第四話 時間停止、あるいは虚数世界

二〇三六年六月二日 十一時五十二分一秒


 Sion Otiroサイオン・オシロという文字列を見て、これまでそこから織戸シオンのことをなぜ連想できなかったのか。それを悔いる気持ちがなくもなかったが、そんなことが些事に思えるほどに、眼前の彼女の存在は涼の心を怒涛のように揺るがした。

「一体、お前、どうして」

 言葉がうまく紡げなくなっている涼を見て、シオンは悪戯っぽく微笑んだ。黒い長髪はあの時よりも艷やかで、その瞳は自信と光に満ちていた。シンプルなビジネス・カジュアルの格好を、首元の紫のチョーカーがアクセントとして引き締めていた。

 がたん。

 しかしアカネが勢いよく立ち上がるとシオンは笑みを消した。アカネは勢いそのままツカツカとシオンに歩み寄る。

 黙ってじっとシオンを睨むアカネにたじろぐシオン。暫くの沈黙の後、ついにアカネは噴火した。

「突然姿消してそこから十年間も音信不通にしておいて、こんな巫山戯たドッキリみたいな形で再会なんて、バカにしてんの!?」

 叱責にシオンが首を縮こませたが、正面からはいざ知らず、涼の方から見たアカネの肩は、終わりしなには震えていた。

「……心配かけてごめん、お姉ちゃん」

 そうシオンが言うや否や、アカネはひしとシオンを抱きしめた。シオンはくすぐったそうにしながらもそれを受け止めた。

「……だいぶ香水臭いね」

「うっさい」

 そう言いながら、アカネはしばらくシオンを抱きしめ続けた。涼はそれを見ながら、どうやら本当に織戸シオンがこの場に帰ってきたらしいということを胸中で消化し始めていた。


 織戸シオンは渡米後、MITで研究、とはならず、すぐにScooLからスカウトをされて入社。SQCなどの分野での研究に従事、メタバース事業の立ち上げ、ドローンネットワークの改善などを経たのちに昨年CTOに就任する運びとなったのだという。異例の若さでの就任となったが、ScooLの技術開発の根幹を担うようになっていたシオンに有形無形の様々な脅威のリスクが降りかかることを避けるため、サイオン・オシロという架空人物を作り公表することになったと説明した。

「事実は陰謀論よりも奇なり、ってところか」

 そう話すとシオンは苦笑いした。

「でも、そのおかげでここまで来れた。私は世界最大のテック企業の資源や資本を差配する立場になった。ScooLとは特約を結んでいて、そのおかげでわたしの研究開発の内容は特恵的な待遇をされてる。要するに、誰にも何も言われない立場ってこと」

「織戸シオンが?」

 あの天才が、そのような立場を得た日にはどうなってしまうのか、そんな気持ちを込めた涼の言葉に、シオンは悪戯心に満ちた笑みで応じた。

「そう、織戸シオンが。その結果こそが、今日ここに二人を呼んだ本当の理由」

 高橋本部長も当然預かり知らないというその話に、涼とシオンはいよいよ身構えた。

「けど、どう説明しようかな……。本当、話すべきことはすごくたくさんあるし、混み入ってはいるんだけど……うん、じゃあこんな感じで伝えようかな。ええと、涼くんさ」

「なんだ?」

「良いニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」

「じゃあ、良いニュースから」

 即答したが、アカネにとっては意外な反応だったようで、

「ええっ、どうして」

「どうしてってお前、その聞き方された時のお約束だろ、良いニュースから聞くのが」

「あ、そうなんだ。それは知らなかったな……悪いニュースからでもいい? じゃないと話の流れが変になっちゃうから」

「まあ、じゃあそれで頼む」

 こほん、とシオンは咳払いをした。

「さっきの話だと、二人とも偽の真空とか真空崩壊って概念についてはご存知ってことでいいよね」

 それなら話は早いんだけど、とシオンは前置いて、


「真空崩壊は本当に発生している。ここから五光年先で発生したのが、NASAやScooLの合同研究チームによる観測で確かめられた」


 無言。

 そして無音。

「……それは、俺たちが知っている意味のか? つまり、噂は事実だって言いたいのか?」

「両方とも答えはイエス。実際に観測されたの、宇宙で真空崩壊が起きているまさにその様子が。理論的な予想とかそんなんじゃなくて、ちょっとここから離れた場所……いて座の方だから……あっちの空の方で、もうどんどんこの宇宙は壊れてる」

 シオンはそう言って天井の一方向を指さした。そして事も無げに、

「もう実際には発生源の周辺の星系なんかは飲み込まれちゃってる」

 と言った。

「飲み込まれたら、どうなるんだ?」

「どうかしらに『なる』、っていう状態すら取れない。少なくとも既存の私たちの宇宙の論理が完全に破壊されるような、そんな状態になるって言える」

「……ブラックホールみたいなものか」

「もっと酷い。ブラックホールからはまだエネルギーや情報を取り出せる余地がある。なんだかんだ、この宇宙の存在だからね。けど真空崩壊は違う。全て、この宇宙をこの宇宙たらしめている要素全てが消し去られる。そしてその波は無限に広がり続ける」

