第十六話 対話、あるいは気付き
二〇三六年六月十一日 三時四十四分〇秒
アラームの音と共に目を覚ます。思考が瞬時に鋭敏さを取り戻すことから十分な休息が取れたことを一瞬期待した涼だったが、しかしすぐに肉体の重さに気づき落胆した。
ソファーから身を起こして給湯室に入り、マグカップを二つ用意する。マシンの電源を入れて、片方には濃いエスプレッソを淹れて、それからそれぞれにお湯を注いだ。
涼は片方に口をつけながらもう片方をアカネの机に持っていった。
「交代の時間だ」
そう言われた瞬間、アカネは糸が切れたようにタイピングの手を止め、そしてふらりと立ち上がった。机の上に置かれたマグカップの中身が白湯であることを確かめると、それを一気に飲み干し、そして涼が先程まで寝ていた応接スペースのソファーに倒れ込み、
「おやすみ」
とだけ言ってすぐに寝息を立て始めた。最も、それは涼が三時間前にアカネと交代したときにやってみせたのと全く同じだった。睡眠は三時間ずつ、交代制で。この世界の保守作業をこなす上で必須とされたサイクルだった。
部屋は荒れ果て、あちこちに本や書類、カップ麺や菓子類の空き容器やペットボトルが散乱している。それらを整理整頓する余力は、二人には無かった。
せめて寝起きのリセットされた頭で、先程滞っていた資料の作成を進めようと思った矢先、
「お疲れさまです。早速よろしいでしょうか」
というエメリーからの通話が掛かってきた。
「……駄目と言っても、教えてくれるんだろ?」
「当然です。駄目と言われたら伝えないなどという業務にはなっていませんので」
エメリーは表情を変えずに、
「大陸間弾道弾ミサイルが発射されました。数は三十三発。推定される着弾地点はワシントンD.C.のようです」
「まだあるのか」
いい加減にしてくれ、と涼は叫びたかった。ここ三日間でもう十五回目の情報だった。そろそろ弾切れになってはくれないものだろうか。涼はすかさず時間を止め、エメリーが提供してくれた資料を読み込む。
「弾頭は核、アメリカの防空網での検知は……まだギリギリセーフか。良かった」
不幸中の幸いとなる要素を見つけて涼は胸をなでおろした。これが米国側で検知されたとなると、リカバリすべき要素が指数関数的に増大するということを涼は知っていた。検知前であればやることは、このミサイルを検知し得ない場所――木星や太陽の内部なりに投下してきてしまえばいい。実際、これまでそのようにしてきた。
涼はミサイルを携えて、太陽の表面まで飛行し、そしてミサイルをそのフレアの中に放り込んだ。人類の持つ最大級の破壊力は、時を動かせば速やかに蒸発し、始めから無かったのと同じような扱いになるだろう。
「こんな棒きれと太陽とじゃ、核エネルギーの格が違いすぎる」
一度アカネやエメリーの前で言ってあまりのオヤジ臭さにボロカスに言われたジョークを言い放って、涼は太陽を後にする。契約が始まった頃、飛行機の高度まで至るのにあれこれ工夫を凝らしていた頃が遠く懐かしい記憶に思えたが、実際それははるか昔の出来事だった。
涼はそのまま、地球を通り過ぎて太陽系外へとぐんぐん進んでいく。冥王星やセドナを通り過ぎ、カイパーベルトも抜け、太陽系の辺縁とよばれる場所に至り、そこすらも通り抜けていく。涼がやがて止まったのは、五〇〇天文単位――太陽から七七〇億キロメートルほど離れた場所だった。それは光の速さで三日かかる距離であり、逆に言えばここに今あるものが光の速さで三日進むと、地球に到達する。
そこに涼は無を見た。そこには空間がなく、時間もない。黒い宇宙を背景にしてそこに有るはずのそれには、黒すらもなかった。そして、無すらも。
数百億光年の広さを誇るはずの観測可能な宇宙はそこでぱったりと断絶し、そこから先は一切見通せない。無いものは、そもそも見ることが出来ない。
これを発見した時、シオンは何を思ったのだろうか。
涼は頭を振って、地球へと再び戻った。
机に戻って、時間を動かす。
「対応おわり」
「……確認できました。お疲れさまです」
その調子で、二、三分おきにかかってくるエメリーからの異常検知報告や障害報告に対応しつつ、その合間の時間で資料の検討を進めるということを繰り返す。もうそんな生活を仮眠を挟みながら一週間ぶっ続けでやっていた。
「……エメリーさんは、いつ寝てるんですか」
若干朦朧とした頭で、気づけば涼はそのようなことを尋ねていた。
「私は人工知能なので、睡眠を必要としていません」
「……そうなんですか?」
「ええ」
沈黙が流れる。こんなときに限って、世界はなぜか平静と平穏を保っていた。
