第十一話 探求、もしくは対話

二〇三六年六月六日 十六時二〇分九秒


 狭い部屋の床という床、机という机に資料が散乱している。

 最初のうちのもの、つまり床の下の方に埋まっているものはプリンターで印刷されたものばかりだったが、今は手書きのものがかなりを占めるようになってきている。文章がみっちりと書き込まれたものがあるかと思えば、さまざまな図形が駆使されたグラフィカルなものもある。


 それを見て涼は嘆息した。パワーポイント屋などという蔑称で呼ばれることもある職業だが、PCの利用が制限されている今、それを使って資料整理や作成が行えるのであればその呼び方も甘んじて受け入れたいと心から願った。――それが業務の本質というわけでは一切ないのだが。


 時間の止まった虚数世界は、没頭するという行為についてあらゆる側面で向いていた。故に二人は、やがて余りに野放図に書き込みを続けていると、近所の店頭からコピー用紙が消え失せてしまうということに気づいた。消しゴムを使うとすれば、今度は消しゴムが在庫切れの危機に瀕する。それくらいであれば笑い話で済むが、しかし永久の時間を資料の作成に費やせるという幻想は、資源の制約という極めて当たり前の現実の前に脆くも崩れ去ったことを知った。

 すると尚更、電子上で好きにページをいくらでも増やせるパワーポイントの有り難みが身にしみた。コンサルティングの歴史はPCのそれよりも確実に古いだろうが、果たしてその時はどのように作業を分析し集約していたのだろうと思いを馳せる。


 このような空間に長居をし続けた結果、二人はある工夫を編み出した。インディアナ航空機のときの事象から着想を得たそれは、つまり煙を使うものだった。

 室内に煙を充満させ、時間を止める。それを手で集めて板のようにして、指でなぞるのだ。そうすると指でなぞられた部分から煙が除けられ、字や絵を作ることが可能になる。間違えたならばそこに再び煙を当てることで誤りを消すことも容易にできる。

 二人はそれを「ホワイトボード」と呼ぶようになった。これは室内での喫煙を推奨することにもなったためアカネからの高い支持を取り付け、コミュニケーションにおけるデファクトスタンダードとなった。


 数々のホワイトボードが宙に浮かぶ。その一つ一つがこの数日間に起きた様々な事象をまとめたものになっている。


 例えば窓側、普段であればそこからジャンク通りの様子が一望できる場所だったが、そこには主に国家間紛争の発生経緯とその対応策についての羅列がまるでバリケードのように視界をふさいでいた。


 混乱に乗じて既存のパワーバランスの打破を図る例は枚挙に暇無く、それが軍事的な衝突になりかける前に、二人は世論を操作したり、調停者のような搦め手を使ったり、最終的には戦車やミサイルそのものを使用不可とするような工作を関係国双方に行ったりということを繰り返していった。


 各国は厳秘を保っているが、既に世界の常備軍の三十パーセント近くは二人の手により無力化されているのだった。逆にそれが行われていなければ、最後の世界大戦が勃発していたことはおそらく間違いなかった。


 オフィスを挟んで窓と間反対の給湯室の方では反対に、個別論ではなくより抽象的な議論が行われていた。二人はそれぞれのタイミングでそこに思考の形跡や課題を残し、そしてそれぞれのタイミングでそれに対する回答を残した。涼はそこに、新たな問いが書かれているのを見つけた。


『虚数世界における、人類の生存目的は?』


 その問いを流し見しつつも、涼の目的はそのホワイトボードの向こうにあるコーヒーメーカーだった。

「なあ、コーヒー淹れないか」

 オフィスの方でぶつぶつと一人何かを喋っていたアカネは、その言葉に顔を上げた。

「なかなか魅力的なご提案」


 二人はせっせと、ホワイトボードに書かれていたもののうち、重要なものを紙に写していく。時を動かせばたちまちそれらは形を崩してしまうからだ。最初にそれに気づいた時、もうもうと煙に包まれる部屋を見ながら火災報知器をオフにし忘れていたことに気づいた涼はこれから起こる恐ろしいことに泣きそうになったのだが、このボロ屋の火災報知器は壊れていたのでそれは杞憂に終わった。


