第六話 クロノステイサー、あるいは契約


「なんてこった」

 涼はそうやって言うのがやっとだった。ガツンと頭をやられたような感覚だった。アカネも何か、二の句を継ごうとして言葉を詰まらせている様子だ。

 並行世界の発見、並行世界間の移動。その何れも世界の在り方を根本から動揺させる発見に他ならない筈であった。だがシオンはそれをあっさりと言ってのけたどころか、彼女にとってそれらは、時間停止という概念を理論化するための必要なコマの一つ――あるいは一枚に過ぎなかった。


 時間が止まっている中でどのようにして人々は動き、止まっている物体に作用を加えることが出来るのかという問い。それはアカネが提示した、時間停止という概念の根本的な課題であった。それをシオンは、鮮やかに解決してみせた。時間した時間とそれを観測する主観という概念は、虚数時間と等価であり、ひいては並行世界の垂直走査と等価な行為となる。そうしてシオンは、時間停止という問題を理論の世界にまで引っ張り出すことに成功したのだ。


「時間停止は、虚数時間を進めながら虚数世界を観測しているのだとも言えるし並行世界を連続的に読み込み続けているのだとも言える。虚数時間の観点、並行世界の観点、いずれの観点から見ても、この現象や行為、理論はひとつの同じ現象を、異なる観点から解釈しているだけってこと。それは波動力学と行列力学が数学的に等価なことや、エヴェレット解釈とコペンハーゲン解釈が等価なことと同じ。……あるいは言い換えると、この時間停止世界――あるいは虚数世界っていうのは、無数にある並行世界から、到達したい世界へと至るまでの道のりを視覚的に表したもの――GUIの役割を果たしているとも言える」

「GUI? アプリとかの話か、急に」

「うん。並行世界を移動するってなったとき、さっきのtとかtダッシュみたいに、それぞれの世界に番号が割り振られてて、それをダイアログボックスに打ち込んで移動、みたいなのって野暮ったいでしょ。そうじゃなくて、もっと視覚的、直感的に、どんな並行世界に移動するかを選ぶための手段。それがこの虚数世界というUIだと考えてもらえれば分かりやすいかなって。つまり、自分が今、手を挙げている世界、コップを握っている世界、銃弾を避けている世界、トラックに轢かれそうになっている猫を助ける世界、そういうような並行世界に、実際に自分で手と体を動かして移動してしまうってこと。それに、アプリっていうのは単なる比喩ってわけでもない」

 シオンは目元にかけられた彼女のVisoRをとんとんと叩いた。

「わたしはその理論や機能をAPI(アプリケーションプログラムインターフェイス)に纏めて、そしてVisoR向けのアプリに落とし込んだ。このアプリをインストールさえすれば、誰でも時間を止められるようになる」

「誰でも?」

 涼の背中に、ぞくりと冷たいものが走った。

 それは例えば、俺でも、だろうか。

 世界が危機に瀕しているという話をつい直前に聞いたばかりの筈だった。にもかかわらず、もはや涼の意識は目の前の、得体のしれない巨大な力にかかりきりとなってしまっていた。


「真空崩壊の発生を察知できたのも、この装置のおかげ。光の速度っていうか、そもそも速度なんてものは時間の進行が前提にある概念だから、時間が止まっちゃえば光速度の制約なんて関係なし。時間が止まった状態で五光年先まで宇宙遊泳して、真空崩壊にタッチして、また五光年泳いで地球に戻れば、はい観測、って感じ」

 そう言ってシオンはVisoRである映像をシェアしてくれた。漆黒の闇と、その中に散りばめられた白い輝き。宇宙空間だとすぐに分かった。

「これが実際に、ここから三六〇〇億キロメートル先で撮影した映像。ほら、近づいてきた」

 そうシオンが言うや否や、静謐な暗闇に満ちていた宇宙の一か所が突然光り輝き始めた。

「X線を画像加工したのがこの映像。真空崩壊によって放出されたエネルギーの僅かな部分が、こちら側の宇宙に漏れ出して、こうやってX線の光を放ってるの。肉眼じゃ見えないけどね。ちょうどこの光が、真空崩壊の境界面ってことになる。これが、発生源を中心に五光年分の広がりを既に持ってる」

