クロノステイサー

及川盛男

第一話 終わりの始まり、あるいは始まりの終わり

 この世の全ては永遠ではなく、いつか終わりを迎える。その事実を、人間ははどう捉え位置づけているのだろうか。


 人生で幸福、成功、情愛といったものを謳歌するとき、人はそれがずっと続けば良いのに、と願う。その文法は反実仮想だ。そう思いつつも、そうはならないことを知っている。


 それらのイベントを包含する人生そのものもまた、たかだか一世紀程度で終わりを迎える。従って二十二世紀にドラえもんが誕生するかどうかを、二十世紀末に生まれた人々の殆どは知ることができない。そしてその人々が作った関係性のシステム――家族、法人、国家と言ったもの――はもう少し長い期間を生きるが、歴史を見ても数千年に渡り継続した例は一つもないし、一万年後に日本国やトヨタやGoogleが現在の形で存続しているとは誰も思うまい。むしろそのスパンでは、個体レベルではあっさり滅び去った肉体的な要素の方が形を変えて存続し続けるだろう。異なる民族、社会となっているかもしれないが、一万年後ならまだ我々の子孫は我々のDNAを受け継ぎ繁栄しているかもしれない。だが、五十万年では? 一千万年ではどうだろう。


 その問いの答えがどうなるかに関わらず、五十億年経てば太陽が膨張し、地球がその核融合の炎の海の中に飲み込まれるであろうことが現代宇宙論において予見されている。そうなれば地球という世界は、論争の余地もなく終わりを迎える。では宇宙に何かの痕跡を残せるだろうか? しかしその宇宙もまた、いくつかの可能性に分岐することはあれども、その何れにおいても救いのない終焉に至ることが知られている。


 


 全てに終わりがあると、帰納的であれ演繹的であれ何らかの形で人が知るのは、思春期から成人するにかけての頃だろう。思春期にそれを知ればニヒリズムに被れるだろうし、成人したころにはその事実に対する諦めや柔軟な忘却を駆使することで、解決せずにそれを視野から外す術を得る。その頃には、人間の処理能力の範囲の中では、その問題を処理することは質的にも量的にも不可能であり、対応するだけ無駄であるということを知ってしまっているのだ。


 この世の全ては永遠ではなく、いつか終わりを迎える。人はそのことを、無意識の中で受け止めている。なぜなら、どうしようもないからだ。それを止める手立てなど無い。考えるだけ無駄なのだ。


 そしてだからこそ、それを認めなかった人間――織戸シオンは特別な存在となり得たのだった。



二〇二六年九月二八日 二十二時三十四分一秒



「やっぱりここに居たか」

 青崎家と織戸家から歩いて二、三分のところにある公園。ブランコに腰掛けてるシオンを見つけて、涼は胸を撫で降ろした。


 制服姿でキコキコと揺れるシオンの横に立つ。その横顔は黒く長い髪と夜闇に隠され、表情は伺えない。ただ色素の薄いその肌も手伝って、彼女の均整の取れた輪郭が月のように光って見え、涼は息を飲んだ。このような日のこのような時に抱くのには相応しくない感情だと当人も分かっていたが、それでも、綺麗だった。それは個人の感性の贔屓目などではなく、きっと数学の授業で習った黄金比や白銀比のような、普遍的な美に違いないと涼は思った。


「……ごめんね。何も言わずに出てっちゃって」

「いいや……誰が責めるもんか」


 涼は重々しく言った。ともすれば涼だってその場、つまり織戸家の祖母の葬儀に立ち会い続けるのは、とても辛かった。織戸の家の祖母はいつも元気溌剌で、涼にとってももう一人のおばあちゃんみたいだった。増してや、彼女の姉以外の最後の肉親を失ってしまった彼女の心は、推し量るだけでも苦しくなる。


「本当に?」


 しかしシオンは顔を上げた。ようやく分かったシオンの表情は――苦笑いだった。その白い首元には紫色のチョーカーが巻かれている。いつかの誕生日にプレゼントしたものだ。

「なんで涙の一つも流さないんだ、とか、親が死んでも泣かないんじゃないか、とか言われてなかった?」

 絶句する涼。シオンは「ふふっ」と悲し気に微笑んだ。

「やっぱり言ってたんだ」

「……あんな連中、気にするなよ。こんな日にまで陰口ばっかの奴らなんて」


 シオンは昔から良くも悪くも目立った。幼い頃から神童扱いを受け、尊敬も嫉妬も奇異の視線も全てその小柄な一身に背負ってきた。彼女にとっては陰口は今更のことに過ぎないのであろうが、それでも涼の心は穏やかではなかった。