「つまり――宇宙が滅ぼうとしてるってことか?」

「そういうことになるね」

 余りにも間が抜けていて、雑な問い。しかしシオンはそれを肯定した。

「真空の相転移が連鎖して、この宇宙全体の真空のエネルギーが解放され尽くすまでそれは終わらないだろうね。つまり、この宇宙は全てが真空崩壊に飲み込まれる。遅かれ早かれ。最も、その影響も光速で伝わるから、数百億光年はあるこの宇宙の全てが飲まれるのは遠い先のことかもしれないけど」

「ニュースでは真逆のことを言っていた。この宇宙は真の真空で、真空崩壊は起こり得ないのだと」

「嘘だよ」

 あっけらかんとシオンは言い放った。

「真実を公表すれば世界は確実に混乱の真っ只中に陥る。場合によっては真空崩壊が到達するよりも前に多大な犠牲者が出るかもしれない。従ってScooLとNASA、アメリカ合衆国政府は、この事実を秘匿して、カバーストーリーを流すことを決定した。それが今から二週間前のこと」

 アカネは鼻を鳴らしながら、

「大した情報統制力じゃん。そんなの、一瞬でリークされそうなもんだけど」

「お姉ちゃんの懸念のとおりだと思うよ。最初この情報は研究チームの中でしか共有されていなかったけど、正式な判断を仰ぐために各組織の意思決定機関や米国政府にも連携された。それでも根幹情報については秘匿しておきたかったのに、ついに大統領府からの開示命令に折れて、具体的な観測データを開示した。それが一時間前。その過程で必ずこの情報はどこかにリークしたはず。多分数時間以内にはアメリカ大統領が見れるのと全く同じセキュリティーレベルの情報を、全世界の人間が閲覧できるようになる。この時代、人の口に戸を立てるのは不可能だからね」

 涼は、もう何杯目になるか分からない烏龍茶を飲み干した。何も言えなくなっている涼と対象的に、アカネは噛みつき続けた。

「それにしても天文学的な確率の現象が、たったの五光年先で発生? そんなあまりにも、人類にとって都合が悪すぎることが本当に起きるの?」

「それは人間原理だよ、お姉ちゃん。この宇宙が偽の真空の状態にあるってことは、宇宙のどこでも真空崩壊が起きうるってこと。実際には宇宙では真空崩壊がありふれて発生していて、そのうち最初に人類が観測するのに成功したのがこの真空崩壊、ってふうに考える方が合理的だと思うな」

「二人とも、ちょっとストップしてくれ」

 涼は手で二人を制した。

「シオン。そんなことを前もって教えてくれてありがとう。それに、それに気づいてくれたことにもありがとうだ。アカネはこんなこと言われてもそうやって頭働かせられて、改めて敬意を払いたい。けどさ、待ってくれよ。そんなサクサク進めていい話か? 正直俺は、あまりにも恐ろしすぎて脳みそ自体が理解を拒んでる。世界が滅ぶんだぞ。それも、あとたったの五年で!」

「ううん、違うよ涼くん。違うんだよ」

 シオンが首を横に振ったのを見て、涼は一瞬安堵した。今までのそれが単なるジョークであった、というネタバラシが来ることを期待した。

 しかしそうではなかった。


「――あと二週間で、なんだ」

 とシオンは言った。思わず涼はコップを取りこぼした。おかわりが注がれていたような気もしたが、そこから液体が零れた音は涼の耳には入らなかった。

「何言ってるんだよ。さっき、五光年先で、って」

「発生したのが五光年先、ってだけ。その発生からもう四年と五十週間が経ってる、今日時点で。真空崩壊の波はもう二四二〇天文単位……ここから三六〇〇億キロメートル先の宇宙空間まで来てる」

「本気で言ってるのかよ、お前」

 シオンは真剣な面持ちで頷いた。

 涼は天井を仰いだ。当然何も見通せない、見通せないがその先で起きているのだという。真空崩壊が。しかも五光年、つまり三六兆キロメートル先ではなく、その百分の一程度の距離にまで迫っているのだと聞いた途端、急に強烈なプレッシャーを空間が放ちだしているように涼は感じた。

 アカネは今度こそ押し黙った。彼女もまた、シオンの告白に動揺を隠しきれていない様子だった。

「どうすりゃいい」

 ようやく涼の口から絞り出されのは、力ないそんな虚ろな声だった。


「それを考えるために、わたしは研究していたんだよ」


 涼は顔を見上げた。シオンは微笑んでいた。

 それを見て涼は今度こそへたり込んだ。安堵からくるものだった。

 彼女は、この世界が滅ぶ定めから逃れようとしている。真剣に。

「……知ってたのか? 真空崩壊が起きることを。あのとき、あの瞬間から――!?」

「ううん。そうじゃない。でも涼くん、思い出して」

 シオンは涼の手を握った。

「宇宙はいつか滅びる。いつかっていうのは、本当にいつかわからないものなんだよ。いつか必ず終わりがくる。何ならそれは宇宙の寿命とすら関係ない。私たちは今この瞬間にも、何かの事故や病気で自分や大切な人を失うかもしれない――だからこそ、それを止めるための手立てを確立しなくてはならない。そのことに気付いて以来、それがわたしにとっての至上命題となった。だから真空崩壊のことを知っても、わたしはまだ前を向いていられる」

