第15話 セピア
「話しの流れを切ってすまない。続けてくれ」
ここからは
「……様子のおかしくなった段さんは、離せと叫びながら、何かを振り解くように必死にもがいていました。だけど体はどんとん手すりの方に後退っていって。私の目には段さんが一人で暴れているようにしか見えなかったけど、言っていることと行動があまりにもチグハグで。もう何が何だか分かりませんでした」
「そのまま段は手すりを乗り越えて?」
「……最後の落ち方はとても不自然でした。手すりに腕をかけてないのに、段さんの体が不意に橋から浮き上がって、そのまま背中から手すりを乗り越えていったように見えました」
段の最後の姿を思い出してしまったのだろう。瞳子の言葉は次第に震えを増していった。繭美は最後まで言い終えた瞳子の肩を優しく抱き、「よく頑張ったね」と労った。
「
「確かにあの橋の手すりはそれなりに高い。それを勢いもつけずに背中から乗り越えるなんて普通じゃ考えられない」
あの橋は用水路にかかっているため、景観は気にせず、安全のために高い手すりが設置されていた。後ろに体重をかけたところで、そう簡単に転落には至らないはずだ。しかも瞳子の証言によると、体が浮き上がって足元が疎かになっている。まるで謎の力でも作用したかのようだ。
「
「今何て?」
消え入るような瞳子の呟きを光賢が拾った。
「手すりを乗り越えた瞬間に段さんが私に言ったんです。烏賊に気を付けろって」
段の転落が衝撃的過ぎて今まで忘れていたが、最期の瞬間確かに彼はそう言った。恐怖に怯えながらも、あの忠告には確かな理性が宿っていた。
「烏賊というと、あの海洋生物の烏賊か? だとすればそれが何を意味するのか」
「段さんの最期の言葉だし、重要な意味があるとは思うけども」
「一ついいですか?」
光賢と繭美が頭を捻る中、瞳子が控え目に挙手をした。
「段さんの言っていた言葉が意味するところは私にも分かりませんが、【FUSCUS(フスクス)】と烏賊には大きな接点がありますよ」
「どういうこと?」
「フスクスはラテン語でセピアという意味で、セピアはそもそもイカ墨を意味する言葉なんです。セピア色の顔料もイカ墨から取れるんですよ」
思わぬ情報に光賢と繭美は言葉を失う。美術に詳しい人間がいなかったので、瞳子からの指摘は目から鱗だった。セピア調の絵画作品を仕上げる【FUSCUS】と、セピアを生み出す烏賊とは、切っても切り離せない関係にある。
「セピアとイカ墨の話なんてよく知っていたわね」
「元々絵を描くことが好きなんです。敬愛する画家の先生がセピア調の表現が得意で、その影響で私も技法について色々と勉強していて」
瞳子と光賢は関心して頷く。いつの間にか瞳子がこの場の主役となっていた。
「その画家というのは、
「そうです!