 織戸の一族は代々学者肌で、その多くが国内の名門大学の教授や有名企業の研究者として高い地位と名声を得ていた。だがそのような中でシオンはある切っ掛けから、若干十六歳にしてマサチューセッツ工科大学の特任教授として招聘された。

 そしてそれを固辞した。

 学閥的なヒエラルキーに胡座をかいていた彼ら親類は、その権勢を脅かすばかりか、冷水を浴びせてきた鼻持ちならない存在としてシオンを敵視していた。幼くして既に両親を亡くしている少女に対して、一体どうしてそこまで冷徹になれるのだろうかと、涼は昔から怒りしかなかった。


「いいの。涙が出ないってのは、本当だから」

 シオンの隣のブランコに座ろうとした涼は、その言葉に固まった。シオンは再び俯いていて、その表情はよく見えなかった。

 だが涼は、それでも彼女の横に腰を下ろした。今ここに居ない双子の姉は、そういった陰口を言い放った大人たちに果敢に挑みに行った。その間、彼女の妹をよろしく頼むよう涼は申しつかっていたのだった。

「でも、悲しんでいるだろ。俺も、アカネも、一緒だ」

「うん。悲しい。胸が張り裂けそうなほど、脳みそがめくれちゃいそうなほど、体がばらばらになってしまいそうなほど、悲しくて、辛い。……けど、それはずっと」

「ずっと、か」


 夜目に慣れてきて、ようやくシオンの表情が読み取れるようになっていく。そうして涼の目に映ったそれは、周囲からの視線をものともせず勉強に邁進するシオンとも、そして涼とアカネと三人で過ごすときの朗らかなシオンとも違う、沈痛な横顔だった。


 涼は、この一年ほどのシオンが歩んできた道程を振り返る。彼女の祖母が難病による余命宣告を受けて以来、シオンは治療方法の確立に全力を投じた。そして目覚ましい成果を上げた。彼女は、病気により破壊されていく神経細胞や遺伝子情報を修復し回復する医薬品の開発に成功したのだ。その発明こそが織戸シオンの名を世界に轟かせ、米国の大学からの特別待遇を引き出した。異例のスピードで緊急承認されたその薬剤を投与され、彼女の祖母の難病は奇跡的な治癒を起こした。

 ――だからシオンが見送った祖母の最期の顔は、病気による苦悶ではなく、衰えによる安らかなものであった。

 この一年間、彼女に向かう人々の視線は熱を増す一方だった。しかし涼が見る彼女はそれに反比例するようにどんどん冷たく、暗く沈んでいった。

「……技術のこととか、医学のこととかは難しくて分かんないけどさ。けれど、お祖母ちゃんを助けるためのお前の努力は、きっとこの先多くの人たちを救うことに繋がると思うぞ」

 シオンは、「そうだね」と言った。俯いたまま。

「けれどさ。虚しくもあるんだ。だって、例えひとつの病気を治しても、おばあちゃんが死んでしまうことは変えられなかった。じゃあ、わたしが頑張ったことって、なんなんだろう、って。……分かってる。あの病気、普通最後は凄く辛くて、苦しくて、怖いって聞くから。それを治せるようになったのは、凄く良いことだって。――けど、死んでしまうことそれ自体だって、辛くて、苦しくて、怖いでしょ。じゃあ、そこから救うことが出来なかったのなら、結局一緒じゃないか、って」

「……死から救う、って……?」


 涼は一瞬、シオンの言っていることが理解できなかった。


「それこそ、お前のせいなんてことは無いだろ。だって……人は、死ぬだろ」

 涼自身、そう言いながらどこか底冷えするような気持ちになった。人は死ぬ。それはなぜだかいつの間にか常識として知っていたことで、だというのにこれまでどこか意識の外にある事象だった。

 涼の困惑をよそに、シオンの思いの丈は止まらなかった。


「私はずっと悲しかった。おばあちゃんがいつか死んでしまうことを知ってたから。それが今日か、明日か、明後日か、一年後かわからない。けど、絶対にお別れのときが来るって知ってた。それに初めて気づいたその瞬間から、私はそれを一時も忘れることができなかった。毎日怖くて仕方なかった。……それは、おばあちゃんについてだけじゃない」


