第十七話 契約完了、あるいは虚数生命
二〇三六年六月十四日 十二時〇分〇秒
その瞬間、世界の保守契約は完了された。保全された世界が織戸シオンに納品され、そしてそれが検収されたのだ。さらに換言すると、世界の出生率、死亡率、事件発生数などの統計上の数値が、全て所定の数値内に収まっていることが確かめられたことを意味した。青崎総合研究所はその時点で、数兆円単位の売上に片手を掛けたことになる。
だが結局の所その成否は、もう一つの業務が遂行できているかどうかに拠った。クロノステイシスが上手く行かなければ、手にする権利はなくなるし、手渡す主体も受け取る主体も真空崩壊に飲まれ消失する。
その判断は、今この場で下されることになる。つまり、青崎総合研究所のオフィスで。
「提出された資料類についての検討結果を報告する」
アカネはそう切り出し、印刷された資料の束を涼とシオンに配った。
「まず資料類の全体を通して用いられている実験方法について。その実験モデルや、生成されたデータについては、一切の疑義はなかった。データ生成の過程にもバイアスは無く、ランダムサンプリングした実際の行動データ――ScooL提供のものだけれど、それとも差異がないことが分かった」
そう言いながらアカネは、次の資料束を配る。きっとこの瞬間において、どんな日本の老朽化した大企業よりも多くの紙資料を使っている会議に違いなかった。
「それによって検討された規則体系について、順に見ていく」
法体系では、基本的人権や領土の概念といった国際法上の慣習は維持しつつも、食料や資源の争奪が原理的に不要となった世界においては、一時的には物を所有するという概念自体が相当に衰退していくことが予想され、他方で精神的な交流や、文化的な創造活動についての権利保護が重視されることを見据える。しかし中長期的には人類は地球外、太陽系外へと進出しその資源を利活用してくことになるであろうから、そうなると効率化のために現代的な法体系が復活していくこととされている。
経済システムについても同様で、資本主義や貨幣経済は一度衰退するが、人類の活動領域が広がるにつれて、その巨大な取引を支えるためにそれらは復活する。他方で人類の数に比して資源の数が余りにも膨大であるから、経済的な競争は起こり得ないだろうとしている。
最も大きな変更を迫られるのが倫理道徳である。死を克服した一方で、新たな生命との出会いの機会を永遠に喪失する世界においては、人々は空想を発達させるらしいということが実験から明らかになった。そして架空の人物などに対して高度な権利を与える――つまり、一つの生命として認める行為が広く見られた。そして興味深いことに、それら架空の人物によって構成された架空の社会が、実際に虚数世界にある社会と交流し、そして「貿易」を始める様子が捉えられたのだという。
「無を克服するどころか、無から有を生み出すことすら可能になる、ってとこか」
「類型自体は今の世界にだって有る。資本市場は実体以上に経済をふくらませることが出来るし、自然人とは異なる法人という概念が、その架空の世界の物語を走らせている。現在の制度自体、ものすごく緻密に作られた架空の概念の積み重ねて作られていて、それの再構成が虚数世界でも行われる、っていう感じかな」
シオンの総括の言葉を挟みながらも、アカネの報告は続く。科学、工学、芸術――。
「――以上の範囲に置いて、部分的な指摘事項は在りつつも全体の論理構成を大きく毀損するものとは認定されず、その主要な内容について誤りはないと判断する」
アカネはそう言って、資料を机の上にばさりと置いた。そして腕を組んだ。
「いいんじゃない。これだけやって人類が滅んだら、それまででしょ」
「じゃあ、涼くん。お願い」
涼も同じように資料を机の上に置いた。それはアカネのそれと比べ、いや比べるまでもなく絶対的に薄かった。だがそれは当てつけでも慢心でもない、涼の考えたことの全てはそこに集約されていると涼自身が確信していた。