「……冗談ですよ」
「ああ、なんだ冗談ですか」
「そうですよ。人工知能だって、睡眠は必要ですから」
やはり涼は押し黙るほか無かった。
「……つまらないギャグは言えるのに、こういう高等なユーモアには反応できないというのは、かなり問題では?」
「考えなきゃ分からないジョークが、高等だなんて考えには、俺は与さないので」
「……やはり、あなたとは気が合いそうにない。だからこそ、シオンさんがあなたを大切に思われているのが――」
「どういうことだ?」
「――なんでもありません。一つ、シオンさんより伝言です。『チャットを送ってるので読むように』とのことです。ああ、あなたの無意味な質問のせいで時間を無駄にしました。連絡事項が生じるまで通話を切ります」
ぷつん。
「……なんだよ、ちゃんと眠いんじゃないか」
彼が打ち切った言葉がどことなくふやけていたのを思い出して、涼は笑った。
シオンから届いたチャットは短かった。
『会って話そ?』
二〇三六年六月十一日 四時三分七秒
「待ったか?」
「ううん。一秒たりとも」
待ち合わせの秋葉原駅電気街口前で、シオンがそう微笑んだ。チョーカーの小さなバックルが、きらりと光ったように見えた。
「お姉ちゃんは」
「さっき寝た」
「そっか」
静まり返った中央通りの真ん中を歩む二人。僅かな業務車両を除いては、それはおおよそ歩行者天国のような気分だった。
「流石にこんな時間だと、秋葉原も人が居ないんだね」
朝のほのかに明るく青く染まった空が、無音の秋葉原を淡く照らす。今時を動かせば、きっと早朝の爽やかでどこか胸を湿らせる空気を吸うことが出来るに違いない。
「新宿や渋谷ならいざ知らず、ここはオフィスとサブカルの街だからな。きちんと眠って、きちんと働き遊ぶ街なんだよ」
「へえ。なんとなくこういう場所で好まれているアニメって、深夜に放送してるイメージがあったから意外。それとは別に連動してないんだ」
「深夜にアニメが流れてたら、見るためにみんな家に帰るだろ? だから人が夜は居なくなるんだ」
「それ、そういうデータがあるの?」
「いいや、適当」
二人が揃って笑う。
「保守の状況は順調そうだね」
「どうかな。大量破壊兵器の動向はいまだに不安定だし、集団自殺未遂も多発中。予断は許さない状況が続いてる」
「それでも、巨大な企てはおおよそ防げたんじゃないかな」
「ミハイルや、森……システラのことか」
シオンは苦笑した。
「流石に、真空崩壊の混乱に乗じて外宇宙の侵略があるなんてのは、想像こそすれども実際に行われるとは思ってなかった」
「お前でもか」
涼の驚きは心の底からのものだった。織戸シオンは全てを見通しその上であまりある野力を持っているように見えた。それは贔屓目でも盲目さによるものでもなく、純粋に客観的な評価だった。
「わたしには見えていないものがたくさんある。それこそ」
シオンは足を止めた。そこは地下鉄の末広町駅の近くで、中央通りと蔵前橋通りの交差点だった。
「クロノステイシス計画の弱点とか」
「……今のところ、少なくとも俺たちでも見つけられていない。アカネはお前の資料を見て驚いていたぞ。まさか、強化学習を使って経済や法、倫理のモデルを作ってしまうなんて、ってな」
「そう言うと聞こえはいいけど、要するに世界そのものを何億回、何兆回とシミュレートして、一番最もらしい法則を抜き出したってだけだからね。力技だよ」
「それで言えば、VisoRを使って無理矢理全人類にそれを教え込むっていうことにはあいつは文句があるらしいけど」
シオンは口角をあげ、
「お姉ちゃんらしいね。それで、涼くんはどう思う?」
「VisoRを思想教育に使うことをか?」
「ううん。クロノステイシス計画。上手くいくと思う?」
「……俺の、決して多くはなく、質も高いとは言い難い知識に基づくと」
涼は一拍置いて、
「無謬な計画なんていうのは、存在しない。きっとお前の計画にだって、何かの綻びがある」
「だよね」
シオンが路肩の小石を蹴った。それは足の先に吸い付くように動かされ、そして足が離れると中空に浮かんだ。
「だが、それが計画のそもそもに関わる話ではないのかもしれない、という思いは強くなってきた。恐らくアカネが気にしているような、時間停止後の世界で果たして人類は上手くやっていけるのか、という側面の方に、修正するべき課題があるのかもしれない、ってな」
「人同士の争いによる破局か、抑圧された管理社会形態のディストピアが訪れる、みたいな?」
「それが、俺たちの今の観念に照らしてのものか、教育後の観念から見てもそう映るものなのか、という違いはあるだろうが」