「真空崩壊それ自体よりも、X線のほうが先に来るってこと?」

「一プランク秒程度の差だろうけどね」

 アカネは肩をすくめた。涼はその、破滅という概念の具体化そのもののような事象を指差し、

「この光の向こうは」

「さっきも言った通り。物質どころか、その根幹となる法則のレベルでズタズタに破壊されている。まあある意味この宇宙よりも安定した真空状態の宇宙になっているわけだから、もしかするとそっちの方があるべき姿なのかもしれないけど」

「……何もかも破壊しといて、それがあるべき姿なんてあってたまるか」

「そうだね。わたしも同感」

 本来であればあと二週間は知ることが出来なかった場所、光の速度でも二週間かけなければ到達できない場所、そこにたどり着くことが出来る。

「このことは、どれくらいの人が知ってるんだ」


 喉がカラカラになっている。そういえば、時間が止まっている間は喉も乾かないのだろうか。お腹も減らないのだろうか。牧歌的な問いが涼の脳裏をよぎった。

「真空崩壊のことは一部の関係者のみが知ってるんだろ。時間停止の力も、その層では共有されてる技術なのか?」

「技術を作り上げるに当たっては、多くの優秀なエンジニアや研究者の力が不可欠だった。だけれどもこれが時間を止めるシステムだということは、世界で知っているのはわたしだけ」

 シオンはあっけらかんと言い放った。

「お前だけ?」

「うん。で、二人には今教えたから、わたしと、涼くんと、お姉ちゃんだけ。研究チームのメンバーには、わたしが完成させたのは空間曲率航法だって説明してる。それによって距離を無視して探査機を送り込み、事前察知することに成功した、ってね」

「……秘密にするのは、賢明な判断でしょ」

 アカネは振り絞るようにそう言った。

「使いようによっては、全ての人類を一人一人確実に救うことも、殺すこともできる力なんだから」


 そこまで言われれば涼にだって想像がついた。シオンは「銃弾を避けることも、車に轢かれそうになっている猫を助けることもできる」と言った。そしてそれはそのまま、それらと正反対のことも可能であることを意味する。つまり当たらないはずだった銃弾を当たる位置に動かしたり、布団で眠る人間を高速道路のど真ん中に移したり、アメリカ大統領の寝室に忍び込んで核ミサイルの発射ボタンを盗んだりすることもできるのだ。


「だからわたしは、外界との接触を立って、秘密裏にこれを構築する必要があった」

 秘密裏。それはつまり、この十年間の音信不通のこともそうだった。シオンはその半生を費やして、このシステムを内密に構築することを企図し、そして成功したのだった。

「わたしはこの時間停止機構をこう呼んでる」

 シオンはさらさらと、アルファベットを空中に書き連ねていく。それはこのような文字列だった。 


『Chronostasisor』


「くろの……すていさー」

 おぼつかない涼の発音にシオンが笑った。

「惜しい、といっても造語だから正しい発音もなにもないけどさ……」

「読むなら、クロノステイサー」

 シオンとアカネの言葉に赤面する涼。

「けど……クロノステイサーのほうが語感がいいね。うん。クロノステイサーにしよう」

 しかし開発者は気が変わったのか、涼の誤読をそのまま採用することを宣言してしまった。

「で、どういう意味なんだ」

「アナログ時計を見ているとき、秒針がなんだか遅く見えるというか、一瞬止まって見える瞬間たまにない?」

「あるな」

「でしょ。まああれは単なる目の錯覚らしいんだけど、それを英語でクロノスタシスっていうんだって。クロノ、が時間で、スタシスが静止って意味。クロノスタシスを起こすものだから、クロノステイサー。シンプルでしょ。お姉ちゃんもカッコいいと思ってくれてるかな、SFっぽいし」

