烏賊墨色ノ悪夢

湖城マコト

第1話 バースデー

 自宅で一心不乱にデスクワークに励んでいた雨谷あまがい光賢こうけんがPCモニターを確認すると、日付変わって10月16日の深夜1時を回ったところだった。


 光賢はITジャーナリストしてビジネス誌やカルチャー誌に連載を持っており、メタバースやAIといった先端技術および、最新のガジェット等をテーマにした記事を得意としている。


 この日も取材から戻るなり、風呂にも入らぬまま取材記事をまとめていた。記事は生物なまものだ。自らが見聞きした情報を新鮮な内に文章に落とし込んでおきたい。


玖瑠美くるみの喜ぶ顔が楽しみだ」


 写真立てを一瞥して光賢は微笑む。写真は妹の玖瑠美の大学の入学祝に遊園地に連れていってあげた時のもので、長身の光賢が小柄な玖瑠美に合わせる形で背中を丸めて、二人で仲良くピースサインを作っている。身長差こそあるがやはり兄妹。意志の強そうな大きな瞳や通った鼻筋、色白な肌などが血の繋がりを強く感じさせる。


 今日は玖瑠美の誕生日で、夜は二人でレストランで食事をする約束をしていた。

 引き出しの中には包装された玖瑠美へのプレゼントが入っている。大学生の妹に何を送っていいのか分からず、友人の虎落もがり繭美まゆみの意見を丸ごと取り入れて、最終的にプレゼントは、流行を選ばないシンプルなデザインのネックレスとなった。


 今になって思えば、得意分野であるガジェット系のプレゼントを選んでも良かったかもしれない。玖瑠美は大学で友人たちと映像制作に精を出しており、それに活用できるプレゼントは喜んでくれそうだ。兄馬鹿なので、誕生日など関係なく、適当な理由をつけて買ってあげてしまうかもしれない。


 昔から仲の良い兄妹だった。十歳も年齢が離れていたからなのか、多感な思春期の頃でさえ妹の存在を煩わしいと感じたことない。仕事の関係で昔から両親は帰りが遅く、普段から妹の世話を焼いていた。当時の感情は兄妹の絆よりも、我が子に向ける鍾愛ちょうあいに近かったのかもしれない。


 去年、玖瑠美が大学進学で上京したのを機に、兄妹で過ごす時間が以前よりも増えた。別々に暮らしてはいるが、玖瑠美は暇さえあれば光賢の家を訪ねてくる。例え光賢が不在でも合鍵で部屋に入り、生活が不規則になりがちな兄のために料理を作り置きして帰っていく程だ。先に上京して、数年間一緒にいられなかった兄との時間を取り戻そうとしているのかもしれない。


 兄としては自分にベッタリではなく、誰か良い相手でも見つけてくれたら安心なのだが、一方でそんな相手に対して狭量になってしまいそうな自分もいる。お兄ちゃんの心境もそれはそれで複雑だ。


「流石に少し寝ておくか」


 時刻は午前3時を回っていた。徐々に眠気が襲い始め、頭が上手く回らなくなってきた。ある程度は作業も終わったので、朝まで3時間ぐらいは眠っても良さそうだ。


 ベッドで寝るかソファーで寝るか悩んでいると、突然スマホに着信が入った。欠伸をしながらスマホを手に取ったが、発信者の名前を見て一瞬で眠気が吹き飛ぶ。最愛の妹である玖瑠美からの着信だった。いくら兄妹とはいえ、大した用件もなく非常識な時間に電話をかけてくるような子じゃない。


「玖瑠美。こんな時間にどうかしたのか?」


 急にお兄ちゃんの声が聞きたくなったとか、可愛げのあることを言ってくれれば笑い話しで済むのだが、そんな願いも虚しく、電話越しの玖瑠美の息遣いは何かを恐れるように震えていた。