「ディストピアか……でもそういう物語ってさ、リアリティがないよね」
「そうか? むしろSFの中では、結構リアルな未来を予想しているような話が多いジャンルじゃないか」
「全然そうは思わないなあ……だってさ、その物語の中にはわたしが居ないけど、現実にはほら」
シオンは自分を指さして、
「わたしがいるから」
と胸を張った。
「だからどうやってもディストピアは到来しないか、来ても打倒される。滅亡のパニックものだってそう。現実にはわたしがいるから、世界はどうやっても守られる」
しばらく涼は呆気に取られたように固まったが、やがて笑い出した。
「そうだな、その通りだ。この世界にお前が居てくれて、本当によかった」
「お礼を言いたいのはわたしの方だよ。わたしがこの世界を守りたわたしたしたしと思えたのは、涼くんが居てくれたからだったんだから」
「そりゃ光栄だ」
二人はそう言って笑いあった。
「そっちこそどうなんだ。設備の増強は、間に合ったのか」
「うん。人類どころか、地球上に存在する生命体全てを虚数空間に送って余りあるくらいの処理能力が準備できた。なんなら、システラ星人だってここに残ってくれてたら混ぜてあげられてたかも」
「あんな恐ろしい連中と一緒に過ごそうってか」
涼は肩をすくめた。
「なかなか恐ろしいことを言うな。あんなお役所仕事みたいな雑で杓子定規な判断で、宇宙を一個滅ぼすかどうか決めるような連中だぞ。根本的に反りが合わない気がしてならないね」
「でも、存在存続の病については、わたしが持った問題意識と同じではある」
シオンが信号機の柱を手で撫でた。大小さまざまなステッカーが、無秩序に貼られている。
「システラはその結果、宇宙の限界を認めた上で外の宇宙に拡張を求めた。システラのやり方は、宇宙の数が無限に存在するかどうかという、理論上ではなく実際上の制約にいつか突き当たる可能性がある。それは、存在に関する根本的な問題の解決について目を背けているのだから当然の帰結」
「けど、お前は違った」
涼は畏敬の心を持ってシオンを見つめた。
「お前は、なぜ世界は滅ぶ必要があるのか、なぜ終りを迎える必要があるのか、というところから問い直した。そして、そんな必要なんて無いと結論づけた」
「なんだか照れるけど……でも、そうだよ。永遠を願う気持ちは本来、全人類の本能の根底にある。不死の霊薬は洋の東西問わず古来から望まれてきたわけで。それは生命の生存本能そのものだとすら思ってる。それが踏み躙られている今のこの状況っていうのは、本来、常に抗い続けて然るべきな状況なはず。けど、みんなそれを諦めてしまってる。創作の中の世界でさえそれが出来ないくらいなんだから、この諦めは相当根深いんだと思う」
「創作の中でさえ?」
「そう。漫画なり小説なり映画なり、あるいは神話だってそう。そういう永遠を追い求めた人って、結局それに手が届かなかったり、代償として酷い目に合わされたりするでしょ。始皇帝は不死を求めて水銀を飲んで死んだ愚かな人として扱われるし、かぐや姫の残した霊薬を燃やした帝は美談扱い。つまり、とにかくそれを願うこと自体が悪とされてた。けどそれは冷静に考えてみれば、単なるドグマなんだよ。人間には過ぎたる願いだ、なんていう勝手な決めつけ、思いこみ。得られないものを得ようとすることに対する嫉妬なのかもしれない。けど、それを願うことが悪、なんてことになる道理は無い」
そう言って、シオンは首元のチョーカーに手を当てた。
「……宇宙に人類の子孫を残したり、存在したという痕跡を残そうとしたりっていう話があると思うけど、あれはまだそういうのに希望を持ってる方なんじゃないか。ボイジャーみたいに、もう実際に飛ばしてるものだってあるし」
「ぬるいよ」
「ぬるい、か」
シオンは強く念押しするように、深くうなずいた。
「それじゃ、結局『永遠』にはならない。地球の寿命に限りがあるから外宇宙に行くって、宇宙にも同じように寿命があるのに。それこそシステラと一緒で、問題を先延ばしにしているだけで、解決になってない。宇宙に人類の種を飛ばして、それが芽吹いて、で、って感じじゃない? 将来とかに託して、なんておしとやかな結末じゃなくて、全部この手で手に入れてみせる、みたいな勢いで居なきゃ。永遠に対するしつこさとか、執念とか、そういうのが足りないよ。ビッグリップルや熱的死、真空崩壊は常に鎌首をもたげてる。ギロチンの鎌の高さを少し高くするだけじゃなくて、解決するなら鎌を取り外さなきゃ。避けられない運命をどう受け止めるかなんていうのは、問いの立て方が間違ってるんだよ。どうやってそれを避けるのか、それを考えなきゃ」