同行の士を見つけたかのように瞳子は前のめりになったが、熱量についていけず
「ぼ、僕自身が詳しいわけではないけど、和仁が彼女のファンでね。自宅に画集が置いてあったし、SNSでも時々彼女の話題を呟いていたはずだ。そういえば【FUSCUS】の画風は海棠美墨とよく似ているよね」
「小栗さんもそう思いますか。私もずっと【FUSCUS】にはずっと海棠先生の面影を感じていて」
「待ってくれ。【FUSCUS】の画風にはモデルがいるのか?」
思わず光賢が話題に割って入る。美術方面の知識は薄く、【FUSCUS】についてもノスタルジックなセピア調を売りにしているぐらいにしか思っていなかったが、モデルが存在するなら意味合いは一気に変わってくる。
「あくまでも私の主観ですが、単にセピア調というだけでなくて、俯瞰を用いた構図とか、光と影の使い方とか、もっというと描き癖とか、まるで本人のようで。【FUSCUS】には美墨先生らしさが詰まっているんです」
この短時間の熱弁を見ただけでも、瞳子がどれだけ海棠美墨に傾倒しているかは誰の目にも明らかだった。主観と前置きしていたが、そんな彼女が描き癖といったマニアックな部分までもひっくるめて、【FUSCUS】と海棠美墨の共通点を指摘するのなら、その意見は決して馬鹿には出来ない。
「
「そうね。偶然の一致では片づけられない。瞳子さん。海棠美墨について詳しく教えてもらえる? 現在の活動とか、お仕事の連絡先とか」
「……美墨先生にはもう会えませんよ。先生は2年前にご病気で亡くなりましたから」
睨むように目を細めた瞳子の言葉を受け、一気に沈黙が流れた。新たな手掛かりを見つけられたかと思ったが、故人に事情を聞くことは出来ないし、2年前に亡くなった人物が、現在起きている異常に関与しているとも考えづらい。
「それでも、海棠美墨について知っておくことには意味がある気がする。彼女の顔写真とかは残っているかな?」
「スマホのフォルダにたくさん保存してありますよ。少々お待ちください」
瞳子の発言に隣の席の峰行は目を見開いていた。尊敬する画家とはいえ、流石に本人の画像をスマホに、それも大量に保存しておくものかと、内心引いていた。
「……そっか。ここで見たんだ」
スマホを操作する瞳子の手が止まり、胸のつかえがとれたように微笑を浮かべた。
「どうしたの。瞳子さん」
「これを見てください。どうりでさっきの八起深夜さんの画像に見覚えがあると思った」
瞳子のスマホに表示された、過去に海棠美墨が雑誌の取材を受けた時の写真を見てその場にいる誰もが驚愕した。黒髪にトレードマークの白いインナーカラーを入れた美墨の、黒いライダースジャケットの袖から伸びる左手、薬指には、月桂冠のデザインを落とし込んだ特徴的な指輪がはめられていた。
「八起深夜と同じ指輪だと」
光賢はこの事実に興奮を隠しきれなかった。不敵に口角が釣りあがったのを横目に確認し、繭美は複雑な表情を浮かべている。
【FUSCUS】の開発者と目される八起深夜。【FUSCUS】の画風のモデルと考えられる海棠美墨。どちらも関与は可能性に過ぎなかったが、指輪のデザインが両者を繋ぐ線となったことで、一気に全体像の見え方が変わった。二人が特別な関係にあったのなら、やはり海棠美墨も【FUSCUS】の誕生に大きく関与していることになる。
「雨谷くん。八起深夜の消息が途絶えたのは確か、3年前だったわよね」
「ああ、そして海棠美墨が病気で亡くなったのが2年前。時期を考えると、八起深夜は海棠美墨の発病をきっかけに表舞台から姿を消し、【FUSCUS】の開発に着手したのかもしれない。その画風が亡くなった海棠美墨と酷似しているのも意味深だ」
連鎖的な様々な情報が繋がっていく。【FUSCUS】の死のメカニズムは未だ謎に包まれているが、【FUSCUS】が生まれた経緯は見えてきた気がする。
「八起深夜に迫る鍵は海棠美墨だ。彼女を掘り下げて行けば、八起深夜の尻尾が掴めるかもしれない」
「僕の方でもそれとなく情報収集をしてみますよ。人脈を駆使すればどちらかの関係者に行き着くかもしれない」
「私も自分に出来る範囲で美墨先生について調べてみます」
差し込んだ光明に光賢、峰行、瞳子の三人は気合十分といった様子だったが、繭美だけは不安気に下唇を食んでいた。捜査が進展したことは喜ばしいが、一方で三者三様にその在り方に危うさを感じていたからだ。
光賢にとってそれは復讐心の後押しであり、峰行にとってのそれは好奇心の種、瞳子にとってのそれは危うい陶酔の影が見え隠れする。浮足立った三人の姿は、正義感で動く繭美にとってはどこか不気味に感じられた。何かよくないことが起こりそうな気がする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます