最終話 終わり、あるいは始まり
それは紛れもなく肯定の言葉だった。シオンは深紫のチョーカーを撫でながら、
「半年前、わたしは虚数生命からコンタクトを受けた。それは時間停止の研究で行き詰まっていたわたしにとって最初、純粋な天啓に思えた。わたしが行っていた数々のアプローチの一つが、偶然彼らにとって有意な行動となって、そこから交流が始まった」
シオンは手すりをなぞる。しゃりしゃり、という金属の擦れる音が響く。
「そして彼らの認識の理論を教わり、虚数世界への扉を開いた。それをAPIに落とし込んだのがクロノステイサー。人類はこれで時間停止の力を得るに至った」
「……無対価で?」
そんなわけがないことを知った上で、それでも僅かな期待を込めてアカネは尋ねた。だが淡い希望は砕かれた。
「まさか。彼らは涼くんが予想していたとおり、実数世界の時間資源の奪取を目指していた。わたしは虚数時間の認知を教わる代わりに、彼らにわたしたちの実数時間の認知についてを教えた」
「……自分が何をやったのか、分かってるの?」
虚数生命。得体のしれない、野心のしれない、未知の存在。シオンはそれらに、この実数時間、ひいては実数世界へのアクセスの権利を与えたのだという。
「分かってるよ。わたしが宇宙を動かした理由の一つでもあるから」
「……どういうこと?」
「お姉ちゃんの危惧通り、連中はのこのことわたしたちの宇宙に侵略行動を開始してきた。そのままいくとそいつらは、わたしたちが享受するはずだった宇宙の寿命を食い尽くしてしまうことになる。でもひとつだけ、宇宙を突然死させる現象があるでしょ?」
「嘘でしょ」
それまでの柔らかなものでは無く、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべるシオン。
「真空崩壊のある宇宙へと移動し、実数世界に侵入する虚数生命は実数宇宙ごと滅失せしめる。それも目的の一つだったってこと」
アカネはいよいよ絶句した。つまりシオンは、焦土作戦を実行しようとしたのだ。侵略してきた虚数生命を、真空崩壊という決して消えぬ炎を放つことによってその実数宇宙ごと燃やし尽くすつもりだったのだ。
時間停止の力を得ながら、虚数生命の侵略を防ぐ。どうやっても釣り合わない天秤を釣り合わせるために、シオンは誰も知らぬ間に一人、宇宙の存亡を対価に載せることを決断し、実行していた。意図的に真空崩壊を起こしたのは、システラではなくシオンだったのだ。
アカネの褐色の頬を、滴がつうっと流れる。それが雨か汗かを確かめる余裕すら彼女には無かった。
ギュッと、左腕を掴む右手の力を更に強くしながら、
「……あの時あんたが見せた動揺は、フリじゃなかったってことか」
「恥ずかしい話だけどね。虚数生命は真空崩壊に飲み込ませ元の宇宙ごと葬って、わたしたちは虚数世界で永続する。その計画が崩れそうになったんだから。……でもそれを考えると、やっぱり涼くんって凄いというか、頭がおかしいと思うよね。だって虚数生命を出し抜くためにわたしが頭捻って編み出した作戦とほぼ同じことを、その場で思い付いて実行しちゃうんだから」
「……じゃあ、あたしたちが存続してるってことは、そいつらも?」
「そこはうまくやったよ。侵入してきた虚数生命だけ、あの宇宙に置いてきた。あいつらも元々、真空崩壊が起き得ない宇宙だと思ってこっちに侵入しようとしていたわけだから、騙すのは簡単だったな。というわけで一旦は虚数生命――少なくとも、わたしとコミュニケーションをした、実数世界へのアクセス方法を知っている連中による侵略の心配はなし。今頃みんな仲良く真空崩壊に飲まれてるよ。……まあでも、これはあくまでおまけ。メインの目的はご指摘の通り。わたしは、涼くんと永遠の時間を過ごしたかった」
虚数生命を騙し、世界を騙し、それらを消滅と崩壊の危機の直前までに追いやった人間。その全ての究極的な動機を、シオンはそう表現した。
「だからクロノステイサーを作った。本当だったら涼くんと一緒に過ごせたはずの青春の十年間を犠牲にして、その先の永遠を取った。空腹の真っ只中でも、もらったリンゴの種を食べずに我慢して、大事に植えて一生懸命育てたってわけ。
わたしは今直ぐにでも涼くんと虚数世界での永遠を共にしたかった。だけど、世界の滅亡の恐怖を話しても、所詮それらは数兆年以上先の未来。それを理由に実数世界を捨てて虚数世界へ移住しようというのは、説得力にどうしても欠けちゃう……だから、真空崩壊が今すぐに起こる必要があった」