 ぎい、とブランコの鎖がきしむ。


「お父さんもお母さんも、お姉ちゃんも、涼くんも、そしてわたしも。そのことに気付いた瞬間から、わたしはずっと怖かった」

 シオンと目が合う涼。

「……ずっとって、いつから」

「お父さんとお母さんがまだ元気だったころだから、幼稚園に上がる前だと思う」

「……」

「だからね。わたしはその頃から、どうやったら死を克服できるか、ずっと考えてたの。創った薬も、その思索と研究の成果のひとつでしかない」

「……凄いな、お前はやっぱり」

「凄くないよ。わたしがやんなくても遅かれ……20年とか30年あれば、きっとあの薬は創られてた。コロンブスがいなくてもいつか誰かがアメリカを見つけてた、それと一緒。いつかは来る歴史を、ちょっとだけ早めることができる。わたしに出来るのはその程度なんだよ」

「それでも……、最初に相対性理論を作ったアインシュタインが凄くないなんてことにはならないだろ。不老不死の方法を編み出すなんて、下手したらそれ以上の発見なんじゃないか」

涼なりの精一杯の知識を動員した励ましだったが、シオンは首を横に振る。

「ううん。結論は正反対。……研究を続けて、分かったことがあるの」

 シオンは空を仰ぎ、瞼を何度か瞬かせた。

「個体として死に至る要因を取り除くのは簡単だってこと。老化も、病気も、怪我も、全部どうにでも出来る。あと数年と必要な資源があれば、個体死は克服できる」


 涼は今度こそ、シオンの言葉を理解し損ねた。

「……それって、どういうことだ?」

「不老不死になれるってこと」


 彼女のその声色は、少なくともシオン自身はその言葉を真剣に述べていることを示していた。それを聞いたのが別の人物、例えば姉の織戸アカネなどであれば、彼女の言葉を一蹴しただろう。しかし涼は素直に、シオンの言葉を信じた。シオンがこういった分野で嘘をつくことなどないと信じていた。

「それって、凄い事だよな! だって、お前それこそ、ノーベル賞ものなんじゃないか?」

「そうだろうね。だって、人類の長年の夢の一つだもん。この世の全てを手に入れた中華帝国の皇帝やアメリカの大富豪ですら手にすることが叶わなかったものが、誰でも実現できるようになる」

「やっぱり!」

 そうしてしばらく無邪気に喜んだ涼だったが、「あ」と漏らして静かになる。

「……だから、悔しかったのか? あと数年あれば、おばあちゃんのに間に合ったのに、って……」

 その言葉にシオンは、力無く微笑みながらも首を横に振った。

「違うよ涼くん、違うの」

 ブランコの鎖がぎゅっと握られ、軋む。

「肉体が不老不死になることなんて、意味がないの。だってそれだけじゃ永遠に生きることはできない」

「どうしてだ?」

「資源に限りがあるから。私たちは食べ物を食べて、水を飲んで、酸素を吸わなきゃ生きてけない。それはつまり、地球上の限りある資源を消費していくこと。資源には限りがある。身体が不老不死でも、資源がなくなれば飢えて死ぬ」

「……それなら、外に取りに行けばいい。月とか、火星とか」

「いいね涼くん。それ自分で思いついたの?」

「なんでもそうだろ。足りなかったら外から融通して貰えばいい」

 シオンは優しく微笑んだ。

「流石だね……でもそれじゃダメ。太陽もいずれ爆発して、地球ごと吹っ飛んで消えちゃう」

「それじゃあ、別の銀河に」

「宇宙も丸ごと、死んじゃうの」

「宇宙が死ぬ?」

 そんなこと、考えたこともない。涼は愕然とした。だって宇宙なんて、そこにあるだけのものじゃないか。それが終わる? それがなんなのかすらまともに想像できていないのに、終わることなんて想像ができるだろうか?

「学校も、この街も、この国も。そしてこの星やこの宇宙でさえ、いつか必ず終わりとお別れが来る。私はそれを、一時も忘れることが出来ないの。だから、ずっと悲しい」


 その言葉は、一般には誇張や修辞の表現として受け止めるべきものだった。だが涼には彼女のそれがとてもそのような類のとは考えられなかった。織戸シオンという人間が時折見せる、宇宙がすっぽり入ってしまうのではないかと思うほどの深い瞳。それを思うと、彼女のそれは文字通りの真実なのではないかと感じられた。

彼女は常に、世界が終わってしまうことに対して深い悲しみを抱き続けている。

 その深遠な瞳が宇宙に投げかけられる。

「宇宙が終わるのは何億年後、何兆年後、十の何乗の何乗の何乗年後、なんて風に言われる。だから私達には関係ないって、そういうものを解説する本にはよく書いてある。けどそれはなんの慰めにもならなかった。私達は、そして宇宙は、なんで終わらなきゃいけないんだろう?」