「まず、結論から。俺も、この計画の進行について、今すぐの停止を要するほどの致命的な欠陥については見つけられなかった」
涼は慎重に言葉を並べた。
「だが、この場で検討をすべき論点が少なくとも二つあると考えている」
「二つも?」
アカネの声に余裕はなかった。普段の彼女を考えればそれは不思議な反応に思えるかもしれないが、しかし真空崩壊の到達まで残された時間を考えると、至極当然の反応とも言えた。
「まず一つ目の点だ。俺たちはシステラという、とても碌でもない地球外生命体と既に接近遭遇を果たしている。あいつらは本当に碌でもなかった。だが、この宇宙にいるかもしれない生命は、ろくでなしばかりだろうか? 俺はそうでもない気がする。どころか、クロノステイサーは本来ならばどうやっても時の壁によって邂逅することができなかったはずの生命同士を繋げることができるような力を持っている。つまり第一の課題は、地球外生命体の扱いについて、一体どのように扱うべきか、だ」
「……地球が消し飛ぶかもしれないって時に、そんなことを気にせよって?」
「もしかしたらルーク・スカイウォーカーだって消し飛ぶかもしれないんだぞ」
「ついでにゴキブリみたいな見た目のエイリアンと一緒にね」
それは実に繊細な問題であるように思えた。だがシオンは余裕を崩さずに即答した。
「私は、ベストエフォートの対応を尽くすべきだと考えている」
「それは?」
「救える限りの文明を救うってこと」
「まさか、今から残りの時間でインフラの増強を加速させるってこと?」
「あはは、違うよ。そうじゃなくて、もっと時間を掛けて、救うってこと」
「……分かったぞ。動かす気だな、時間ごと、この地球を」
シオンは頷いた。
「まず考え方としては、とりあえず私たちは時間を止めて生き残り、そして少しずつ時間を進めては、インフラ増強を行ってクロノステイサーで時間転向できる生命の数を増やして、また止めて、インフラを増強して……というのを繰り返す、みたいな」
「けど、時間を進めれば地球は真空崩壊に飲み込まれるんじゃ」
「だったら、それこそ本当に地球ごと動かしてしまえばいいんだよ」
あっけらかんとシオンは言い放った。静まり返るアカネ。
「そんなに驚く話かな? だって、私たちは土地に愛着があるのであって、さらに言い換えれば地球や太陽っていう天体への想いが強いってことだよね? でもそれは逆に、この宇宙における相対座標としてのこの位置にこだわりがあるわけじゃない。だから、その時は一旦地球と太陽……なんなら太陽系ごと、ここから数百光年なり数万光年先のところまで、持っていって仕舞えばいい」
「持っていくって、どうやって」
「決まってるじゃん」
シオンは力こぶを作ってみせた。
「手でだよ」
あまりのスケールの大きさに、問題提起の主であるはずの涼ですら圧倒されていた。あまりの荒唐無稽さ、そして大胆さ。しかし彼女が言っていることは全て、今ある前提を使いこなした上で与件をクリアしている。虚数世界で小石を動かせて、航空機を動かせて、なぜ地球は動かせないなどという道理があるだろうか? それはニュートンが万有引力を発見した時のロジックと全く相同の構造であり、そしてシオン力学の偉大さを示していた。
「地球を少しずつ動かして真空崩壊からの距離をとって時間を稼ぎながら、全宇宙の生命を救えるようにするってことか」
「そ。全宇宙の生命の数なんて、高々有限の数しか居ない。だったら地球人類全員を救うのとそんなに変わらない。大丈夫だよ涼くん。私たちはできる」
シオンの微笑みを見て、涼は自分の中にあった懸念が少しずつ氷解していくのを感じた。ここ直近の間、独り腹の中で抱えて一体どうしたものかと途方に暮れていた問題だったというのに、シオンはこんなにも明朗に答えを用意してくれた。
これなら、もう一つの方も解決するに違いない。
