第十九話 双子、あるいは真相

二〇三六年六月十五日 十三時三分五秒


 梅雨の曇り空の下、青崎総研の屋上で二つの人影が鏡写しのように相対していた。

 世界は救われた。そのような陳腐な言葉が全てを語っていた。期日を過ぎてもこの世界に真空崩壊の波が押し寄せてくる様子は無い。それは当然で、この宇宙の形は真空崩壊が起き得ない構造になっているからだった。

 予定とされていた時刻に何も起こらなかった瞬間を以って、崩壊論者は完全に擬似科学やカルト教団のような爪弾き者扱いとなった。彼らの刺激的で退廃的な言動を自らの精神的、政治的ないしは経済的な短期利益のために活用してきた社会は一瞬で彼らを切り捨て、それまで支えてくれていたはずの社会からあっという間に裏切られた彼らは空中分解し、一部の狂信的な部類を除いては社会へと戻っていった。二〇三六年は、得体の知れぬ噂に世界が一九九九年以来三十七年ぶりに踊らされた年としてのみ、後世に記憶されていくだろう。

涼は高山本部長と仕事の話をしている。宇宙を救った男という称号は古い宇宙に置き去りにして、今は再び零細コンサルの社長として足で稼ぐ仕事に勤しんでいる。彼の会社は来年巨額の富を得る予定ではあるが、しかし向こう半年間は引き続き自転車操業を続けねばならないことに変わりは無かった。


そのような中で、アカネはシオンを呼び出した。どうしても彼女に質さなければならないことがいくつもあった。大通りからだろうか、軽妙でキラキラしたアニソンのインストが遠く微かに聴こえた。秋葉原の街は日常を取り戻していたが、アカネにとってはまだこの騒ぎは終わっていなかった。

腕を組みながら質問の一つ目をアカネはぶつけた。

「なんで涼の誘い、断ったの」

 真空崩壊の危機が去り、シオンを拘束する事情は無くなった。それを踏まえて涼は、シオンに帰国を持ちかけた。だがシオンはそれを固辞した。

「あの時涼くんに言った通りだよ。わたしにはまだやるべきことがある。ScooLでもそこそこの地位について、いろいろ好き勝手やらせてもらったしね。まだ返しておきたい恩もあるんだ」

 アカネは首を傾げた。揺れ、耳のピアスがきらりと光る。

「まだ何か、やろうとしていること、考えていることがあるんじゃないの。また十年間音信不通になるつもり? その頃にはあたしたちもあのバカも、もうアラフォーに片足突っ込むことになるけれど」

「どうだろうね」

 シオンは答えをはぐらかすつもりのようであった。アカネは次の質問を定めた。

「あたしには、全体を通してずっと疑問だったことがある。それは時間停止能力の獲得について。あんたはこれを、虚数時間や虚数世界の認識様式が付与されることによるものだと説明した。けどそうなると今度は、その様式は一体どうやって作られたか、という疑問が出てくる」

 ちょうど鈴美友の正体について考えていた頃に過った疑問であった。アカネはようやくそれを直接尋ねる段に至った。つまり、彼女のなりの仮説が出来ていた。

「わたしが考えたんだよ。理論的に設計して、シミュレートして。それで一番よさそうなものを実装した。それだけ」

 この事件を経る前であれば、アカネはそれで納得していただろう。いや、真実がどうかはわからない。しかし事実を説明する上で必要な最小限の要素を揃えており、そこに論理的な破綻がない以上、それをそれ以上問う必要などないと考える。

 だが、あんなにも無謀に思考を飛躍させ、オッカムの剃刀で剃りきれないほどの無精髭を生やした論理を展開して世界を救ってみせた男を間近で見て来た今、そのような態度は取れそうにはなかった。アカネもまた、現実の先を見せる想像力の翼に憧れを抱いた人間の一人だった。

「後天的な教育には、もっと簡単で効率的なやり方がある。それは、既にそれを出来る人から、そのやり方を教わること」

 第二言語の学習をシオンは例えに用いていたが、しかしその場合だって、教科書で習うよりも実際に会話などをして相手の使い方を真似ながら覚えるのが最も覚えがいいことを、人々は皆経験的に知っている。

「それができれば一番いいだろうね。それこそ、わたしが二人に教えてあげたみたいに」

「あんたも、誰かに教わったんじゃないの」

 重く湿った風が吹く。だがシオンのその黒い長髪は、まるで快晴の空の下のときと同じように軽やかに揺れた。

実数時間が流れる中でこのような会話をする事自体、とても新鮮に感じられた。

「誰かって?」

「あいつ――涼が虚数生命の存在を指摘したとき、あんたは露骨に驚いていた。けれど本当にあんたみたいな人間が、その可能性に気付かないなんてことがある? だってあんたは、システラによる別宇宙からの侵略行動の可能性を、あんな短編小説から予想してしまうような人間なのに。異なる世界に異なる生命がいる可能性なんて、容易に想像が出来るはず」

