第十八話 始まりの場所、あるいは終わりの場所

「ここに居たのか」

 青崎家と織戸家から歩いて二、三分のところにある公園。そのブランコに腰掛けてるシオンを見つけて、涼は胸を撫で下ろした。

「……ごめんね。何も言わずに出てっちゃって」

「気にすんな」

 涼の口からその言葉は極めて自然にするりと出てきた。

「お姉ちゃんは?」

「事務所で留守番。お前を探してきてこいと仰せつかった」

 涼はシオンの横に座った。鎖は柳のように震えたが、しかし音は一つも鳴らなかった。

「……遅かれ早かれ、だったと思う」

 シオンはぽつりとそうこぼした。

「宇宙人や並行世界の連想から、虚数空間に生きる先住生命や、虚数世界に対する並行世界について人々が気づくこと。そしてそれについての理論的な考証を深め、その存在に気づく……きっと向こうから来ずとも、こっちが探しに行くようなことだって考えられる」

「……それに前もって気づけたのは、よかったことだと思うか?」

 二人の視線が交差する。シオンの暗く深い瞳に吸い込まれそうな錯覚を涼は覚えた。

 やがてシオンはふふっと笑った。笑って、

「口で今、よかったことだって言おうとしたけど。涼くんにまさに期待してたことをやってもらったはずなんだけど。でも、なあ」

 シオンは唇を噛んで、

「……見つからなければよかったのに、っていう考えが過ぎって、止まらないんだ」

 シオン自身もそれが理性的な結論ではないということを、十分に理解しているはずだった。気づくか気づかないかに関わらず、他の虚数生命との接近遭遇の可能性を虚数世界は常に有し続けている。あとはいつそれが訪れるか、というだけの問題だった。

 だが、もし涼のこの指摘がなければ。少なくとも全人類に対するクロノステイサーの使用は恙なく実行され、そしてそれは極めて高い確率で、長期にわたってなんの支障も人類に対して与えないだろう。それこそ、永遠に等しいような期間に渡ってである。

 涼の問いかけは、ここでこのように換言可能となった。

『仮初の永遠を取るか、それとも真の永遠を求めるか』

 虚数世界の中で腰を据えて考えようとしていた問題に、今真っ向から向かい合う必要を、シオンは求められているのだ。その助けになるのかどうか分からないが、涼はせめて、自分が今思いついたアイデアを伝えた。

「一つだけ、確実に他の虚数生命との可能性を完全に排除できる可能性がある。それは、一度通過した世界を再びなぞり続けるという選択肢」

「それはつまり……虚数世界をループさせるってこと?」

 涼は頷いた。

「その一定期間中に交差する実数世界は、虚数世界と交流することはないことが保証されるわけだ。その内部であれば、ずっと同じ世界を繰り返すことができる」

 シオンは静かに黙り込んだ。だがやがて、首を横に振った。

「それは、私が望む世界じゃない。私は涼くんと過ごした昨日も、今日も好きだけど、涼くんと迎える明日も好きなの。それが永遠に失われる選択肢は、私にとって許容できるものじゃない」

 二人は、空を見つめた。あの日の夜空と異なり、青く透き通るような青空だ。だがそれは、そこにまだ太陽から八分半前に送られた可視光線が漂っているからこそ見ることができる光景だった。あと少しすれば、それらの光線はそれが存在する空間や光源もろとも真空崩壊の波に飲み込まれ、何もない無になる。だがこの地球に住まう人々が無に染まった空を見ることはない。網膜に飛び込む光線が途切れるのと、彼の網膜自体が真空崩壊に飲み込まれるのは全く同時だからだ。

「シオン」

 涼は、シオンの手を握った。

「考えよう。もっと時間を使うんだ」

「ダメだよ」

 シオンは被りを振った。髪が揺れ、その合間から首元のチョーカーが覗いた。

「私たちは限られた実数時間内で、限られた試行回数内で、危険のない虚数世界に到達せねばいけない。けどその時間は、あまりにも少ない、少なすぎる」

「限りがあるなら、伸ばせばいい」

 涼は立ち上がった。

「一つ目の課題で上がった手法を使おうじゃないか。地球を、太陽系を、丸ごとここから移動させればいい。何光年でも何億光年でも動かしてみせる」

「それは……それには、さっき指摘できなかったリスクがある」

「……どういうことだ?」

「宇宙の任意の空間が本当に安全かどうか、確かめられない。例えば太陽系は、銀河系の重力の支配下にある。あまり意識しないことだけど、そうだからこそ銀河系の回転運動の遠心力で吹き飛ばされずに済んでる。じゃあそれがなくなった場合、どんな影響が地球に及ぶか? 今の銀河系における角運動量がそのまま直線速度に変換されて、著しい速度で宇宙を進み始めてしまう。銀河系を動かしても、今度はダークマターやダークエネルギーの分布がこの場所とは異なってしまい、その影響が計り知れない。それに何より。動かした側から、そこに真空崩壊の泡ができるかもしれない。この宇宙が偽の真空の状態である限り、世界は常に真空崩壊の可能性と隣り合わせにあり続ける」