 宇宙終焉のシナリオ。シオンはそれを涼に説明した。熱的死、ビッグフリーズ、ビッグリップ、真空崩壊。それらが宇宙に不可避にもたらす命運は、涼の想像と理解の限界を超えつつも、しかしその心を揺さぶった。


 涼はしばらく押し黙った。とても答えの見つけようのない問だった。今すぐにでも彼女に明朗な解を提供して、その苦しみから救ってあげたいと考えた。だがそれが叶わないことを知っていた。


せめて涼が出来ることは、シオンの側に寄り添ってあげることだけだった。彼はスマートフォンを取り出し、少し操作した、そして、

「……なあ」

 その画面をシオンに見せた。シオンはおずおずとそれに目をやり、そして、

「――わあ」

 と声を上げた。

 それは姉妹の誕生パーティの映像だった。そしてそれは三人で遊園地に行ったときの映像であり、三人で海に行ったときの映像だった。三人で寝泊まりしたときの映像であり、三人で旅行に行ったときの映像だった。この公園で遊んでまわった思い出の数々だった。

 めくるめく映像の中で、涼は何も言わなかった。ただひたすらに彼は自分のスマートフォンのフォルダを探し、そして彼女の思いをこの世界に繋ぎ止めるに足るようなものを映して見せた。

 シオンは、それを見つめ続けた。そしてやがて、つうと瞳から涙が溢れていった。シオンの手が、涼の手に触れた。涼は一瞬身体を強張らせたが、その手をゆっくりと握り返した。震えが少しずつ消え、そして温もりが増していくのを涼は感じた。ぽつりぽつりと、思い出を語る言葉が出てくる。一つの画面を一緒に見ようと、段々と二人の間の距離が縮まっていく。あの時の双子はどれだけやんちゃだったかであるとか、涼があんなことを言っていた、であるとか。奔放な二人に振り回される涼、時折突拍子もない事をし始める涼に呆れる二人。

「――こんときの誕生日だったよな、そのチョーカーをプレゼントしたの」

 中学生のころの写真を涼が指すと、シオンは頷いて、深紫のチョーカーをそっと撫でた。

「涼くんとお姉ちゃんが選んでくれた、っていう体にしようとしたやつだよね?」

「恥ずかしいこと思い出させないでくれ」

 当時自らの思春期を制御出来ていなかった涼は、自分が必死になって選んだということを恥ずかしみ、織戸の姉に頼み込んで二人からのプレゼントという体裁を取ろうとした。だがアカネが単独でプレゼントを用意していたことからものの半日でバレてしまい、二重に恥ずかしくなってしまったという、涼の半ばトラウマのような思い出だ。

「全然恥ずかしがることないのに。だって、そうだって知った時の方が嬉しかったんだから」

 そうしてシオンが浮かべた微笑みに涼は魅入られた。

 その笑顔をもっと見たかった。だから涼は、自分の端末のフォルダの参照範囲を広げて、もっと沢山の記録を探そうとして――。


「――えっ?」

「あ」

 涼は慌ててスマホを閉じた。だが遅かった。

「今のなに?」

「今のって?」

「おっぱいの大きな女の人がいっぱい並んだ絵の画像」

 涼は、すうと息を吐いて、

「そんなの、ないけど」

「もう一度見せて」

 この場合、シオンに抵抗するほうがより悲惨な結末を招くことを涼は知っていた。観念した涼はその画像を再び表示した。それはゲームのパッケージアートのサムネイルデータで、ゲームのタイトルも記されていた。

「……これ、なに?」

 その瞬間涼は、宇宙の全てのコンピューターと脳を接続しているかのような素早さで、言い訳を考えた。

「えーっと、ほら、作文の宿題。先週出たやつ。あれのための参考文献」

「テーマは『世界平和はどのように実現できるか』だったと思うんだけどな」

 もはや中途半端な真実を混ぜても通らない。覚悟を決め、涼は完全な出鱈目をでっち上げることにした。

「……もしこの作品のテーマになっている力が本当に実現できるとしたら、世界平和を実現できると思うんだよ。だって、世界中の銃から銃弾を抜いて宇宙に捨てることも、飛んでいる銃弾を掴んで地中に埋めることも出来るわけだろ。この力があれば争いごとは治められる」

