第五話 理論、あるいは講義

 雨が降っていた。いや、降っている。それは間違いなく現在進行形の出来事だった。だがその光景を見て涼が抱いたのは、ついに天気が崩れてしまったか、などという牧歌的な感想ではなく、もっと鋭く鮮明な驚きだった。


 雨は降っている。いや、降ろうとしてた。だがその雨粒は、道の半ばで力尽きてしまったかのように動きを完全に止めてしまっていた。つまり、全て中空に浮いていた。まるでスーパースローカメラで撮った映像をポーズして見ているかのように、雨は線ではなく粒としてそこに留まっていた。


 シオンはそれを意に介さず、まるで草木をかき分けていくかのように手で払いながら進んでいく。シオンの手に触れた雨粒はそれに従って脇へと寄せられ、シオンが手を離すとまたその位置に留まった。


 涼とアカネは、ゆっくりとシオンの後ろをついていきながら世界を見渡した。そして見慣れたはずの世界が、これ以上無いというほどに違和感に満ちていることに気づいた。青空に浮かぶ雲は全く形を変えない。先程喫煙室で見たタバコの煙のように、不安定なはずの輪郭を全く崩そうとしなかった。

「……見て。あそこ」

 アカネが頭上を指さした。それはいよいよ風が止まっているとかそういう現象では説明できないもので、つまり鳥が浮かんでいた。そう、飛んでいるのではなく、浮かんでいた。彼らの頭上の空で、羽も、位置も、微動だにせず静止している。まるで写真の中に閉じ込められてしまったかのように、だ。

 周囲を見渡す。鳥と同じように静止するドローンというのは見慣れたものだった。問題はそこから投下されている宅配便の荷物で、それもぴたりとワイヤーで吊るされているかのように浮かんでいた。そしてそれに手を伸ばす人間は、パントマイムか彫像のようにピタリと静止していた。見下ろした範囲、外に広がる渋谷の裏通りには傘を差しながら自転車に乗る青年、ねずみ色だったろうスーツをぐっしょり真っ黒に濡らしている中年サラリーマン、柴犬を散歩するレインコートの主婦が、いずれもそのままの格好で静止している。犬もまた、ピクリとも動いていなかった。

 それらを的確に表す言葉として「時間の停止」という表現はこれ以上無く適切だと涼は思った。もしそれを飲みくだせれば全て収まり良くなるだろう。だがそれは涼の喉を通るにはあまりに巨大すぎる説明だった。それこそ、真空崩壊により宇宙が滅びかけているという話と同じ程度に。


「――それじゃあ、これはお前が?」

 空の中で同じ場所に静止し続けている鳥や雲を仰ぎながら、絞り出すようにそう言った。

「信じられないかもしれないけど」

「……信じたいとは思っているけど」

「あたしは信じたくもないけど」

 即答するアカネ、苦笑いするシオン。

「だよね。すぐに信じてくれるとは流石に思ってないよ。ということで実演するよ。こうすると時間が動き出して」


 瞬間、感覚の全てが揺さぶられた。鼓膜が揺れ、網膜が照らされ、鼻孔は乱され、皮膚が震える。一瞬のうちに復活した五感が怒涛のように体に流れ込み、意識が遠のく。


「で、こうすると止まる」

 そして次の瞬間には全てが凪いだ。


 凍りついたような静謐と対照的に、狂ったように混乱する脳内。胸に手を当てると、鼓動が早鐘のように鳴っていた。

「気持ちわりい……」

 涼は思わず倒れ込んでしまっていた。見ればアカネもよろめいて、苦しそうな顔をしている。

「ご、ごめんごめん、そっか、二人は初めてだもんね……わたしはすっかり慣れてたから油断してた。止めてる状態から動かすと、そうなっちゃうんだよね」

「じゃあ、今この瞬間に全人類がこんな感覚に襲われたってことか?」

 そんなことなれば、次に時間を再び動かし始めたとき、世界中がパニックに陥っていることだろう。

「それは大丈夫。あくまで、虚数世界に一緒に移った人……一緒に止まった時間を観測している人しかこうはならない。それ以外の人たちにとっては、なんでもない。だって時間が止まっているから」

「――時間が止まってるんだとしたら、なんであたしたちが動けるわけ」

 苛立ちを隠そうともしないアカネが、そう指摘した。腕組みして、指でトントンと肘を叩いて、今にも爆発しそうだ。しかし確かにその通りだと涼は頷いた。なぜ自分の心臓は止まっていない? それは数年前アカネから突き付けられ、答えを出せなかった問いだった。シオンはそれにどう答える?