その告白にアカネは脚がふらつかないようにするのに必死だった。それを知ってか知らずか、シオンは独白を続けた。
「真空崩壊が間近に迫っている、となれば、涼くんだって虚数世界に帯同してくれる。元の宇宙が真空崩壊の起きない世界だと知ったわたしは、宇宙を押して、真空崩壊が起きやすい宇宙まで持っていった。そして――」
シオンは両手をひらひらと振った。
「――後は御存知の通り、こうなっちゃった」
アカネは唇を噛みしめながら、
「全部が終わったあと、改めてあんたの描いた虚数世界の世界体系の資料を見た。そして、自分がどれだけ冷静な判断能力を失っていたかを思い知らされた。……あんなグロテスクな世界をなんでそんな理想郷のように捉えられるのか、あたしには理解できない」
VisoRで、二人の周囲に資料を展開するアカネ。それを一つ一つ拡大し、読み上げていく。
「永遠に生まれない赤ん坊をお腹に抱えながら生きていく妊婦、爆発の破片で首が切断され潰される真っ只中の女とそれを眼前で見守る恋人、世界との接続の手段を失った盲聾者、楽器を失った音楽家、永遠に物理世界を知る術を失った科学者たち……彼らの生と死、意識と意思が解体され、名状し難い何かへと変質していく世界。あれがあんたの望みだったの?」
「ううん? そんなの全部どうでもいいよ。涼くんさえ居ればね」
シオンはこともなげに言った。その目を見て、彼女の言葉が混じりけ無く真剣であることを、彼女の姉はこれ以上無いほど正確に理解した。理解してしまった。
「……あんたの企ては、一見すると脆くも崩れたように見える。今から涼と一緒に虚数世界で心中しようと頼んでも、虚数生命への警戒を深めたあいつは動こうとしない」
「その通りだね」
「ならなんであんたは、まだそんなに余裕そうなの?」
アカネの問いにシオンは不敵な笑みを浮かべた。
「簡単だよ。もう次の可能性に気づいちゃったから」
再び風が通り抜ける。そのじっとりとした重たい空気を感じただけで、梅雨が明けるのはまだしばらく先であろうことを思い知らされた。
「また涼くんが教えてくれた。わたしなんかより、やっぱり涼くんがいちばん凄いんだと思う」
「あいつが、一体何を示唆したっていうわけ?」
シオンは心底嬉しそうに、うっとりとした目で街並みを眺めた。
「彼は虚数生命との出会いを交通事故になぞらえた。右だけ見ていたわたしたちは、左から来るトラックに気づかなかった、って。それはとても面白い発想に繋がる。わたし達は、虚数時間で右に行くか左に行くかを選ぶことができる。……それなら実数時間における虚数生命だって、同じだと思わない?」
「まさか」
この期に及んで、アカネはまだ自分に驚愕の余地が残されていること、それ自体に驚いた。
「――そう。虚数生命は、過去へ戻れる可能性を持っている。わたしはそこに目をつけているよ」
アカネの呆然とした顔に、シオンは思わず吹き出した。
「あは、流石にまだこれは構想の段階の話。でもね、これが実現すればまた話は色々変わってくる。今度こそ涼くんとお姉ちゃんと、永遠を共に出来るようになれる。また実現に十年間かかったとしても、時を戻せばまたアラサーの涼くんと、アラサーのぴちぴちお姉ちゃんに会えるからね。それか、青春の十年を取り戻すために高校生くらいに戻ってもいいかもね」
しばらくそうしてくつくつと笑うシオン。
「……また涼に嘘を吐いて、そうやって騙すつもり?」
「何言ってるの?」
シオンはにこにこと笑いながらチョーカーを撫でて、
「先に嘘を吐いたのは、お姉ちゃんの方でしょ? チョーカーは二人で選んだー、なんて大嘘」
「それは、あの日すぐバラしたことでしょ」
「ほら、しらばっくれて。それだけじゃないでしょ」
シオンはアカネの左腕を指さし、
「お姉ちゃんだって、貰ってたんでしょ?」
アカネは、腕を組んだ姿勢のまま固まった。
「その、大事そうに右手で掴んでる腕に巻いてるんでしょ。あの日もらったチョーカーを。双子の誕生日なのに、片方にしかプレゼント渡さないなんてこと、涼くんがするはずないんだから」
アカネは何も言わず、ただシャツ越しに、腕に巻いたチョーカーの輪郭を撫でた。そしてその赤いベルトの色を思い浮かべながら、
「……それがどうしたっていうの」
「嘘を吐いてでも関係性を取り持とうとするのはなんにも不自然じゃないでしょ、ってこと。崩れようとする形をそのままにするだけなら、人なんて要らない。血反吐を垂れ流しながらでもそれに必死に抗うのが、人間だと思うんだ」