 つまり、もしそういった架空の強力な力が存在するとしたら、世界平和は達成できる。そのような力をいくつか取り上げ、その中で最も実現性が高いものはどれかを検討する。そのようなアプローチをとりたいのだと力説したのだ。これはその力の題材として選んだ、SF的な文献である、と。

 シオンはぽかんとしていた。

「……つまり涼くんは、その力があれば世界を救うことが出来る、って?」

「ああそうだとも。こんな偉大な力を、単純にエロいだとかに使うなんてもってのほか。決してそんな考えを楽しんでるわけではなく、単に創作の中でこう言った力がどう表現されているかを勉強するために見ていたってこと」

 やけくそでそう言い切ると、シオンはしばらく推し黙った。

 無限にも思える沈黙に涼は生きた心地がしなかった。やがて、シオンは口を開いた。

「……すごい」

 それはドン引きや呆れなどといった反応ではなく、彼女は目を丸くして驚いていた。頬は紅潮していたが、恥じらいによるものとは異なるようだった。

「涼くん、天才だよそれ。やっぱり涼くんなんだ……握手して」

「どういうこと?」

 何の意味も分からぬまま差し出された手を握り返した。先程のどこか切なくもどかしい手の握り合いとは異なる、まるでファンが有名人にするような熱烈な握手だった。

「時間を、止めれば良いってことだよね? だってそうすれば、終わりが来なくなる!」

「……ごめん、もう少し丁寧に」

「その漫画みたいに、時間を止めてその中で過ごすことができたとしたら、どんな終わりももう訪れなくなるでしょ? だって、時間が進まないんだから! それに、他から融通してもらう……そうだよ。この宇宙がダメなら、他の宇宙を融通してもらえばいいんだ! そうすれば……」

シオンは目をぐるぐるとトリップさせながらぶつぶつと呟いたかと思ったら、そのまま一目散に駆け出して行ってしまった。そして公園の入口でこちらを振り返ると、

「ありがとう! どんなこともあっても、どれだけかかっても、絶対に実現してみせるから。だから、待っててね!」

 そう叫びながらニコリと笑って、そして走り去っていった。

涼は茫然とその後姿を見送り、そしてイラストに描かれた、「時間停止作戦――時間を止めて全てを思いのまま――」というタイトルを睨んだ。


二〇二六年九月二十九日 十時二十一分四十七秒


「バーーーカ」

 シオンは昨晩の事象以来、自分の部屋に閉じこもって出てこないという。一体何があったのかと問いただすアカネに事情を説明したところ、返ってきた罵倒がこれだった。

 アカネは着崩した中学指定のジャージにショートパンツという極めてラフな格好だった。見た目はシオンと瓜二つだったが、シオンと比べると短く切りそろえられている髪が溌剌とした印象を与えてくれて、色々と涼の物思いの種となっていた妹のシオンとは対象的に、気兼ねなく色々と雑に話せる、男友達のような関係だった。

「おばあちゃんのお葬式の晩に、お姉ちゃんを励まそうとして、間違ってエロ画像見せちゃった? バカすぎてなんかもう罵倒の言葉も出てこないんだけど」

「お前、そんな情緒もへったくれもないような言い方……情けはないのか」

 涼だって落ち込んでいた。あんなどうしようもなく悲しい日に自分はなんて愚かでデリカシーに欠けることをしでかしてしまったのだろうと。

「まあでも、この際それは事故として許す。あんたなりの優しさを見せようとした結果だろうし……けど、そのアフタフォローがあたし的には最悪。時間停止をSFの題材に? そんな言い訳、通用するわけないじゃん」

 なんて精神的なタフネスだろう。涼は内心で驚嘆していた。彼女だって辛い立場だというのに、それを感じさせないばかりか、負い目を感じている涼を励ますような軽口まで飛ばしてくれるのだ。