 出てきたのは少し不明瞭な答えだった。

「正確には止まっているのは時間ではなくて、実数時間だから、って言っても分かりにくいよね……でも、そういうことなんだよね。実軸じゃない、虚軸に平行な時間が今流れてるってことなの」

 アカネは組んだ腕を解かないまま、眉をぴくぴくと動かした。

「……虚数の時間でも流れてるってこと? ホーキングの受け売りだったら、そういうのじゃないでしょそれ」

「英語だと確かにimaginary timeだから同じに聞こえたかもしれない。けどわたしは、ホーキング博士のは”虚時間”って呼んでて、わたしの考える”虚数時間”とは区別してる」

 専門用語のようなものが出て来て置いてけぼりになる涼。それに気付いたシオンは「ごめんごめん」と微笑んで、

「ちょっと時間を動かして説明した方が分かりやすいかな。動かすよ? 三、二、一」


 そうして、何でもないことのように時は再び動き始めた。身構えていたのが功を奏したのか、涼はさきほどよりも幾分かマシにそれをやりすごせた。周囲を見ると、散歩していた主婦や犬やらは、やはり何ごとも無かったかのように歩き回っていて、秋葉原の街の喧騒がいつも通り空気にこだましていた。


「じゃあこれもさっきみたいに、図で描いて説明するね。まず、これが私たちの時間」

 シオンは手を左右に動かし、中空に一本の真っ直ぐな横線を引っ張った。そしてその向かって右端に「t」と付した。VisoRのAR機能で描かれた直線だ。

「左の方が過去で、右の方が未来。左から右へ進むと、時間が進んでいく。ここまでは大丈夫?」

「まあ、何となくは理解できる」

「いいね。で、次になんだけどね。並行世界って聞いたことあるでしょ」

シオンは直線tに平行な横線を何本か引いた。一つ上にtダッシュ、そのもう一つ上の線にtツーダッシュ、と記号が振られていく。

「並行世界は、わたしたちの世界と並列するような形で存在する別の世界。エヴェレット 解釈がどうとか、猫がうんたらとか、そういうので涼くんも聞いたことあるでしょ」


 涼はぼんやりと頷いた。仕事柄そういったものに触れる機会もあるが、そこまで詳しくなく、それを題材にしたアニメや漫画をいくつか連想できる程度の知識ではあった。


「この並行世界は無数に存在して、わたしたちの世界に近いところは少ししか違わないけど、離れれば離れるほど、その世界の状態はわたしたちのこの世界と異なっていく。これは、なんとなくわかる?」

「……直感的には正しそうに聴こえるな」

「でも直感通りの理解で合ってるんだよ。この図で言えばtダッシュはわたしたちの世界tよりちょっとだけ変化した世界で、tツーダッシュは更に大きく変わった世界ということになる。ただ、並行世界の実像を理解するには、そっから更に踏み込む必要がある。具体的には……並行世界っていったら、どんなものを思い浮かべる?」


 シオンと目が合い、涼は授業で先生に指名されたときの気分を思い出した。

「そうだな……例えば、歴史上の出来事の結果とか勝ち負けが逆転している世界だとか、科学の代わりに魔法が発達している世界とか、社会のルールが異なる世界とか……」

 全く別の世界に飛ばされて、そこで大冒険を繰り広げる物語が真っ先に連想された。

「もっと細かいパターン、想像できる?」

「細かい?」

「……人の関係が違うパターンとかもある」

 困っていたところにアカネがカットインしてくれた。

「ある人が違う相手と付き合ってるとか、友達だ、とか。あるいは性別が入れ替わっているとか、社会におけるある当然のルールが別のものに置き換わっている、とか」

 これは先ほどのものにくらべると少しニッチではあるが、一つの要素が逆転してたり、変化してたりして、それがどのように世界や自分の考えに変化を与えるか、というのを描写したりする。いわゆる思弁小説スペキュレーティブ・フィクションに近いものだ。これなどは、SFコンサルなんていう仕事をやらない限りは涼はきっと一生知らずにきていただろう。


