第12話 8年前、オスロにて

 8年前。ノルウェーの首都オスロで二人の日本人女性が出会った。


「時々ここで絵を描いているわよね」

「あなた誰?」

「日本語で返してくれた。やっぱり日本人なんだ」


 オスロの都市部から北西に三キロ程いった地点にある都市公園、フログネル公園の芝生に腰を下ろし、風景をスケッチしていた小柄な女性に、長身の女性が笑顔で語り掛ける。小柄な女性は長い黒髪に白いインナーカラーを入れており、服装もレザーのライダースジャケットにダメージデニムとカジュアルな印象だ。長身の女性は対照的に、黒髪のショートボブに、タートルネックのセーターにブレザーを合わせたカッチリとした装いだった。


「私は八起かずき深夜みや。近くのIT企業の研究部門に勤務してて、ここにはお昼休みに時々気分転換で散歩にくるんだ。そしたら最近は毎回スケッチに励む日本人らしき女の子がいるじゃない。私としてはもう興味津々なわけですよ」


 そう言って、深夜は女性の隣に腰を下ろした。


「なにそれ。けど私もここで日本人に声をかけられるとは思ってなかった」

「あなたお名前は?」

美墨みすみ海棠かいどう美墨みすみ


 返答こそ素っ気ないが、隣に座った深夜を拒むことはせず、美墨も満更でもなさそうに笑っている。


「海棠さんは海外留学?」

「絵の勉強をするために先月から留学中」

「海外で絵の勉強か。凄い行動力」

「周囲は大反対だったけどね。私の人生なんだから好きにさせろっての」

「最高。そういう心意気大好き」

「そういうあんたも、海外で研究者なんてすごいね。あたしとそんなに歳は変わらないそうに見えるのに貫禄あるよ」

「飛び級で大学卒業してからずっとこの業界にいるから。最近はフリーランスとして各地を転々としてて、今の止まり木はここってわけ。ちなみに歳は今年で22」

「一歳違いじゃん。私は今年で21」


 経歴よりも年齢が近かったことの方に美墨の関心はあったようだ。新鮮な反応が深夜には嬉しかった。


「せっかく異国の地で知り合ったんだからさ。私達お友達にならない?」

「別にいいけど、私流行りとかに疎いし、一緒にいてもつまらないかもよ?」

「そんなの、友達になってみないと分からないじゃない。今日からよろしくね、美墨」

「早速名前呼びとか海外暮らしのコミュ力やば。そういうの嫌いじゃないけどさ、深夜」


 その日から二人は、頻繁にフログネル公園で顔を合わせるようになった。


「深夜は普段、どんな研究をしてるの?」


 この日は生憎の空模様で美墨はスケッチが行えなかったが、それでも公園へと足を運び、同じく公園を訪れた深夜と近くのカフェで談笑を楽しんだ。


「私の専門は情報工学で、人工知能、所謂AIの研究開発を行ってる。社外秘で詳細までは言えないけどね」


「AIのことはよく分からないけど、よく将来人間の仕事はAIに奪われるとかいうよね。あれって実際どうなの?」


「効率化という意味では確かにそういう流れも来るだろうけど、あくまでもケースバイケースじゃないかな。AIやロボットが絶対に入れない人間の聖域というのは絶対に存在するし、何でもかんでも機械頼みの社会が健全とも思えないしね。絵や小説といった創作の分野は、その最たるものだと思うよ」


「絵を描いたり、物語を綴ったりするAIは登場しなっていこと?」


「それは少し違うかな。この数年以内にはきっと、誰でも利用できるような、画像や文章を生成するAIが登場すると思うよ。きっと人の手ならたくさんの時間をかけて生み出されるような作品を、AIがものの数秒で完成させてしまう時代がもう目の前まで来ている。これを聞いて美墨はどう思う?」


「そうだとしても、私達の芸術家のやることは何も変わらないよ。自分の個性をひたすら作品にぶつけてやるだけさ。私達が目指すところは上手い絵を素早く仕上げることでも、大量生産することでもない。己を曝け出した先に、誰かの心に少しでも響いてくれたなら、それが一番の誇りさ」


