第13話 大切なあなたと一緒に朝食を
「
フログネル公園内にある、ヴィーラゲン彫刻公園で彫刻をスケッチしていた美墨の背中に
「ちゃんとご飯は食べてる?」
「大丈夫大丈夫。ほら、私ってば一度絵を描き始めたら寝食を忘れて熱中しちゃうから。それで疲れて見えてるだけだって」
美墨は苦笑顔で鼻を擦ったが、それは強がりであることは深夜にはお見通しだった。美墨が嘘をつく時、鼻を擦る癖があることはとっくに気づいている。
「デリケートな話題だけど……食費に困っているんじゃない? ノルウェーは税金が高い国だし物価も高い。金銭面は色々と大変でしょう」
図星故に美墨は何も言い返せなかった。日本で貯めた貯金と、こちらでのアルバイト代で、美術学校の学費や最低限の生活費は賄えているが、物価や税金の高いオスロでの生活は切り詰めないと立ち行かない。加えて美墨の場合は画材の費用が嵩むので、その分を食費を切り詰めることで捻出していた。仕事を増やして絵を描く時間が減ってしまっては本末転倒なので、美墨にとってはあくまでもこれが最善の策だった。
「体を壊したら、それこそ大好きな絵が描けなくなっちゃうよ」
「……まったく何も食べてないわけじゃないから大丈夫だって」
言葉に普段の切れ味がないのも、空腹で頭が回っていないからだろう。素人目に見てもデッサンも筆のノリが悪いように見えた。今の美墨は芸術家としてではなく、一人の日本人留学生としての壁にぶち当たっているのだ。美墨と美墨の絵を愛する深夜にとっては、見過ごしてはおけない事態だった。
「ねえ美墨。私と一緒に暮らさない? 家賃の負担が無くなるだけでも相当楽でしょう」
美墨の肩に触れて、こちらへと振り向かせた。
「……気持ちは嬉しいけど、深夜に迷惑はかけられない」
気まずさから美墨は決して深夜と視線を合わせようとはしない。
「迷惑なんかじゃない。私は本気だよ。家賃だけじゃない。日々の生活費や学費だって私が面倒みてあげる。私こう見えてけっこうお金持ちなんだよ。学生時代から開発したプログラムでたくさん儲けてきたんだから、美墨一人ぐらい余裕で養える。美墨はお金の心配なんてしないでずっと絵のことを考えていたらいいんだよ」
「お金の問題じゃないよ。深夜にそこまでしてもらう資格なんて私には……」
「美墨にとって絵を描くことはその程度のものなの?」
出会って以来、ずっと優しい面差しで美墨と接してきた深夜の表情が、この時だけは罪を問う検事のように鋭かった。
「今のままじゃ空腹とお金に押しつぶされて、大好きな絵が続けられなくなるよ。手段なんて選んでる場合じゃないでしょう。それとも美墨の情熱は、友達に迷惑をかけるぐらいで揺らぐ程度のものなの?」
「……私は絵を描くことが大好きだよ。それを続けらなくなるのは耐えらない」
いつの間にか美墨の目には大粒の涙が溜まっていた。勝気で奔放な印象ばかりが先行していたが、まだ21歳の若さだ。異国の地で対面する、金銭問題と夢とのギャップには相当追い詰められていたのだろう。それでいて素直に友人の手を取れない葛藤。それは根の真面目さであると同時に生来の頑固さでもあった。だが今の彼女は、感情だけではどうにもならないことがあるという現実を思い知ったはずだ。
「深夜。本当に助けてもらってもいいの?」
「助けるなんて感覚は私の方にはないけどね。美墨と一緒に暮らせたら私もきっと楽しいし」
「ありがとう深夜……」
「今夜は美墨の歓迎祝いだね。美味しい物でも食べにいこう」
大粒の涙を流して深夜の胸に顔を埋めた美墨を、深夜は気持ちが落ち着くまでの間ずっと優しく抱擁し続けた。
「美墨がずっと絵を描き続けられるように、私がずっと支えるからね」
※※※
「……まるで走馬灯ね」
ダブルベッドの上で目を覚ました
美墨と二人で選んだダブルベッドは一人で使うには大きすぎる。大きすぎるのに、真ん中を占領する気にはなれなくて、自分の定位置だった右側だけを使う習慣が体に染みついている。左半分はいつだって美墨のための空間だったから。
下着姿で寝ていたので、その上からガウンを羽織ってリビングへと向かう。生憎と今日は雨模様で、カーテンを開けてもリビングはどこか薄暗い。まるで今の深夜の心境とリンクしているかのようだ。
リビングの壁には一枚のセピア調で描かれた裸婦画が飾られている。オスロで同棲を始めたばかりの頃、誕生日が近かった深夜のために、深夜をモデルにして美墨が描いてくれたものだ。
美術モデルの経験などないので、足を組んで椅子に座り、組んだ両手を突き上げるポーズを維持し続けるのは肉体的には大変だったが、美墨が自分をモデルに絵を描いてくれる時間が尊くて、あっという間に時が過ぎ去った感覚だった。出会ったばかりの頃に脱ごうかと深夜が冗談めかして言ったこともあったが、プレゼントの絵をヌードで描かせてくれたと提案してきたのは美墨の方からだった。
同じ部屋で一緒に生活し、同じベッドで眠り、時に一緒に入浴をする中で、美墨は純粋に深夜の肉体美に惚れこんでいた。深夜を最も美しく表現するには有りのままの姿が一番。美墨が何気なく放ったその一言こそが、深夜にとっては絵そのものよりも嬉しいプレゼントであった。
「直ぐに朝ごはんにするからね」
深夜はお気に入りの黒いマグカップにホットコーヒーを、美墨のお気に入りだった白いマグカップに温めたミルクを、それぞれ注いでいく。オーブントースターで食パンを焼いている間に、トマトとレタスで簡単なサラダを作り、ボールへと盛り付ける。焼きあがったパンにバターとマーマレードを添えれば二人分の朝食の完成だ。向かい合う形でテーブルに配膳する。
「いただきます」
両手を合わせて深夜は朝食を開始する。昨夜は何も食べずに眠ってしまったので今朝は食が進み、あっという間に深夜の朝食が減っていく。
向かいに置かれた美墨の分はいっこうに減らないが、深夜はそちらには一切手をつけない。だってこれは美墨の分の朝食だから。
「美味しいね。美墨」
深夜が笑顔を向ける先に最愛のパートナーの姿はなく、代わりに一台のパソコンがテーブルの上に置かれ、その周りに朝食の皿が配膳されていた。
パソコンの画面には【FUSCUS】の文字が表示されている。
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