第十二話 鈴美友、あるいは「システラ」
二〇三六年六月六日 十三時三十分四十四秒
「生命とは、かくも不思議な現象です」
広い講堂に彼女の言葉が響き渡る。響くのは吸音の役割を果たす物体がその場に少なかったからであり、その声を直接耳にしたのはわずか十名程の学生だった。真空崩壊の噂が流れてからはどの講義でもありふれて見られる光景ではあったが、このコマにおいてそれは前からのことであり、彼女にとって目新しいことではなかった。
生物学教授とSF小説家、その二つの肩書を持つ鈴美友(りんめいよう)の講義は、受講者数で出席数を割った比率すなわち出席率がこの大学の中で最下位だった。彼女のその独特な経歴が学生たちの関心を一時的には惹くものの、肝心の講義内容は極めて退屈で、単なる教科書のなぞり読みに過ぎないと評されていた。学問的な態度として、自分が分かっている範囲で学術的に正しいとされていることのみを述べるというのは一定の妥当性を有するものの、学生たちが期待する刺激とはどうしても縁遠くなりがちだった。
「宇宙人は居ると思いますか」「人工知能は生命ですか」「不老不死は実現できますか」。そのような問に、鈴美友は極めて慎重かつ保守的に対応していき、その度に出席者数は減っていった。
それまでの鈴は、そう聞かれる度に思ったものだ。なぜわざわざ、そのような今目に見えていないものを求めるのだろうか。今この地球上に広がっているありのままの生命ですら、まだ人類にとって未知の美しい世界が無尽蔵に広がっている。その貴重でかけがえのない美しさに目をやることのできない人類の、なんて愚かなことだろう、と。
だが、彼女のその姿勢は真空崩壊を境に一変する必要に迫られた。六月六日の講義、彼女は一つの決定を携えた上で望んだ。
それはいつもと同じような教科書的な題目で始まった。だがその後、普段と異なる展開を見せた。
「では、高度に発展した生命文明は、宇宙の死という事実に直面したときにどのような反応を見せるでしょうか」
出席した学生たちは、目の前の教授が話し始めていることが最初全く理解できなかった。だがやがて、それが何らかの全く新たな考えを提示していることを覚り、そしてその内容をノートに写し始めた。
『高度に発達した文明が一様にたどり着く結論がある。それは、自らの文明は有限であり、いつか終わりが到来し、それを避けることはできない、という物理学的な事実である。
その事実に到達した文明は、その全体がいわゆる虚無主義状態へと陥り、実体的な文明の発展も終わり、精神的にも物理的にも膠着状態へと陥り、そして衰退し、滅亡する。いわば文明全体がうつ状態となり、死へと至るのだ。
もっとも、観測可能な文明以外にも数多と文明は存在する。だが高々他の星系から観測できる程度の強い出力で自らの痕跡を残すに至った文明達は、自種族間での滅亡戦争や天体単位での事変を除いては、そうした存在存続の病に倒れていた。
そしてシステラも、その例外ではなかった。
システラは某銀河内の標準的な惑星に誕生した炭素生命体を祖先とする情報生命文明だ。今は主星に飲まれ消滅したその惑星の名を引き継ぎ自称とするシステラは、炭素の殻を脱ぎ捨て、今空間を媒介とした情報圧差通信により思考し、増殖し、文明の営為を培っている。
物理的な厄災の一切から開放された当初、システラは自らが無限の命を得たと考えていた。だが程なく、存在の病がシステラを襲った。システラはこの宇宙の過去から未来に至るまでを精密に計算することができた。それは言い換えれば、今を認識するのと全く同じようにして未来を理解するということだった。それがたとえ数兆年先の出来事であろうと。