 喜色満面のシオンに、アカネはため息の後に、

「まあ少なくとも、時間停止装置とかよりは野暮ったくない」

 とぶっきらぼうに言った。


「クロノステイサーについては一旦これくらいとして、じゃあこれからどうするのか、って話もしたい」

 シオンの言葉に涼は、依然として自分がどうやら全く現実味のない世界の滅亡の危機に瀕していることを再認識させられた。

 しかし、この概ねポルノ漫画などにしか活用されないような装置が、一体何に使えるというのだろうか。涼は少し考えて、

「分かったぞ、この時間停止の場みたいなやつを、真空崩壊の周辺で発動すればいいってことか」

「うーん、あまり意味がないかな、それは」

「どうしてだよ?」

「だって、真空崩壊は一つとは限らない。もし今迫ってるものを止めたとしても、宇宙の他の場所でまた発生して、宇宙が滅ぶかもしれない。さっき言った人間原理の話の通り、ね」

「それは、そうかもしれないが。でも、滅茶苦茶小さな確率なんだろう」

「僅少だけど、ゼロじゃない。もしどうにかするんだとしたら、それは可能性をゼロにする手立てをもって対応するべきだと思うんだ」

 そこにアカネが割り込んできた。

「……あんた、SpherEスフィアの開発にも携わっていたんだよね」

 アカネは、サイオン・オシロの著名な功績に触れた。膨大なドローンネットワークによるリアルタイムの地表観測データと、SQCが提供する膨大な計算能力を以て実現された、現実世界をほぼ完全に再現したとされるメタバース。

「今世の中に公開されているのは、あくまで器としてのメタバース。この世界の単なるデジタルツインで、高精度な地図やVR観光の用途程度にしか使われていない」

 もっとも、それですら自動運転装置の飛躍的な進歩や、家に居ながらの世界旅行などを可能にして既存産業へ多大な影響を与えているが、と前置きしつつ、

「でもある噂だと、ScooLはそのメタバース内に生命を電子的に再現する実験も行っているという」

 アカネは「噂」と表現したが、彼女がそのようにいう場合は大抵しっかりとしたソースがあるのだった。

「あんたの狙いはそれ? つまり時間を稼いでいる間に人類を、メタバースの中に避難させる」

「それだけはないかな」

 シオンは即座に、にべもなくそれを否定してみせた。

「だって電子化したって、そのデータが入ってるサーバーも真空崩壊で飲まれちゃうんだよ。その方法で永遠を生きようなんていうのは、結局は詭弁でしか無い」

 とシオンは述べたが、そうなるといよいよ涼の頭では一体何が答えなのか分からなかった。

「……けど、それじゃあどうやって」

「すっごく簡単だよ。もう、今すぐにでもできる」

 再びシオンは時を止めた。そしてこの世界全てを指し示すように大きく両腕を広げて、高らかに宣言した。


「このまま、時間を止め続ければいいんだよ。永遠に。そしたら、次の瞬間に起きる真空崩壊も、ビッククランチも熱的死も、もう永遠に来ない。シンプルでしょ? 名付けて、クロノステイシス計画」

 シオンは、慈愛に満ちた聖母のように無垢に微笑んだ。


 今日何度目になるか分からない絶句。もはや安易に時が止まったかのような静寂、などと言える状況ではないのは分かっているが、その内容の突飛さを表す語彙を涼は他に持ち合わせていなかった。

「時間が止まった中で、生きていく?」

 どれだけそれが突飛なアイデアか。時間を止めて、動かす力は、時間が進む世界の中でことを有利に進めるための力としてよく用いられているであろう。あるいは、何か特定の災厄や病気の進行を封じたり、解決手段が出るまで凍結したり。