「さすがお姉ちゃん。うん、そうなるよね。でもさ、それってまだ粗いと思わない?」

 首をかしげる涼。大規模な変化が生じたパターンに、小さな変化が部分的に発生したパターン。並行世界を取り扱った物語の類型としては、十分に分類で来ているようにも思える。

「冷静に考えてみて。そもそも量子論は、量子の振る舞いが確率論的に示されるところから組み立てられている。そしたら並行世界のスケールだって、そのスケールから存在しているはずじゃない?」


 その言葉に、アカネの眉がびくりと動いた。

「……並行世界が、量子のゆらぎの単位で存在するって言いたいわけ?」

「うん。並行世界は、ある一つの量子の分布、その一つ単位で存在する。それを前提にしたら、さっきの例よりもっと細かい単位の並行世界が存在することになる。極端な話、ただ今この瞬間、わたしが右手を開いているか、閉じているか――それだけの違いしか無いような並行世界だって存在するってこと」

「どういうことか、もう少し説明してくれないか」


 それに対応してくれたのはアカネだった。

「この世界は素粒子で作られているけど、素粒子は粒子であると同時に波でもある、量子と呼ばれる性質を持つとされている。この波の性質っていうのが厄介で、つまり、ある一粒の素粒子の位置っていうのは、手で投げたボールの軌道とかと違って、ある時刻にある一点、この場所に存在しているという風に場所を示すことはできないの。それが観測されるまで、ある時点ではここにある確率が20パーセント、ここにある確率が80パーセント、みたいに確率的にしか表現できない。これが量子のコペンハーゲン解釈と呼ばれるもの」


 二重スリット実験のことなどは涼も知っていた。量子の性質を示す奇妙な実験。量子の存在確率の波が干渉しあうことで作り出される干渉縞。それを暴こうと観測装置を入れた瞬間に干渉縞が消えてしまう不思議。初めて聞いたときは混乱が収まらなかったのを覚えている。


「一方で多世界解釈は、量子の存在じゃなくて世界そのものが複数存在していると捉える。粒子がある場所にある世界と、異なる場所にある世界とが存在していて、観測によってどちらかの世界に自分が居るか決まるってこと。並行世界の話によく応用される話だけれど、シオンの言う通り、この仮説の通りに並行世界を考えるんだとしたら、それこそ量子一粒の位置の単位で並行世界が存在することになる」


 そこまで聞いて、ようやく涼にもなんとなくイメージがつかめてきた。

「分子を作っている原子、それを作っている電子や陽子や中性子、その更に細かいパーツが素粒子。その一粒一粒の位置の数だけつったら、今この瞬間に、少なくとも全宇宙の素粒子の数よりも多い数の並行世界があるってことになるのか?」

 盲点といえば盲点だった。そうなれば、人と人の関係が異なるようなレベルの並行世界をシオンが「粗い」と評した理由はよく分かった。それまで捉えていたような並行する世界同士の間には、もっとギュウギュウに様々な、それこそ無数に思えるような並行世界が充填されているのだ。


 純粋に感動していた涼に対して、やはりアカネは懐疑的な姿勢を崩さない。

「けれどそんな別の世界なんてものは原理上確認のしようがないし、そんなものを仮定しなくても量子力学は説明できるから、多世界解釈は傍流の議論とされてる。無意味に世界を仮定することは『存在論的な浪費』なんて批判すらある。そんなものを持ち出して、一体なんの嬉しいことがあるの?」

 そのような些末な違いのみしか無い並行世界が、それこそ数多と存在したとして、一体何だというのだろう? なぜシオンは、それを指摘したのだろう?