「……そうか」

 涼は空を仰いだ。

「俺たちは、時間を止めて、惑星や恒星系すらも自由に操れるようになった。だっていうのに、この世界の性質を決める、ただ一つの数値すら動かすことができない」

「それは、宇宙そのものと紐づいている」

 ここには、まだ全てがある。そのはずなのに今涼が感じているのは、果てしない無力感だった。たった一つの操作。この宇宙を構成する数式の最低エネルギーと、実際の宇宙の最低エネルギーとが同値になりさえすれば、この世界こそが真の真空状態であるということになり、真空崩壊の可能性は回避される。シオンが描いてみせたE=f(φ)のグラフを思い出す。双子の底。今我々がいるその底が、もう一つの底よりも低くなるか少なくとも同じになりさえすれば良いのだ。

その関数の形を変えるなど、容易い操作に見える。だがそうではなかった――。

「……あ?」

 引っ掛かり。それはこれまでと比べても尚本当にごく僅かな、こんな極限状況においては思わず無視してしまいたくなるような程度の違和感だった。

 だがこれまで何度もそうしてきたように、涼はそれに必死に手を伸ばした。なんだ。俺は今一瞬、何を考えた。

 引っ掛かりの正体はグラフという言葉だった。それは、他の場面でも出てきた。E=f(φ)と同じタイミングだった。クロノステイサーの仕組みを説明する文脈においてであった。

 同じ実数時間時点を走査する。

 その瞬間、自分の脳裏に浮かんだアイデアの荒唐無稽さに、涼は思わず吹き出してしまった。これまでだって十二分に荒唐無稽だったはずだが、それらを積み重ねた上に得られたそのアイデアは、おおよそ常軌を逸していた。

「涼くん……?」

 不安げな面持ちのシオン。だが、涼が微笑んでいた。

「俺たちは、宇宙に紐づいた法則を変えることはできない」

「……うん」

「だが、宇宙の全てを動かすことはできる。なら簡単だ」

「え?」

「――この宇宙の全てを、俺たちが欲する法則と紐づいた宇宙まで動かしてしまえばいい」

 絶句。愕然。呆然。涼がそシオンの顔を見たのは、そしてシオンがその表情を浮かべたのは、まさに十年前、この場所での出来事以来のことだった。

「えっと、それは」

「この宇宙の全てを、俺たちの手で押して動かす。動かして、その宇宙における真の真空が、俺たちの真空状態よりも高くなっているような宇宙を見つける……いや、折角なら全く同じものを見つけるべきだ。もし真空に差異があればそれは速やかに、どちらかの宇宙の真空崩壊を招いてしまう。だから、全く同じものを探す。これならどうだ?」

 その時シオンは涼の瞳の中に一つの信念を見た。それは普遍的な原理が、宇宙の全てを貫いているに違いないという篤い確信だ。

「……飛行機や小石どころじゃない。地球や、太陽を動かすなんて話ですら、一体どれほどの作業になるか分からなかった。それを、宇宙そのものを動かす?」

「ああ」

「想像を絶するなんてものじゃないよ」

「でも、不可能じゃない。成功する確率が限りなく低くても、無限の試行回数が実施されればそれは事象を起こす。俺たちが散々苦しめられてきた現実だ。だけどそれは、俺たちが何かやるにしても同じことだ。宇宙そのものを動かせば、相対的な速度や慣性なんてものは気にしなくていい。その分むしろ楽かもしれないしな」

 シオンの目の焦点が、段々と定まっていく。その瞳の色が散乱し混濁とした暗闇から、秩序を持った夜空のような色に戻った。

「やろう、シオン。アカネのことを驚かせてやろう」

 見つめ合う二人。シオンは何かを言いかけて、止まって、また口を開いて、閉じて、それを繰り返した。それでも互いの瞳を、二人は見つめ続けた。

 シオンはそっと、チョーカーに手を添えた。それを見て咄嗟に涼は自分の手を、彼女のその手に重ねていた。シオンの目が見開かれ、そして中に宿る光が揺れるのを涼は見た。

そして長い沈黙の末ついにシオンは、こくり、と頷いた。


 それは、一切のカタルシスを挟まない地道な作業だった。大学の校舎を推すよりも、ドローンを階段のように並べるよりも、飛行機を押すよりも、人体をアニメのように動かすよりも、ミサイルを太陽に投げ捨てるよりも。

 彼らは宇宙をアニメーティングした。宇宙の諸法則の代わりに、あるいは神の代わりに。

 クロノステイサーをわずかに動かした今、この虚数世界には二人きりだった。シオンと涼はそこで二人きりで、無限にも思える時間を、一つの共同作業のために過ごした。


そして二人は彼らの宇宙を、目的の場所へ向かってひたすら運んでいった。




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