 まるで大学生の頃に戻ったかのようだとアカネが独り言ちたが、涼の大学生活にこんなに必死かつ丁寧に板書を写した記憶はなかったので、反応に困った。

 そして世界に時間が戻ってくる。一挙に外界の情報が流れ込んでくるこの感覚にもそろそろ慣れてきたころだった。

「火災報知器壊れたままって、法的にどうなの」

「まあ良くはないだろうな。でも直すのはこの仕事が終わってからにしよう」

 それに対してアカネの反論は無かった。彼女だって、こんな状況において消防法の云云かんぬんを気にしている余裕はないに決まっていた。

「それにしても。点検の手紙を送ってくれてるのはいいけど、それで終わりっていうのも怖いもんだな」

 机の上に積まれた未整理の手紙の山を探すと、二年前の日付の定期検査のお知らせの手紙が入っているのが見つかった。そこには訪問点検の予定日とともに、「当日のお尋ねにお返事がない場合は、点検作業をご辞退されたものと見做します」との文言が添えてあった。

「……いや、返事しなかった俺が悪いんだけれど」

「分かってんなら文句言うな」

「それだって怖くないか。ちょっと返事しないからって、下手したら俺たち法令違反をしてる扱いになってるわけなんだから。どころか焼死にの可能性だって」

「ならちゃんと点検受けとけっての」

 そんな軽口を叩き合いながらコーヒーメーカーの電源を入れる。

 だが、電源が点かない。何度も押してみるが、うんともすんとも言わない。

「なんだ、故障かよ」

 そう口に出した瞬間の、音の聞こえ方で分かった。時間が止まっている。アカネを見やると、彼女は口を半開きにした状態で固まっていた。


「やっぱ楽しそうだね、こういう古民家? みたいなところで二人暮らしって」

「……驚かすなよ。なんでまた急に」


 そう言って振り向くと、応接セットに座っている織戸シオンが居た。


「どうやったって、虚数世界を経由して現れようとしたら瞬間移動みたいになっちゃうよ」

 シオンはくすくすと笑いながら、テーブルの上に載っている民芸品やら小物やらをしげしげと眺めている。

「それになんでって、冷たいなあ。こうやっていつでも好きな時に会いに来れるようになったのに、会っちゃいけない理由なんでないでしょ?」

「そりゃそうかもしれないけど」

「それとも……まだ怒ってる?」

 涼はシオンの向かいのソファに腰を下ろした。

「そうだな。せっかくのコーヒータイムをお預けにしてくれたことには、腹立ててる」

「それはごめんなさい」

 笑みを絶やさないシオンに、涼はどうしようもないほどの懐かしさと新鮮さを同時に感じた。

「どうしたの、そんなニヤニヤして」

「え?」

 指摘されて、涼は初めて表情に出ていることに気付いた。

「ニヤニヤなんてしてたのか、俺。しいて言うなら微笑みくらいはしていたかもしれないが」

「目尻がすごくだらんと下がってた。すっごい間抜け面だったよ」

 おかしくて仕方がないという様子で尋ねてくるシオン。「で、何がそんなに面白いの」

「いや、なあ」

 涼は顎髭をざらりと撫でた。

「お前がそんなに笑えるってことは、本気で、この世界は救えるってことなんだな、と思って」

「今更?」

 シオンはふふんと笑った。その一つ一つが涼には新鮮だった。

「楽しいし、幸せだよ。だってあんなに絶望的だった宇宙が救われる未来が、確実に近づいてきているんだよ。台湾と九州とシリコンバレーにある半導体工場は全部買い占めて、そこで1秒ごとに何千って数のクロナイザー用半導体チップが作られてるの。それが揃えばいよいよ、全人類をこの世界に連れてこれるようになる」