「じゃあこれはクリアで、二つ目だ。と言っても、これは先程の話よりもさらに仮定を重ねるような話になる」
涼は、自分の思考の過程を話した。虚数世界においても自分は生命を名乗れるかどうかという命題からスタートし、存在を選択するその意思決定行為こそが生命の証左に他ならないことを結論づけたこと。
だが、そのような結論を導くと、今度は一つの些細な問題が生じると涼は述べた。
「それは、例えばここにある机や石、木々やビル。それらもこの虚数世界の中で、存在をし続けているということだよな。すると新しい問いが生まれる」
涼は一呼吸をおいて、それをぶつけた。
「――つまり、これらの物体も生命となってしまうんだろうか?」
話しながら、まるで自分が古代ギリシアと東洋哲学の私生児になってしまったのかのような気分に涼は陥った。全てのものには、その場にあり続けようとする意思があるから存在しているのだ、なんて。
だが相対的な関係で言えば、既にある世界を分析しようとした古代の偉人よりも、まだ到来しない世界のことについて思索を深めているという意味で、涼たちは誰よりも先達なのであった。
「つまりこう言いたい。この虚数世界には、俺たち以外にも存在を選択し続ける主体――生命がいるんじゃないか、ってことだ」
涼が資料のページを捲ると、四文字の単語が並んでいた。それはおそらくこの世界で初めて印刷された文字列だった。
“虚数生命“。
「……この世界で、あたしとあんた、それぞれが独立した意思と自我を持って存在することができている。その時点で、自分以外の主体の存在を否定することは難しくなることは確か。けど、いくつかの仮説は思いつく。例えば、実際には相手に自我が存在するかどうかはわからない」
「哲学的ゾンビだな」
アカネは頷いた。
「虚数世界の場合、物事はより複雑になる。相手に自我がある可能性、ない可能性に加えてもう一つ、相手の行動すらも自分の意思決定に依っている可能性がある。でもそれを前提に据えた場合は問題解決につながる」
「かもしれないが、果たしてシオンがそんな世界を求めるか……シオン?」
涼はそこで、シオンが押し黙っていることに気づいた。彼女は資料に印字された「虚数生命」という文字列を、ひたすらに凝視していた。
一体どうしたのだろうと様子を見守っていると、
「……なんで、こんなことに気づかなかったんだろうね、わたしは」
そう漏らしたシオンの言葉は、震えていた。
その瞬間涼は、自分の背筋が確かに凍るのを感じた。
「……あんたたちがそんなに狼狽えている理由が、まだよく分からないんだけれど」
涼は深呼吸を一度した後に、アカネに対してゆっくりと、用意してきた想定を話すことにした。
「虚数生命という概念がここで定義されるものだとして、石や木に宿る意思が今のところは俺たちの意思に従うことを受け入れて、その通りに動いてくれているとする。だが、そうであり続ける保証がどこにある?」
「……この期に及んで、くだらないダジャレ?」
「そもそもを思い出してくれ。俺たちは今、数多と有る並行世界を、ある実数時間座標を通る直線で走査している。俺たちはその世界を因果の流れとして認識しているが、それは無限の可能性の並行世界が、そこに存在しているからこそ出来る芸当だ。――じゃあ、その俺たちが選ばなかった虚数並行世界は、一体誰が認識して生じたっていうんだ?」
「……ちょっと待って」
アカネもその可能性に思い当たったようだった。みるみると顔が青ざめていく。
「俺たちは、真っ直ぐ進んでいるところを、崖が見えてきたから右に曲がろうとしている。だけどその時、俺たちは左から何かが来る可能性を考えられていなかった」
余所見は交通事故の主因であった。横断歩道を進む前は、右、左、右。
「……異なる実数時間世界に由来する、先住の虚数生命が存在する可能性がある」
振り絞るように出てきたシオンの言葉に、アカネはいよいよ脱力して、上体をだらんと背もたれに預けた。