 せめて、涼もいつも通りの気勢を保とうと、

「……なんでだよ。ドラえもんはSFだってこの前熱弁してたじゃないか。タンマウォッチとかあるだろ」

 アカネの背にある本棚に、SF小説や漫画の背表紙の数々が並ぶのが視界に入る。彼女はそれなりにSFが好きだった。SFファンと呼ぶと「そんな域にはない」と怒るが。

「広義ではね。でも狭義のSFで、時間停止をあんたが楽しんでいたような形で扱うのは無理筋。リアリティが無さすぎ」

 涼はしばらく腕組みをして考えて、

「……やっぱり、なんでだよ。タイムトラベルなんか物理的に不可能なんだぞ。それに比べたら理論的に認められてる分、時間停止の方がまともな題材じゃないの」

「そういうのは、一つ嘘つけば済むから。だけど時間停止は、嘘をつかなきゃいけない要素があまりにも多すぎるってこと」

 アカネはため息を吐きながら、

「例えば、周りの時間が動いていて、自分だけ動くなんてこと、どうやって理論的に説明できんの?」

「ええと、そりゃ」

 また涼は言葉に詰まった。言われてみれば考えたことが無かった。涼が今まで触れてきた創作物では全て当たり前のように時間を停止して、その中で主人公やら登場人物が動き回っていた。ストーリーの主題は「その力をどう使うか」ばかりで、「どうしてそうなるか」なんて、殆ど説明されない。だが、まったく説明がゼロということでもなかったようにも思えた。


「……例えば、主人公だけ超高速で動ける、とか。そしたら周囲が遅すぎて、止まって見える、みたいな」

「まず時間止まってないし、それ。それに、早く動けば動くほど周囲に与える二次被害は大きくなる。衝撃波が出るから。ある程度の速度を超えるっていうなら必要なエネルギーも問題になる。大量の燃料を燃やしてようやくマッハ三十に到達するくらい。この程度で、時間が止まってるって言えるほどのことが出来る? 速度が高速に近づけば相対性理論の効果で確かに時間の流れは変化するけど、その効果は真逆で、周囲の時間が早く流れることになるし」

「……ブラックホールの周りだと時間が止まる、って話なかったっけ」

「じゃあブラックホールをここに落としてあげよっか? あれも相対性理論の効果で、周囲の時間が早く流れるって話だし。この世の全ての物体をすべて光速で動かすか、あるいはブラックホールに落とすかしないと相対性理論の世界では時間停止できないってこと」


 この段階で既に涼は戦意喪失気味だったが、アカネはまだ言葉をつづける。

「自分以外の物体全ての時間が止まってるとして、じゃあ主人公の周りの空気は? あたしがこうやって腕を動かせるのは、私が筋肉で動かしてるからってだけじゃない。それに合わせてあたしの腕の周りの空気も動いてくれているから。もしあたし以外の全ての物質の動きが止まったとしたら、完全に固定された空気の分子に阻まれて、あたしは瞬き一つできなくなる。空気の分子側が動くんだとしたら、それにぶつかって周囲の空気も玉突き式に動いていくってこと? それとも空気が動いていないっていうなら、腕や足は空気の分子に貫かれてズタズタになるってことになる。あんたがやってそうなエロゲーとかエロ漫画の類だと、周りの人間にほいほい干渉できるけどさ、服を動かしたり間接を動かしたり、あれだって時間が停止しているなら土台不可能」

 ふん、と腕組みしながら、

「こんだけの事象について全部無視するか嘘つくかしなきゃいけないわけだけど、それだけ嘘が多いと、それはもうファンタジー。よってあんたのやってたくだらないエロゲーをSF作品として正当化するのは不可能」

「……じゃあ、ファンタジー作品としてなら正当化可能?」

「ファンタジーって響きであんたが望むような言葉の浄化作用が得られると思うんなら、お好きにどうぞ」

「……どうやら無理らしい」

 いよいよ涼は観念した。明日、素直に自らの無作法を詫びようと考えた。適度に言い訳も添えつつ。




 だが、それは叶わなかった。




 翌朝、どんな言い訳をしようかという答えが出ないまま朝起きた涼は、歯を磨いて、家を出て、隣の家の前に居る人影がいつもの半分しかいないのを見て一瞬ホッとした。

「シオンは?」

 うつむいている双子の姉は、言葉を返さなかった。近づいて、彼女の目にうっすらと涙が浮かんでいるのが見えた。そしてアカネは重々しく、彼女自身も混乱した様子で言った。

 

 シオンは、アメリカの大学に留学する事になった、そして今はもうアメリカ行きの飛行機の中だ、と。


 いったい何か彼女をそうさせたのか。そう考え始めた途端、昨日の自分の行いがもしかしたら、という思いに涼はかられ始め、そしてその場で膝から崩れ落ちた。


 自分のどうしようもない手誤りのせいで、こんな別れを招いてしまったのだろうか。いや、もはや理由なんてどうでもいい。たが、それでも「なぜ」と問う気持ちは次から次へと湧いてきた。ぐるぐると巡る気持ちに、胃の中がかき乱される。




 以来十年間、涼は織戸シオンと連絡が取れていない。

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