 タバコの灰皿を手で弄ぶシオン。

「みんなで、笑顔で、いつまでも。大団円のハッピーエンドがわたしの夢だから。それが叶うんだから」

「お前が言うんだから、やっぱり本当なんだろうな。まるであれだ、サウナの最上位互換みたいだったぞ」

「えっと、どういうこと?」

「いったん宇宙が滅ぶって言われた後に、実はその救う方法を準備してました、ってのは。落として上げるって行為において、考えうる限りで一番高低差が激しいやつだった」

「確かに、これ以上のものはないかもね」

「まあでも、俺は元々宇宙が黙って滅びるなんて思ってなかったぞ」

「え? どうして?」

 涼はシオンの顔を見た。そのくるくると、訳の分からないほど強く光る瞳が、涼は昔からずっと好きなのだった。

「映画や漫画の世界ならあっさり滅んじまうかもしれないけど、この世界にはお前が居るからな」

 涼は、正直未だに現状を理解できているわけではなかった。


「俺はバカだからさ。正直、虚数世界と時間停止の理論は、アカネからあの後何ども補足もあったけど未だにつかみ切れていないし、真空崩壊だってそれがどれくらい恐ろしいことなのか分かっていない」

「そんなことないよ、涼くんは天才だよ」

 シオンは、何故かすこしむっとしたような表情でそう言った。涼の言葉にかなり不服があるらしい。


 昔からシオンは、何故か涼を天才呼ばわりする。「カッコいい」などといった主観的なものについて言われるのであれば、自身がそう思っていなくてももしかしたら相手はそう感じるのかもしれないな、とある種納得もできそうなものだったが、しかし知性と言った絶対的な指標について、その極地に居るシオンが、正反対の位置にいそうな涼をそう呼ぶのは、昔から不思議だった。今ではそういう冗談として理解しているが。


「けれど、お前がそうやって肩の力抜いて、嬉しそうにしてるのが見れるんだったら、俺に出来ることはなんだってやる」


 涼がそう言うと静寂が訪れた。シオンは口を閉じ、目を見開いている。

 虚数世界で会話が途切れることは気まずくないことを涼は経験的に知っていた。そんなことを気にしていたら、無限の気まずさをこの時空間では味わうことになる。

 

 やがて、シオンは首をかしげて、


「……そんな感じのこと、お姉ちゃんにもよく言うの?」

「なんで急にアカネが出てくるんだ」


 涼はずっこけそうになった。しかしシオンの目は真剣な鋭さを持っていた。


「というかそもそも、二人は今どういう関係なの?」

「どうもこうも、昔も今も、幼馴染の腐れ縁だよ。言っちゃなんだがお前の知ってる頃から変わってないぞ。今だって普通に喧嘩するし、この前なんてあいつ、トイレットペーパーが空になってるのに交換し忘れたら滅茶苦茶怒って来やがって――」


 次の瞬間、涼は例の感覚を味わった。つまり実数世界に帰ってきたときのあの感覚だ。世界が再び振動し始める様子を全身で浴びるような、あの感覚だ。


「何? 急にぼーっとして」


 アカネが訝し気に訊ねて来たのに、涼は咄嗟に答えられなかった。シオンはどこかに行ってしまっていた。

 言葉に詰まっていると、ぴぴぴ、と通知音が鳴り響いた。エメリーからの通信が入ってきた。

『ミハイル・アインスは引き続き、我々と協調してデマ対策や世論治安の維持に貢献し続けてくれています』


 エメリーからの報告に涼はほっと息を吐く。それに流されるように、マグカップから立ち上る湯気がふわりと揺れる。いつのまにかコーヒーメーカーは作動し、中身が注がれていたようだ。

 虚数世界の一大スペクタクルを見てきたあとのはずなのに、むしろこうした些細な変化が前よりも美しく見えることに涼は気づいた。


「それで、次の案件は?」

『かなり明示的に世界秩序の崩壊を企てていたこれまでのものに比べると、緊急性という意味では劣りますが、影響力という意味では大きくなることが予想される。サイオンCTOからのコメントです』

 涼とアカネは顔を見合わせた。ミハイルの際にそのような補足がなかったことを考えると、シオンはこちらの方をより危険視している、ということなのだろうか。


 二人はエメリーからのレクに耳を傾けた。しかしその内容を聞いても尚、それが更なる危機の前兆であることは、その時点では看破できなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る