また明日っ!

「――ねえ、いつになったら結婚してくれるの?」


 恋人である若菜わかなが、不意にぐっと近づいてきた。


 詰め寄ってきたとも言う……、

 それに驚いたおれは、すぐ傍に手を着いたつもりが、そこはベッド外だったようで――、


 ずる、と、心臓が浮く感覚を味わってから、床に落ちる。鈍い痛みを発する後頭部を手で押さえながら、彼女からの『結婚』というワードに、慌てて返答した。


「あ、明日っ、また考えるから、待っててくれ!!」


 彼女の目がすっと細くなる。

 また同じ顔をさせてしまった……、何度も同じことを言っているおれも悪いのだけど。


「そうやって毎日毎日……、待つ方の気持ちも考えてよ。

 付き合うまで時間がかかったから、想像はしてたけどさ……――で? 今度の条件はなに?」


「……結婚するなら、若菜が働かなくても大丈夫なくらい、おれが一人で稼げるようにならないといけない……。二人で稼ぐことを前提にしていたら、片方が倒れた時、片方にしわ寄せがいく――若菜に大変な思いをさせたくないんだ!」


 若菜が倒れた時、おれが若菜の分まで働くのは構わないけど……逆はダメだ。

 おれが倒れた時、若菜が倍も働くなんてことは……。


 たとえば片足が使えなくなった時、もう片足が頑張って動くことになるけど――それは過剰な負担が片方へかかることになり……、


 片方を庇った結果、両方が故障するということは珍しいことでもない。


 おれの分まで働いた若菜が倒れてしまうのは、最悪の結果だ。

 だから、おれが倒れても、若菜が働かなくても生活できるようなシステムを、今の内に作っておかなければならない――それで最低限、だ。


「……心配してくれるのは嬉しいけど……、別にいいのに。大変な思いをするなんて、結婚するなら前提として考えてるわよ。楽に生活できるなんて一ミリも思ってないって」


「それでも」


 ベッドに手をつき、立ち上がる。


 楽な生活をさせるのが、おれの役目だろう?


「若菜を幸せにしたい。これはおれのわがままなんだ……――『絶対』に後悔させない結果を残すためには、今のおれには力が足りない……、稼ぎも人脈も魅力もなにもかも!

 だから結婚はまだ待ってくれ……っ、万全な状態に、すぐ整えるから!」


「……それ、いつになるの?」


 若菜は肩をすくめて、呆れた表情だ。


 ……いつになる? 分からないけど……数年じゃあ、無理だろう。


 長いこと待たせてしまうことになる。


「『完璧』を求め出したらいつまでも突き詰めるでしょ? あなたの場合、こだわってこだわって……――、もしかして、結婚を『報酬』だと思ってる?

 万全を作ったから『結婚』して、『綺麗な奥さん』を貰って……、それは違うわよ? 結婚はゴールじゃない、スタートなんだから。

 結婚していない状態の視点で見えたもので完璧を作り出したとしても、結婚した後に見えた世界は、あなたにとっては未知の世界よ。

 その時点で『あなたが整えた完璧』は崩れるんだから……また一からやり直しじゃない?」


 う、と痛いところを突かれた。


 というより、気づかされた。なにも言い返せなかった。


 確かに、今を万全にしても、結婚後は、万全じゃない。また一から組み立てるのか? その間、若菜は待ってくれるのか……? いやでも、結婚生活はもう始まってるよな……?


 待たせるにしても……、なにを待ってもらえばいいんだ?


「だからほら、ここでもたもたしてたら、時間が足りないわ。早く結婚しましょう。

 結婚してから考えればいいじゃない。結婚するまで待たされるなら、結婚してから放っておかれる方がまだマシだわ」


「ちょっ、放っておくなんて……、そんなことするわけないだろ……っ!」


「結婚していないだけで、今は付き合ってる状態なんだけど……、わたし、散々っ、放っておかれてるけど?」


 そんなこと――、は、ない、とは……言い切れないか……。


 デートは? いってない。

 誕生日プレゼントは? あげてない。

 思えば、恋人らしいことをしていなかった。


 いくら忙しいとは言っても――、見逃してはいけないイベントばかりだ。


「……あ」


「あ、ってなに!? 放っておいた自覚すらないわけ!?」


 彼女が柔らかい枕を投げてくる。

 当たっても痛くはないけど、心が痛い……。


 それは自分で自分に投げる、『最低』というレッテルである。


 不満を漏らす彼女は、近年あまり見なかった怒りの形相だった……。

 結婚したいと言いながらも、結婚が立ち消えそうな喧嘩に発展しそうだ。


「――ごめんっ、もう心配させないから! ちゃんと若菜のことも、今後のことも考えて――……とにかく結婚はまだ待ってくれ! おれが納得する『自信』をつけるまでは……っ」


「…………そう長くは待てないからね?」


 ぷしゅう、と怒りがしぼんだ若菜が、拾った枕をぽんぽんと撫でて、元に戻した。


 二人で並んで眠るための枕だ……、その枕を綺麗に整えている。


 一緒に寝てくれるくらいには、怒りは収まったみたいだった。


「ち、ちなみに、期限は……?」

「ふふふ」

「え、なにその笑い」


「わたしがあなたに、愛想をつかすまでね」


 それ、期限なんてないようなものじゃないか……!




「――明日は結婚してくれる?」


「も、もうちょっとだけ待ってて……また、明日になってから――」


「もう慣れたものだけどさ……待たせ過ぎじゃない?」


 顔のしわが増えた。

 病気も多くなった。


 体力も落ちて、記憶力も衰えている。

 結婚をしたかった、あの勢いと若さは、もうとうの昔に越えていた。


 ……お互いに。

 年を取ったものだった。


「……どうして、おれに愛想をつかさないんだ?

 だって……待たせ続けて、結局おれたち、熟年夫婦みたいになってるけど……」


 重ねた年は多いものだ。

 還暦も、もうそろそろだった。


「事実婚みたいだし、あらためて結婚しなくてもいいかなって思ったのよねえ」

「……どうして、愛想をつかさないんだよ」


 二度目の質問だ。

 若菜はわざと答えなかった……わけではないようだ。


 彼女の頭の中から、すっぽ抜けていたみたいだ。


「……? ああ、なんで愛想をつかさないのかって? ――ないない。最初からそんなこと頭になかったもの。わたしが惚れてるんだから、いつまでも待つつもりだったの――。

 あれはあなたを急かすための方便よ。まあ結果、急かしてもあなたは急がなかったけど」


「ごめん……」


 急がなかったわけじゃないんだけど……。


「怒ってないわよ。だって、サボっていたわけじゃないもの。あなたはずっと頑張っていた。近くでその努力を見ていたんだから……――ただ結果が出なかっただけ。

 それを咎めるほど、わたしは器が小さい女じゃないの」


 若菜が、くす、と微笑んだ。

 その大きな器に、甘えていた部分もある。


「逆に、あなたがわたしに、愛想をつかすんじゃないかって思ってたけど……それもなかったわね。わたしが愛想をつかさなければ、あなたはわたしに愛想をつかすこともないわけで――、だからどうしたって、わたしたちは別れることがなかったわけよ」



「別れることがなかったけど、結婚することもなかったけどね」


「おい、待たせたあんたが言うなよ?」




 ―― 完 ――

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プラス・エッセンス(短編集その8) 渡貫とゐち @josho

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