システラはその処理能力が故に、常に宇宙の滅亡が確固たる事実として待ち受けていることを意識しつづけることとなった。炭素生命であったころにはもっと卑近な寿命が存在していたわけだが、それはその個体の認知処理能力にとってみれば十分に先の話か、不確定なことであった。だがシステラは現在、今この瞬間も直後の死を感じ続けている。それまでの猶予は無限のように長く思えども、決して無限ではない。
そこに至ってシステラは気付いた。「死の克服」は誤りで失敗だった。それは自らにとっての終焉を、曖昧で確率論的な「死」から、純粋に決定論的な「無」へと置き換えてしまうプロセスでしかなかった。「無」に生命は耐えることなど出来ない。あまりにも絶望的な無を覆い隠すベール、あるいは衝撃を和らげる緩衝材として「死」は機能してくれていたにも関わらず、システラはそれを障害と見誤って取り除いてしまった。後悔をしても最早、彼らが死を取り戻す手段は自死しかなかった』
現在ネット上で熱狂的な流行(バズ)を見せている短編小説の一部だ。永遠の生命を得たはずの地球外生命が、しかし宇宙という自らが住まう器そのものが滅んでしまうことによって終わりを迎えてしまうことに、果てしない虚無感と絶望感を覚えてしまうという、大層鬱屈とした内容だった。しかしそれが漠然と漂う人々の恐怖心を上手く代弁していたのか、多くの人がこぞって読んでいた。
著者は生物学教授の鈴美友なのだというが、一読した限りではそれがミハエルよりも大きな脅威であるとは涼には思えなかった。
「初めて読んだが、シオンが見れば激怒しそうな内容だな」
『ご存知なかったのですか? 仮にも、SFコンサルティング会社を名乗っているのに?』
流行りを知らないという涼に、あからさまにバカにするように大仰に驚いてみせるエメリー。どうやら彼の涼に対する心象はやはり悪いらしい。
涼は手をひらひらと振って受け流した。本音で言えば、普通のコンサルティング業務を行っていた日常は体感時間で言えば数十年とか数百年単位で昔のことであり、今でもなんとかその体裁を精神とともに保っているだけでも褒めてもらいたいくらいであった。
「アカネ。お前は知ってたのか?」
「当たり前でしょ。あたしの一個前にSFコンペの大賞取ってる人だし。理系畑の人が書くSFって、あたしみたいな文系が書くものとは違う緻密さとリアリティがあって、中々自分のを書いてるときに気持ちが折れそうになったのをよーく覚えてる」
「で、これが一体どう悪影響を及ぼすんだ」
すると涼の予想に反し、彼女は深刻そうな表情を浮かべていた。
「まずひとつに、これが虚無主義の蔓延に寄与して、自殺者を大量に出す可能性がある」
涼は再び文章をまじまじと見た。確かにこの文章は、「無」よりも「死」を称揚し、それに至る道を提示しているように見える。
「……飛び降りなら交通事故と同じように、APIの設定をすれば助けられる。だが密室でそれをされると困るな」
「そんな場当たり的な話じゃなくて、根本的に生きる気力が失われること、未来に絶望すること、そしてそれを良しとすること、それ自体が問題。しかもそれは、二つ目の大きな問題に繋がる」
「なんだ?」
「虚数世界への移住後の統治。それへの影響」
移住後の、統治。涼はその言葉を繰り返してみた。部屋に数多と並べられたホワイトボードの内容から、ここ最近のアカネの注目がその方面に割かれていることは涼も承知していた。
「シオンがどこまで考えているのか分からないけれど、八十八億人が一気にこれまでと全く異なる秩序の世界に移住することになる。なんの準備も為されない場合、それは途轍もなく大きな混乱を招く可能性がある」
「ミハイルのときに使ったのと同じ論法だな」
一斉に発生する八十八億の難民は、例え迎え入れてくれる土地が無垢であろうとも、すでにその集団の規模自体が諍いの巨大なリスクとなる。果たして人類は、そのような環境下でも整然と振る舞えるほどに十分に理性的な存在として今ここにいるのだろうか?
