の近くにずっと配置していた。いつでも衝動的に自らの刃を向けられるようにと。


 今日、ついにその日がやってきた。繭美にとって意外だったのは、感情ではなく、むしろ理性的に己の命を刃を突きつけようとしたことだろうか。


 繭美をナイフの刃を自身の喉笛へと宛がった。どうせ死ぬなら、光賢と同じ方法がいいとずっと考えていた。死の未来を描かれていない繭美は本来ここで死ぬ謂れはないが、観測者などという役職を勝手に押し付けて来た海棠美墨に対して一矢報いてやろうという感情も存在していた。これまでの大勢の運命を操ってきたかもしれないが、決して自分はそうはならない。


「今そっちに行くよ。雨谷く――」


 目を閉じた繭美がひと思いに自身の喉笛を切り裂こうとした瞬間、それは起こった。生き地獄とならぬように全力を込めたつもりが、ナイフを握る右手がピクリとも動かないのだ。


「……どうしてこんな」


 開けた視界に飛び込んで来た光景に繭美は戦慄する。右手やナイフの刃に無数の烏賊の触手のような物が巻き付き、繭美の自刃を全力で食い止めていたのだ。直接目にしたは初めてだが、これまでの多くの目撃証言からそれがクラーケンと呼ばれる情報生命体の仕業であることは直ぐに理解出来た。しかしそれがどうして自分の前へ姿を現したのか、そしてこれまで大勢を死の運命に引きずり込む死神だったクラーケンが、どうして自ら死のうとする繭美を救うような真似をするのか、まったく意味が分からなかった。


 そのままクラーケンは力技で繭美の手からナイフを奪い取り、性急にナイフごと深淵の奥へと引き返していった。


「……何が起きているのよ」


 気持ちを落ち着けるため、ミネラルウォーターでも飲もうとキッチンへと向かう。冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出し喉を潤していると、調理器具の収納からカタンと何かが固定から外れるような音が聞こえてきた。


「ひっ……」


 収納の引き出しを開けると、中にはみっちりと烏賊の触手が蠢いていて、調理用の包丁やぺティナイフ、調理バサミといった刃物類を例外なく深淵へと引きずり込んでいた。


 間を置かずして今度は納戸の方から同様の物音が聞こえてきた。繭美が様子を見に行くと、工具箱が丸ごとクラーケンの触手によって深淵へと引きずり込まれていく。工具箱の中にはドライバーやレンチなど、使い方によっては凶器にも成り得る物が複数収納されている。


「どうして私にだけはこんな真似を……」


 クラーケンの触手が家中から凶器となりそうな物を根こそぎ排除しているのだと繭美は悟った。続けて今度はリビングから物音が聞こえ、日常的に利用しているハサミやカッターナイフ、アロマキャンドルを焚く際に使用しているライター等も持っていかれた。これだけやれば問題ないと判断したのか、クラーケンによる差し押さえはそれが最後だった。

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