 堂々たる美墨の口振りに、深夜は破顔一笑した。


「やっぱり美墨ってば最高。私の持論だけどさ、AIは万能かもしれないけど、それは隙という名の面白味がないことでもあると思うんだ。対する人間は、万能とはとても呼べない欠点だけらの存在だけど、一人一人に個性という名の無限の可能性がある。自分の個性を信じて突き進む美墨なら、絶対にAIに淘汰されることはないね」


「淘汰とか物騒なこと言うね。だけど深夜に言われると自信がつくよ」


 芸術家として成長していく上では、孤独も創作の立派な糧だと思っていたし、故郷を懐かしんで感傷に浸るようなタイプでもない。それでも年頃の女が一人、何の基盤もないまま異国の地で生活するというのはやはり寂しさが付きまとうものだ。気さくに接してくれる同年代の深夜は、初対面で感じた時よりもずっと大きな存在になっていた。


「そういう美墨はどういうきっかけで絵を始めたの?」


「きっかけらしいきっかけなんてないと思う。物心ついた頃には黒いクレヨンで何かを書いてた気がするな。おじいちゃん曰く、言葉よりも先に絵で表現することを覚えた孫だったとか。テレビも同年代の子が熱中しそうな変身ヒロインには目もくれず、硬派な美術系の番組に興味津々だったそうだよ。そんな子供の図体だけ大きくなったのが今の私ってわけ。安易に才能って言葉は使いたくないし、自分に絵の才能があるとも思ってないけどさ、絵に熱中する才能だけは間違いなく生まれ持ってたと思うんだよね。親兄弟まったくそういう方面への関心が無かったから、私はたぶん海棠家の突然変異だね」


「なるほど。聞けば聞くほど美墨は絵画の申し子ってわけだ」


 きっかけなど聞くだけ野暮だったのだと、深夜は自分の質問のくだらなさに苦笑する。大きなきっかけなどなくとも、人は何かに夢中になれるし、人生を左右する決断をすることだって出来る。ソースコードを気にしてしまうのは職業病かもしれない。


「そういう深夜はどうしてAIの研究をしてるの? お仕事的な話じゃなくて情熱的な意味の話ね。天才少女だったことはもう知ってるけど、だからこそ進める道は色々とあったでしょう」


 コーヒーを一口飲むと、深夜は考え込むように目を閉じた。


「強いて言うなら、新しい何かを生み出すことに興味があったからかな。私の持てるスキルで最もそれを体現出来そうなのがAI開発の分野だった。あまり深く考えたことは無かったんだけど、たぶんそういうことなんだと思う」


「深夜と直ぐに仲良くなれた理由が何となく分かった気がした。私達は頭の良さも生き方も全然違うけど、きっと同じような根源を持っているんだね。私達は新しい何かを生み出す快楽に魅入られてるんだ」


「快楽か。確かにそうかもしれないわね」


 美墨のある種俗っぽい、こういったストレートな表現は好きだ。誰も成し遂げていない何かを成そうとする快感は、性欲以上に己を奮い立たせてくれる。


「美墨と話していると退屈しないわ。こういう雨の日は特にね」

「天気が関係あるの?」

「絵を描いているあなたも好きだけど、雨の日は私の方を見てくれるから」


 美墨は何よりも絵を描くことを愛している。だけど雨降りで屋外で絵を描けない時はこうして深夜との会話に全ての意識を向けてくれる。この時間が深夜にとっても尊かった。


「痛い台詞。言ってて恥ずかしくならない?」

「私は良い女だから何を言っても許されるの」

「自信満々に言ってくれちゃって。けど、確かに深夜なら許せるかも」


 そう言って美墨は天真爛漫な笑顔を見せた。出会って以来、ここまで表情が砕けたのは初めてだったかもしれない。


「それとさ。雨の日じゃなくても、私はちゃんと深夜を見てるよ」

「えっ?」

「深夜って凄く綺麗だから。いつか深夜の絵を描きたいなとか。会う度にそんなことを考えてる」

「美墨のお願いならいつでも脱ぐよ」

「誰もヌードとは言ってない。まったく」


 日本にいる時だって、ここまで誰かに心を開けたことがあっただろうか。単身ノルウェーに留学したのはもちろん芸術を学ぶためだし、その時間を大切にしている。だけどそれと同等か、それ以上に深夜と過ごす時間を美墨は大切にしていた。留学で得た最高の収穫は絵のスキル以上に、心の底から分かり合えるパートナーとの出会いだったのかもしれない。

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