 だが彼女は、全宇宙の時間が止まっているこの状況そのものが解決策なのだと言うのだった。

「今の状態のまま、ずっと過ごしていくってことか?」

「そうそう、まさにそんな感じ」

「いつまで?」

「何時までも。だって、時間を進めたら終わりが来ちゃうから」

「俺たちだけで、か?」

 その問いに、シオンはアンニュイに微笑んでから、

「ううん、違うよ」

「違う? でも、こうして今、俺たち以外のみんな止まって動いていないじゃないか」

周囲にはいくつもの人影が見えるが、それら全てまるで人形のように微動だにしていないのに、何が違うというのだろうか。

「でも逆に、クロナイザーを起動したわたしだけじゃなくて、涼くんもお姉ちゃんも止まってるでしょ」

「……言われてみれば」

「三人で止められるのなら、十人、百人、八十八億人だって止められるよ。アプリがインストールされたVisoRさえ装着していれば」

「……なんてこった」

 そういうのが精一杯だった。それほどまでにシオンが語っている話は壮大だった。

 終わりが来てしまうのが嫌だから、終わりをなくす。つまりシオンはそう言っているのだ。

「根本的な解決策とは言えないでしょ、それ。真空崩壊がくる未来自体を変えるような試みにはなっていない」

「真空崩壊の解決策になっていないってのは、そうだね。けれど、目的は真空崩壊を止めることではないってことを忘れちゃだめだよ。より根本的に、そもそも実数時間が進行してしまうから全ての存在に終わりが来ちゃうってことを考えなきゃ。さっき行ったような宇宙のマクロな終わりも、事故や事件、病気みたいなミクロな終わりも、全てそれが原因。それで言えば、むしろ真に根本的な解決策こそ、時間を止めることになるんだとわたしは思うんだ」


 シオンはそれを、クラス委員は誰がやるかとか、文化祭の出し物はどうするか、くらいの問題に対してそこそこ機転の効いた解決策をだす、程度のテンションで話した。そのアンバランスさが涼の理解を苦しめた。


「時間を止めて封印するのは、真空崩壊じゃなく、あたしらだってこと?」

 アカネはそう皮肉を交え、

「あんたのいうような理屈に基づくんだとしたら。もう今すぐにでも、永久に時間を止めてこのままっていうのがベストってことになりそうだけど」

 棘を隠そうともせず続けて言った。

「そうはしないわけ?」

「それがベストだっていうのは、まさにその通りだよ」

 アカネの皮肉に、シオンは大真面目に頷いた。

「けど、準備が整ってない。根本的にまだ、全人類の時間を止めるだけの設備を用意できていないの。相当な量の計算機資源が必要になる」

「計算機資源って?」

「サーバーだよ。大急ぎで頑張って増強しなきゃいけない。それにわたしだって、何の混乱もなく平和にこの移住が進むとは思ってないしね。どうやって全人類に真空崩壊のことを伝えるか、時間停止世界の中での法倫理体型とか、政治、社会、経済のあり方とか、そういうのも決めないと」

「あと二週間で? 間に合うの?」

「間に合わせなきゃいけない」

シオンはキッパリと言い切った。

「なあ、この技術を知ってるのはお前だけって言ってたよな。じゃあその準備とかも全部お前一人で?」

「……それが問題で、ここからが相談」

 シオンはアカネを見て、

「お姉ちゃんさ、正直わたしのこの計画のこと、どう思ってる?」

「ろくでもない、得体のしれない技術に基づいた、現実から乖離した机上の空論」

「あはは、お姉ちゃんならやっぱそう言うよね」

「人類を、この気色悪い世界に移住させるって言ってんでしょ。賭けにも程がある」

「移住、か。確かにそうだね。賭け、とも言えるかもしれない。けどさ、実際にあと二週間でこの地球が丸ごと粉みじんになるって時に、これ以外の方法はあり得ないとわたしは思ってる。ほかのどんな物理的な手段――ロケットで真空崩壊の反対に飛んでくとか、そんなのは全くの無駄だし、兆に一成功したとしても限られた人しか救えない。

 それと比べたら、実際に時間を止めて見せてるだけ、わたしのやろうとしてることの方が賭ける価値がありそうとは思わない? もし合理的にやろうって言うなら、他の計画と比べて救済可能な人間の数の期待値を全部出してあげてもいい。わたしの案なら、八十八億だけどね」