 シオンは微笑む。アカネは結論を言った。

「あんたは、虚数生命とすでにコンタクトを取っている――虚数時間の観測の概念は、そいつらから得た。これがあたしの推測」

「それで終わり?」

 アカネは息を飲んだ。シオンの瞳に吸い込まれそうになる。それは合わせ鏡を見たときに感じるような、永遠にそこに囚われてしまうのではないかという恐怖だった。

 だがその錯覚を断ち切るように首を振って、言葉を続けた。

「もう一つ。涼があんたに、宇宙ごと真の真空の宇宙へと運んでいくことを提案した時。あんた、すごく迷いを見せてたんだってね。あのバカは、そんなことが可能かどうかを自問してたんだろう、とか言っていたけど、実際は違うんじゃないの」

「……もう、なんであんなプライベートな瞬間のことまで、お姉ちゃんに話しちゃうのかな」

「あいつのデリカシーのなさは筋金入りだから。一緒に過ごしているとよーくわかる」

 その言葉にシオンの眉がピクリと動く。アカネはそれを一瞥し、話を続けた。

「あんたの目的はあくまで、あんたの思う大切な人と永遠に過ごしたいっていう一点。他の全人類はそのおまけ。涼に対して計画の信憑性をアピールするための道具でしか無かった。だってあんたは全人類が救えるし、涼もそうだと信じていた。

でもあの瞬間、涼はあんたが本当に世界を救う手立てを失ってしまったんじゃないかと心配した。あの虚数世界で、あんたと涼とあたし、三人以外を救うことは出来ないんじゃないかと信じた。そしてそれは、あんたにとってこれ以上ないほど好都合だった。そのまま涼も諦めてくれれば、本来の目的はそのまま達成できるんだから。あんたが悩んでいたのは、隠していた本心に従うか、それとも涼に対して真摯であるか、その二択なんでしょ」

「……それで?」

 シオンは口角を上げたまま、続きを促した。

“それで全てではないことを、もう分かっているんでしょ?”

 言外に込められたその意図を読み取り、アカネは次に口にすることもまた真実なのだろうということを、ゾクリとした感覚と共に確信した。

「……虚数生命の存在を、その危険を承知していたのに知らないフリをしていた。知っていたんだったら、当然その対応策だって考えていたはず。あたしは、あのバカが考えつくことをあんたが思い付かない、なんて信じるほど無邪気じゃない。宇宙を運んで別の法則が支配する宇宙へ移動するなんていうのは、規模こそ大きけれども多元宇宙の利用という意味では寧ろ古典的な方法。あんたが知らなかったとは思えないし、だからその方法の妥当性自体にもあんたは悩まなかった。じゃあ、なぜ隠していたのか? ずっと分からなかったけれど……答えは、ここにあった」

 そう言って、アカネは懐から印刷されたA4の紙を取り出した。シオンはそれを見て目を細めた。

「それは?」

 アカネはその上部に書かれた文言を指差した。


『朝読新聞 二〇三六年五月四日

宇宙の状態「偽の真空」と判明 米研究チーム発表』


 アカネは古い空気を肺から取り出し、そして大きく息を吸ってから、

「例のリークされた記事。これはでっち上げにしては余りにも信憑性に満ちていた。記事の構成、文体、ソースコード、メタデータ、どれを取っても紛れもなく本物の朝読新聞の記事。出どころが不明なことを除いては。でもそもそも、こんな記事を書く必要が一体どこにある? ご丁寧に実際にあった会議の内容をほぼトレーシングして、出席者も同じ。だけど発言の内容は全く異なる。出したところで一瞬で捏造だと見なされるのが普通なはず。作る動機がないの――少なくとも、この世界の朝読新聞にとっては」

 アカネは印刷した紙面を手に言葉を続ける。

「この記事は本物なんでしょ。ただし、別の宇宙において」

 シオンは微笑みを絶やさない。

「……その宇宙では真実が、つまり宇宙が偽の真空にあることが何の工作もなくストレートに報じられた。それは、その宇宙が偽の真空状態であるのは確かだけれども、真空崩壊が起きることはないことが確かめられていたから。量子論的な崩壊のエネルギーでは坂道を登り切ることができず、連鎖反応フェイズへの移行が起きない、そのような関数が支配する宇宙だったから」

 紙面を掲げながら、

「これはその世界の朝読新聞が、その世界の発表内容を基に書いた記事。でも、別世界の記事がどうして、あたしたちの世界に出回ったのか」

 ここまで言っても、未だにシオンは表情を崩さない。アカネは不安になる。だが涼の、あの無鉄砲で無謀な背中を思い出し、決意を再び振り絞ってもう一つの結論を取り出した。

「……それは、『この記事の世界こそが元々の宇宙だった』から。つまりあんたは、涼が思いついたのと逆――真空崩壊が起こり得ない世界から、真空崩壊が起こりうる世界へと、宇宙ごと押して持っていった。そして元の世界で流通していた記事を、この世界にリークした。それによりあんたは、真空崩壊とそれに伴う『ほどほど』の世界の混乱という構図を、意図的に作り出した。あたしたちが、真空崩壊を前にして虚数世界へと移住せざるを得なくなるよう仕向けるために。そして、涼とあんたが永遠に過ごせる状況を実現できるように」

 自分の左腕を握るアカネの右手に力が入る。その長い爪が服や皮膚を突き破るんじゃないかと思うくらいに、強く。

 シオンは一瞬俯いた。

そして再び顔を上げる。その表情にはやはり微笑みを浮かべながら、


「――まさか涼くんじゃなくて、お姉ちゃんがその考えにたどり着くなんてね」


 と、さらりと言った。

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