 アカネの問を受けてか、それとも無視しているのか、シオンはtの右の端にバツ印を書いて説明を再開した。

「この線は右に向かって無限に続いているように見えるけれど、残念ながらそうじゃない。ある段階で宇宙の終わりが訪れてしまう。それはここに仲良く並んでいる、どの横の線の場合でも同じ。つまり、右に進む限りは必ず終わりが来る」

 世界には終わりがある。かつてシオンが恐れたこと。そして今シオンが、克服しようとしていること。

「じゃあ、どうすればいいか?」

 涼は吸い込まれるようにシオンの手の先を目で追いかけた。その細い指がするすると動く。真っ直ぐな線を再び描いていく。

 だが今度は横ではなく、縦だった。


 複数のt軸を一閃するような線がそこに現れた。

 

 シオンはその上端に「i」と付した。そうして生まれたti座標平面を指差し、

「私たちの時間、実数時間t。それに対して垂直方向に進む時間。ガウス平面の虚軸方向に存在する“虚数時間”。この方向に進むことができれば、終わりの日を迎えずに済むことができる」

 と言った。

 そのすべてを貫くような真っすぐな線は、単なる座標軸以上の何かを感じさせた。それは力強く、神秘性を帯びていた。

 虚数時間。実数時間と異なる方向へと進む時間。


「時間はこの宇宙を構成する次元の一つとして定義されてるよね。でも、空間が最小でも三次元あるのであれば、時間が多次元あっておかしくはない。理論上長らくそう考えられてきて、色々な計算もうまくいくことが確かめられていたけど、それが実際に観測できるとしたらどうなるか、という思考実験からわたしは出発した。そして虚数時間軸の理論仮説にたどり着いて、そしてそれを実際に観測するための技術を完成させることができたの」


 複素数平面。実数と虚数単位の組み合わせである複素数、そのようすを記述するためのグラフ。高校数学の授業を思い出しながら涼はシオンの話に耳を傾けた。


はつまり、任意のt、いわばt=tnのグラフ上を走査する装置。今、わたしたちがいる世界をt軸として、今をtnとしよう」

 横軸tの右側に、tnという点が打たれる。

「この直線t上のt=tnの時点で時間を止めてみたとするよ。この瞬間、いまt軸の世界に居る涼くんの目の前にコップがある。コップの中のジュースを飲みたいときは、まずどうする?」

「どうするって……コップを、手で持つ、だろ」

「正解! で、さっきも言った通り、並行世界にはあらゆる細かな可能性の世界が存在する。だから同じ二〇三六年六月二日 十二時五十分三十二秒……つまりtnでも、今みたいに涼くんがコップをまだ持ってない世界tと、コップに向かって手を伸ばしている世界tダッシュ、コップを掴んだ世界tツーダッシュ、それらが全て存在するってことになる」


 t軸に平行に並ぶ三本の線。そしてシオンはそれを改めて、t=tnの縦線で下から上に貫いた。


「だから、tからtダッシュ、tツーダッシュと世界を移動していけば、t=tnという時点に留まったまま、コップを持つという動きをこなすことができる。そのまま持ち上げたければ、同じ瞬間にコップを持ち上げている涼くんがいる世界に移動すればいいし、そして飲み込みたければ、ごくんって飲み込んでいる涼くんのいる世界に移動すればいい。これを繰り替えせば、実数時間、つまりtを元の場所からデルタ分も動かさないまま、行動をして、周囲を観測して、動き回ることができる」


 シオンはtとtダッシュの間、tツーダッシュの間に、さらに細かく縦線を引いていく。その分i軸が貫く線の数は多くなっていく。やがてそれは隙間を埋め尽くし、面のようになった。


「素粒子の数だけある並行世界。素粒子で構成された人間の肉体が、プランク長の単位だけズレているような、それくらいの差異しかないような並行世界。つまり、同じ時点における、ほぼ無数にあるといってもいいような並行世界の一つ一つを、アニメーションのように連続して読み込んで再生していくの。これが時間停止の仕組み。実数時間を動かさないまま、わたしたちだけが動くことが出来る理由」

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