「この小説で描かれていることは、ある意味での究極的な虚無主義。死や生といった概念すらも全て消え失せてしまうことが選択の余地無い決定論的なゴールであって、どうやっても永劫に続く価値を残すことは出来ない、という考え」
「だがそれは、虚数世界では異なるんだろう? だって、時間は止まってるんだ。老化や死は、人にも宇宙にも訪れない。違うか?」
「そう信じる者も居れば、居ない者も居るでしょうね。今でさえ、正しい一つの正解に対して、世界の意見は二分されているんだから」
涼は呻いた。そうして分裂していきそうな世界を繋ぎ止めるために心と身体をすり減らしている記憶が生々しく蘇る。
「その混乱を加速させるのが虚無主義。どれだけ計画が永遠の存続の場を用意しても、これを読み影響を受けた多数が永遠に対して不信を抱けば、人々はそのようにはならない。これは真空崩壊亡き後の新たな陰謀論の萌芽に成り得る」
「……一体鈴は、何のためにこんな小説を書いたんだ?」
涼は印字された、原稿用紙で一五枚程度のその短編小説を読んだ。機械翻訳されたような自然な文体なのはおそらく実際に翻訳を通したからなのだろう。この小説が世界の七十の言語に翻訳されて出回っているのが確認されているとエメリーは補足した。アクセス解析によれば既に地球人口の十%程度は目にしているのだという。
「筆者の気持ちを考えるのなんて、大学受験のときだけで十分だと思うんだがな」
「あたしたちは、他人が勝手に考えた答えに合わせに行く必要がない。直接聞きに行けばいい」
鈴の授業の様子はインターネットで違法配信されているためその様子を伺うことが出来たが、極めて平凡な大学講義といった様子で、そこに潜り込むことは全く容易そうに見えた。
「今回もミハイルのときと同じような、一番手っ取り早いアプローチを取りたい。つまり、発信者本人に訂正をさせる。真空崩壊は克服の道筋が立っていて、永遠に終わりが訪れない世界の実現に向けて、動いていると」
「どうする? 今度はお前が小説を書いて、鈴教授に査読して貰いに行くか?」
「あたしに三週間くれるならそうするけど」
そう言いながら、涼は何かに引っかかりを覚えた。何か重要な確認を飛ばしているような気がした。
それはそもそも論だった。
「……何? 言ってみて」
突然黙り込む涼に、アカネは言葉を促した。冗談を言い合っているときとは異なる、有る種の期待を込めた視線。シオンが向けてきたものと同じそれは、涼のそれまでの自信を支えてきたものだった。だが今、それに恐怖を感じる自分を涼は見つけた。素人の横やりの影響範囲は、今や世界の存亡にまで及びつつある。
なんとかその恐怖を振り払って、涼は考えを述べた。
「俺が違和感を持ったのは、どうやら先程俺自身が言ったことについてらしい」
頭を振りながら、
「つまり。虚数世界は、本当に永遠なのか?」
「……この期に及んで?」
「シオンは俺たちに時間停止について、比喩を駆使しながら説明してくれたよな。これはつまり、並行世界を移動するためのGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)のようなもんなんだと。俺たちが自分の意志で望む状態の並行世界に至るために、変数を一つずつ操作して、それによって世界が変わっていく様子をブラウジングしているのだと。……だけどこれは原点となる世界と、目的としたい世界が存在する場合に成り立つ説明だ。それ無しに、無限にブラウジングし続けることなんて可能なのか?」
その考えがどれだけ根本的な指摘なのかを考えるほどに、涼の手は震えていった。
「だってそうだろう。シオンの言ってることはつまり、こうやって停止時間内で物事を経験した、という記憶を持っているような並行世界に俺たちが到達することで、時間停止内であたかもあれこれ出来たように感じられる、ということじゃないか。つまりこの世界での記憶や経験は、時間が再び動くことを前提にしている。時間を永遠に止め続けるなんて、そんなこと出来るのか?」
アカネは絶句した。その疑問は、計画そのものを土台から崩しうるものだった。
クライアントの提示する前提に疑義が生じては、検討を先に進めようにも進められない。世界の寿命を差し出す覚悟をした上で、涼はシオンに電話をかけた。
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