『お兄ちゃん……助けて』

「玖瑠美、何があった?」


 電話をしながら、光賢は直ぐに玖瑠美のマンションへ向かえるように車のキーを取り出した。


「どんどん黒くなっていく……怖いよ……」

「自分の部屋にいるのか? 今すぐ助けに行くからな!」


 何が起きているのか皆目見当もつかないが、玖瑠美の怯えようから只ならぬ事態が起きていることだけは理解出来た。光賢はスマホを通話状態にしたまま、鍵もかけずにマンションの部屋を飛び出した。


 地下駐車場まで駈け下りて愛車に乗り込む。その間にも玖瑠美を励ましたり、何が起きているのかを問い掛け続けたが、玖瑠美は怯えるばかりで、返答はまるで要領を得ない。


『もう何も見えない全て真っ黒……黒い黒いくらい――』

「玖瑠美! どうした玖瑠美!」


 突然、玖瑠美が悲鳴に近い金切り声を上げた。後半はもうほとんど意味を聞き取れない。状況は切迫している。


 光賢のマンションから玖瑠美のマンションまでは車でも15分はかかる。頼むから間に合ってくれ。光賢は祈るようにキーを差し込んだ。


『あの画像の通りだ』

「玖瑠美?」


 突然、我に返ったように玖瑠美の声が冷静になった。次の瞬間。


『嫌ああああああ! 助けてお兄い――』

「玖瑠美! 玖瑠美! おい、玖瑠美!」


 耳をつんざくような絶叫が、鈍い衝突音と共に途切れた。必死に名前を呼び続ける光賢に、愛おしい妹から返答は返ってこない。


『誰か――落ち――』

『救急――絡――』


 衝突で壊れた玖瑠美のスマホは、ノイズ交じりに辛うじて周囲の音を拾い続けている。そこからもたらされる情報の一つ一つは、光賢にとってあまりにも絶望的なものであった。


 ※※※


「玖瑠美! 玖瑠美!」


 光賢が玖瑠美のマンション前まで到着すると、管轄の鈍山にびやま警察署の車両や救急車がかけつけており、騒ぎを聞きつけた近隣住民が野次馬を形成していた。マンション前の植え込みに誰かが倒れており、それを取り囲むように複数人の警察官の背中が見える。玖瑠美はあそこにいると光賢は悟った。


「ここから先は立ち入り禁止です」

「妹かもしれないんだ! いいからここを通せ!」


 野次馬を掻き分けて現場に侵入してきた光賢を制服警官が制止したが、光賢はそれを振り切って植え込みへと駆け寄った。


「玖瑠美?」


 植え込みに仰向けで横たわっているのは、高所から転落して変わり果てた姿となった最愛の妹の遺体であった。落下の衝撃で全身を複雑骨折した玖瑠美は、本来の人間の可動域では不可能な、不格好な卍型を象るような姿で亡くなっていた。体の至るところから、骨が体外へと突出してしまっている。


「ご家族の方ですか? 残念ですが――」


 亡くなった女性の名前を呼んだことで状況を察した警察官が、光賢に説明をしようとしたが、絶望に突き落とされた光賢にその声は届いていない。


「……どうしてこんなことに」


 何かに怯えて電話で助けを求めて来た玖瑠美が高所から転落死した。これだけでもすでに意味が分からないのに、玖瑠美の遺体は転落死の惨たらしさ以上に異様な姿で事切れていた。


 玖瑠美の遺体は亡くなった直後だというのに、転落死で生じたおびただしい量の出血の全てが異様なまでに黒々としていた。まだ血液は固まり始めていないし、酸化した血の黒ではなく、もっと真っ黒な。例えるならそれはイカスミのようだった。


『全て真っ黒』


 電話越しの玖瑠美の訴えが蘇る。あの時玖瑠美は黒を異常に恐れていた。

 虚空を見つめる玖瑠美と目が合う。落下の衝撃で片目が潰れ、眼窩からは真っ黒な血液が涙のように流れ落ちていく。


「玖瑠美……玖瑠美……あああああああああああああ――」


 最愛の妹を喪った光賢の慟哭どうこくが、朝ぼらけの空を裂いた。

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