 シオンの言葉に未だ動揺を続けている男を横目に、アカネは冷静さを取り戻しつつあった。眉を顰め、

「……あたしが聞きたいのはそこ。あんたのそのタチも質も悪いジョークには、笑えない矛盾がある。まだ三六〇〇億キロメートル先『までしか来てない』真空崩壊を、どうしてあんたが今知ってるわけ? 真空崩壊が発生している、という情報が、真空崩壊そのものよりも早く届くことはないはずなのに」

 アカネの指摘は妥当なもので、それはまさしく一般にも論じられているものだ。真空崩壊は、津波や隕石衝突の衝撃波とは異なる。真空崩壊の発生を知覚する瞬間には、既にそれを観測した主体が存在する場所までその崩壊が到達していることを意味するのだ。

 すると「二週間前の察知」というのは余りにも遅いタイミングのようで、しかし汎ゆる物理的な制約を無視しているほどに早くもあった。

「それを説明するためにも、ちょっと移動しようか」

 そういってシオンは立ち上がり、部屋のドアを開いた。涼とアカネは顔を見合わせるが、扉を出て歩いていくシオンの背を追った。

 店内は不気味なほどに静まり返っていた。本部長はもう帰ってしまったのだろうかと涼は思慮した。

「そもそも真空崩壊は、お姉ちゃんの指摘通り二つの段階に分けられる。量子論のトンネル効果によって生じる発火の段階と、膨大な真空のエネルギーの放出によって引き起こされる連鎖反応の段階。連鎖反応の段階に至ると、放出されたエネルギーが周りの偽の真空に影響を与え、それが真の真空に相転移するという現象が繰り返され続けていく」

 シオンはレジの向かいの白い壁に、ペンで大きなグラフを書き始めた。そんなことして大丈夫なのかという問いに対し、この店はもう買収済みなのだとシオンは笑った。それが本当かどうかは判断のしようがなかった。

 それはちょうどアルファベットのWに丸みを持たせたようなグラフで、四次関数のグラフのようでもあった。縦軸にE、横軸にφが置かれたグラフに、E=f(φ)と付した。双子の底の高さが同じものと、高さが異なるものが二つ書かれた。

「本当は仮にこの世界が偽の真空状態だったとしても、真の真空との間にある壁が放出エネルギーと比べて十分に高ければ、この連鎖反応は起きない。世界は沸騰はせずに少しずつ蒸発して乾いていくだけになるわけだけれども、残念ながらそうではなかった。もうこの宇宙は、連鎖反応段階に至っている」

 高さが揃っている方に罰印が大きく記される。残った、高さの異なる底のグラフ。このうちの高い方の底に今の宇宙の状態はある。

 もともと人気の少ない店内だったが、殊更一層の静けさに包まれている。その中を三人が進んでいく。

「一方で、純粋に量子論的で確率論的な現象である発火段階に比べると、連鎖反応段階はとても古典的な物理現象と類似している。それは波動のように広がり、振る舞う。だからその止め方についても、そうした古典的な事象と同じように考えてゆける余地がある」

「発火は止められなくとも、連鎖反応なら止められる、と? 例えば、逆位相のものをぶつけたりって話?」

「もっと汎用的な手段があるよ。そもそも、世界がそのような形で崩れていってしまうのはなんでだろう?」


 店の外に出ると、シオンはビルの階段を上に上に登り始めた。二人はそれに着いていくほかない。

「真空崩壊にしろ、熱的死にしろ、全ては同じ原理原則、つまり世界は最も安定し均衡した状態へと収束していく、という原理に基づいている。物理法則も化学反応も、社会経済の現象も天体の移ろいも、全て。裏を返すと、私達が感じている『今』というのは、不安定から安定、秩序から乱雑へと形か崩れていくその過程でしか無い。そしてそれは生命という秩序についてもそう。生という秩序が、死という無秩序に向かって崩れていく。このプロセスを止めれば、全ては解決する」

 まさか、という思いがよぎった。

 薄暗い階段を登る、その足音は全く響かない。それが不気味だった。空気が震えることをやめてしまったかのようだった。

「そのプロセスは、時間と呼ばれている」

 屋上階にたどり着く。一枚の扉の前に立ち、シオンはドアノブに手を掛けた。

「だから私は、それを止める手立てを考えた」

 錆びついたドアは、やはりというべきだろうか、軋む音一つも上げずに開いていく。

「ようこそ、時間が止まった世界――虚数世界へ」

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