そしてシオンのその哲学に基づいた野望はどうやら、現実のものになろうとしている。
「アカネがポツリとこの前、こんなことを言っていた。この国には死や無、終わりの中に、儚さという美を見出す文化が有る。果たして永遠を得ることによって、人はそうしたものを失ってしまわないか、と」
「お姉ちゃん、あんなんで意外とセンチメンタリストだからね。でもそれは詭弁だね。だってその概念においては、『無』が『有る』。真空崩壊や宇宙の滅亡っていうのは、儚さとか美しさどころか、『無』すらも『無くなる』、そういう事態なの。だから、もしそうしたものを持ちたいのであれば、なおさら私達は永久を真剣に求めなきゃ行けない。存在が有るから、無も初めて存在できる。人間原理ならぬ、存在原理ってとこかな」
シオンとの二人の逢瀬を終え、しかし涼は一人、時の止まった秋葉原にとどまり続けていた。
はたして、命とは何なのだろう。中学生が寝る前に考え始めて、そして分からなくなってそのまま寝てしまうようなテーマだった。だが涼にとって、それが恐らく最後に考えるべきテーマだった。
それはつまり秩序を保ち続けようとするシステムであると涼は考えた。少なくとも三十七億年前から続いているこの生命秩序は、常に外界からエネルギーを得ながら、自己の秩序を何らかの形で継続されるために様々な方策をとってきた。
それを考えると、システラのやり方は全くこの生命のプロトコルに沿っている。彼らは彼らが住む宇宙そのものを巨大な一個の生命とし、その肉体を保持するために外宇宙を食べていると形容できよう。どんなにテーブルマナーを上辺で設えていても、やっていることはガゼルを食らうライオンと同じだ。しかしそれは決して彼らが野蛮という意味ではなく、人類がそうであるのと同じくらい極めて生命的である、ということを意味していた。
では、虚数世界において今こうして存在する「俺」は、果たして生命と言えるのだろうか?
今までの定義に従えば生命は自らの秩序を維持するための能動性を有する。だが涼はいま、この虚数世界で存在し続けるために何の食料を得る必要も持たない。まるで慣性の法則のように、ただそこに居るだけで在り続けることができる。
そこまで考え涼は、「選択肢」という言葉をシオンが使っていたのを思い出した。涼は、今この瞬間手を右に動かすか、左に動かすかを選択している。涼は今、x=1の座標に居るか、x=2の座標に居るかを選択している。それと同じくらい涼はいま、0か1か、自分が存在しているか、していないかを、選択している。だからこそ涼は、この虚数世界で存在し続けている。
この無意識の選択行為。それこそが、この世界において涼が能動的に自己の秩序を維持するために行っている行為だった。それこそが、涼がこの世界において生命として振る舞っている証左であった。
よかった。涼は胸をなでおろした。この意欲こそ、生存本能と呼ばれる生命の有る種の公理であり、そしてそれを例え虚数世界であろうとも生命は保持し続けることが出来る。つまり我々は紛うこと無く、実数世界から虚数世界へと、同一の連続性有る生命として移住することが出来るのだ。
答えが出ると同時に自分の中の問題意識もクリアになっていった。つまり、自分が生命でなくなることを不安に思っていたのだ。本当にこの計画は、自分という存在を、シオンという存在を、アカネという存在を永遠にこの世に存在たらしめるための方法なのか? それを悩んでいた。
だが、それは杞憂に終わると結論付けられそうだった。音もなく、光もなく、時もないこの世界は、想像以上に荒涼とした厳しい環境であることを、涼はもう痛いほどその身で理解していた。だが、そこでも生命というものは存在しつづけることが出来る。そう考えると、展望が――。
「――あ?」
その瞬間だった。身体に走る感覚は、決して初めてのものではなかった。それは、なにか致命的で根本的なものを見落としているような感覚だった。そうした予感は経験上、大体あたっていた。
なんだ。自分は今何を見落としている? 一体何について考えたときに、そのことに気づいた?
周囲に視線を巡らせる。止まった世界。微動だに動かない世界。自分以外は動かない。
なぜ自分以外は、動かない?
『問いの立て方が間違ってるんだよ』
涼は顔を覆った。彼の仕事は、まだ終わりそうになかった。
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