「そしてその逆も然りだ。人類が移り住む虚数世界に、後から別の実数生命が移住してくる可能性がある。果たしてその時、融和的な解決が行われるのか?」
涼の問いにシオンもアカネも反応しなかった。否定も、肯定もできない。それは純粋に、運でしか語ることの出来ないレイヤーの話題だった。
「……少し、一人で考えさせて」
そう言ってシオンは立ち上がり、部屋を出ていった。
涼とアカネは色々の考えを巡らせ、戦わせた。
「同じ虚数世界に統合されるためには同期が必要だっていう点は使えないの? そもそもあたしとあんたがこうして同じ虚数世界で会話を出来ているのも同期のおかげ。もし僅かでも止まる時間がズレてしまえば、片方だけが動けて片方は路肩の石と同じような存在になってしまう。そうでもしない限り、それがどの実数時間に対応する世界かどうかはほぼランダムに決まる。それこそ、あたしたちにとっての虚数世界と全く同じになる可能性は限りなく低いはず」
「確かにほとんどの場合、それらの世界は俺たちの世界に干渉しない、虚数並行世界として俺たちと並走を続けるだけだろう。可能性は限りなく低い……だがゼロじゃない」
苦い顔を隠さずに涼は言った。
「全くの偶然に、重なってしまう可能性は否定できない」
「そんなの、起きないと考えていいでしょ」
「真空崩壊だって俺はそう思っていた。だが起きた。しかも俺たちは、無限の試行回数をこれから経ようとしている。これが何を意味する?0じゃない確率事象は、いずれ必ず起きるってことだ」
アカネは不安を堪えるようにギュッと自分の左腕を右手で掴んで、
「……もし遭遇したら、どうなる?」
「並行世界の地球人類だとしても、宇宙人だとしても、あるいは先行して移住した文明たちが創り上げた文明だったとしても、融和も衝突もどちらもあり得る。俺たちがただそいつらに跳ね返されて追い出されるだけならまだいい。それこそ確率論、ガチャだっていうのなら、実数時間をまた少しずらして、別の虚数世界を引き続けてそこへの移住を模索すればいい。当面はそういった他の虚数生命がいない世界を探せば、そう言った政治的な問題は解決できる。しかし……それで済まない可能性がある」
涼は唾を飲み込んだ。
「そいつらが、俺たちの実数世界を侵略してくる可能性だ」
「そんなの……ありえない。だって動機がない。だってそれらの文明は、実数世界を捨てて虚数世界への移住をもう果たしているわけでしょ? それ以上何を求めるわけ?」
「実数世界そのものだよ。正確には、まだ終わっていない実数世界の時間だ。いいか、そいつらは自分たちの実数世界が終焉を迎えるからこそ虚数世界に移動した。といっても、そのような能力があって、世界が滅ぶその瞬間に時間を止めるようなことはしない。前もって余裕を持たせたタイミングで移住を実行するはずだ」
ちょうど、システラが人類を電子化へと誘うときに使ったロジックの通りだ。
「そしてもし都合が悪ければ、さっき言ったガチャの理論で少し時間を進めて、また新しい虚数世界を模索すればいい。そうやってちょうどいい場所を探し続けていく……だが、この方法はある瞬間取れなくなる」
アカネは目を見開いた。
「まさか」
「そうだ。世界が滅ぶその瞬間に至った瞬間、もうそれ以上の実数時間の進行はできなくなる。そいつらは、最後に至った虚数世界以外の虚数世界には、もう移動することができなくなる。そうなれば、そいつらには動機が生まれる。他の、まだ存続している実数世界の残り時間。それが奪取するべき資源であり、侵略のインセンティブになる」
「……そんな連中がいるかどうかのアセスメントなんて、一々してられない。それこそ、通知と認諾の論理を」
「受け入れられるか? システラによるそれを否定した後に」
それ以上二人の会話は続かなかった。しかし時間を動かしてリフレッシュをする余裕は、到底なかった。
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