「人間の感情なんてのは、環境と肉体的な状況でいかようにでも変わる。今この瞬間、これまで十年間がそうだったとしても、数年後までそうとは限らない。あんたくらい賢い人間なら、それくらい分かってるはず」
「知ってるよ。だからこそ、だよ。例えばこれからもしかしたら、わたしの前に誰かとても素敵な人間が現れて、その人にわたしの心は奪われてしまうかもしれない。将来のわたしはその時、過去を振り返って、若き日の恋心を思い出の一ページとして振り返るかもしれない。涼くんをその時見ても、もうこの焦がれる気持ちを抱かなくなってるかもしれない。そしてその時のわたしは、幸せなのかもしれない。……けど、そんなのは絶対に許さない」
「許さないって、誰が」
シオンは、
「他でもない、今のわたしが」
と、至って真面目な顔で言った。
「そうなったら、涼くんはどうなるんだろう。わたしが涼くんのことを好きだって知ってて、でもその時、もうそうではないと知ることになる。その時に涼くんが心に負うダメ―ジを想像したら。もしかしたら、最悪の事態だって考えられる。未来の織戸シオンがそんなことをするかもしれない、それだけで、今のわたしが動くには十分すぎる理由でしょ」
「聞いていれば、勝手なことばっか」
アカネは腕のチョーカーから手を離した。もう涼から、十分に勇気は貰っていた。
「思いあがらないで。あんたは確かに偉大かもね、それこそ歴史に名を残すレベルで。でも色恋については単なる一人の人間に過ぎない。涼という一人の人間をバカにしすぎじゃない? アンタに振られたくらいで傷つくだなんだって、涼という人間を下に見すぎてる。そもそもあんたは、あいつのことをどれだけ知ってるっていうの」
「お姉ちゃんよりは知ってると思うよ。だってこの十年間、『ずっと』見てたから」
「は?」
シオンの瞳が、暗く揺れた。
「ドローンの映像で、VisoRの利用統計情報で、クロノステイサーが出来てからは間近で、ずっと、ずっと、ずっと。だから、涼くんがどんなふうに誰と過ごしてきたのかも全部知ってる。それこそ、お姉ちゃんと何があったのか、どんなことをしたのか、とかもね」
アカネはその言葉の意味を考えた。そしてこの眼前の人間はどうやら本当のことを言っていて、そして完全に理解の範疇を超えていることを確認した。
「まあでも、単純に時間を止めればいいっていうのはもう古いアイデアだよ。はやく次のアイデアを形にしなきゃ。忙しくなるなあ」
そう言いながらシオンは伸びをする。
自身が世界を救えない状況を作りだすために、自ら世界を壊そうとした女。自分で持ち上げることが出来ない岩を作れない全能の神と、果たしてどちらが優れているだろうか。
眼前に立つ余りにも巨大な存在を見据え、その底知れなさに畏怖を懐きながら――しかしアカネは視線を逸らさなかった。
涼が見ればヤンキーのメンチのようだと言うに違いないが、ここで目を逸らすつもりは彼女に一分たりともなかった。
そのままアカネはタバコを取り出して、口に咥える。
「……もー、いい加減禁煙しなって。早死するよ?」
「すると、あのバカも多分同じくらいに死ぬ。この二週間はあたしと同じくらいバカスカ吸ってたから」
火が点き、アカネが息を吐くと煙がもうもうと立ち上る。それを見てシオンはついに根負けし、鬱陶しげに顔を逸らした。
「……無害なあたしっていうのは、そのうちどこにも存在しなくなるかもしんないけど?」
「お姉ちゃんにしては、随分明確な意思表示だね。そのタバコだって、当てつけのつもり?」
ちらりとシオンの口元に犬歯が覗くのが見えた。それを見ても尚アカネはいつも涼に向けるような、皮肉と余裕に満ちた口ぶりで言い放った。
「時間が経てば、大なり小なり変わるでしょ。成長するんだから」
きょとんとして、それからしてシオンは苦笑した。
「ほらやっぱり。時間なんて、進まないのが一番いいんだよ。どんどん関係がややこしくなるんだから」
「あたしはそうは思わないけどね」
揺れる煙を見やりながら、アカネは負けじと獰猛に笑った。
「止まったり戻ったりも結構だけど、たまにはあたしたちと一緒に、先に進むのもいいんじゃない?」
(終)
クロノステイサー 及川盛男 @oimori
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