 今度はアカネは否定も肯定もしなかった。シオンは涼を見据えた。

「それでも、少しでもこの計画の成功の可能性を上げたい。そのために二人に――青崎総合研究所に仕事をお願いしたい」

 そしてついに、本題が涼とアカネに提示された。

「協力ったって、何を」

「二つある。一つはコンサルティング。この計画の実施に対して、課題点の洗い出しとその解決策の模索をお願いしたい」

「……勘違いしてたら申し訳ないんだが。SFコンサルってそういうのに対応できるコンサルって意味じゃないぞ」

「じゃあどういうものなの?」

「……」

 それは涼が日頃から悩んでいる問いそのものであった。

「お願い。こんなこと普通の人たちにはお願いできなくて。だって、世界を救ったことがある経験なんてどこの会社も無いでしょ?」

 それは、未だ青臭い想像にとらわれている涼には、とても甘美な誘いに感じられた。結局、平均一般的な社会人の枠から外れて、当たるかどうかも分からない企業という道を選んで、本当に自分でも価値があるのか分からないようなプレゼン資料を作って日銭を稼いでいるのは、自分は他とは違うという中二病的自尊心があるからに他ならないのだ。俺は他とは違う。そんな思いをこれ以上ないほどに肯定してくれるシオンの言葉は、涼をこれ以上ないほどに揺さぶった。だって、マッキンゼーのエリートコンサルタントが、世界の滅亡について相談を受けて、まともに相手をしてくれるだろうか? こんな訳の分からない、無茶苦茶な話を聞いてやれるのは、俺だけなんじゃないか?


 だからといって、青崎総研にだって世界の滅亡について対応した経験があるわけでもないのだが。


「……もう一つは?」

「世界の保守をお願いしたい」

「世界中の右翼たちに挨拶周りをしろってことか?」

「ごめん、他にどう言えば良いのか分からなくて……つまりさっきも言った通り、真空崩壊の事実は直ぐに世界中に出回る。そうなれば世界は恐らく極度の混乱状態に陥ってしまう。二週間後にようやく全員を虚数世界に導けるとなった時点で、三億人の人類と核で焼け野原になった大地しか残っていない、みたいな事態は避けたい。そんなことが起こらないように、二人の目と手を貸してほしい」

 涼は頭を掻いた。シオンのその言葉は、依頼内容は、要約すると次のようになる。


 ”世界を守り、救え”。


「依頼に際しては、クロノステイサーの起動キーを二人に預けようと思ってる」

「正気?」

 アカネは語機強くそう問うた。

「自分が何を言っているのか分かってるの?」

「わたしは永遠に、正気で、理性的にありたいと思い続けているよ、お姉ちゃん――」

 二人の口喧嘩を脇に、涼は考えた。

 時間を止め、自由自在にその中を動き回れる力。それを創作の世界で使いこなすキャラクターを見る度に他人事のように思っていたことが有る。「何であんなことが出来るだろうに、しないのか」、と。

 そのときに考えた「出来ること」の範囲を考えれば、たしかに二週間程度世界が滅ばないようにするという程度のことは、その力を持って実現して余りある範囲のことに思えた。

「さっきアンタ自身が言ってたことじゃないの。そのシステムの存在が世に知れれば、それこそ真空崩壊の噂による混乱に匹敵するか、それ以上の混迷が社会に訪れる。それを、預けるなんて――」

「シオン」

 火を吐くように弁ずるアカネを遮って、涼はシオンの目を見た。

「一つ教えてくれ。なぜ俺たちなんだ。世界を守るんなら米軍にでも任せればいい。分析させるんなら大学教授なりScooLなり、俺たちよりもよっぽど実学に身を置く人間が居たはずだ。それを、なんだって俺たちなんだ」

「……後悔しない選択肢って、なんだろうな、って考えたんだ」

 ふっと肩の力を緩めるシオン。

「そしたら、二人の顔が出てきた。例え目の前に、ニュートンとアインシュタインとファインマンとフォンノイマンが居て、ノーだっていっても、二人がイエスっていったらイエスだし、それで絶対に後悔しないな、って思ったの。それに、ScooLにはアインシュタイン並みの人間は居なかった。なら、なおさらだな、って」

 彼女が話す計画や理屈のどこまでが正しいのか、涼には分からなかった。だが彼女に返事するためには、それの成否はまったく問題とはならなかった。ただ、シオンの気持ちが本物であるということさえ分かれば、それで十分だった。あの日シオンの手を握り、必死に自分たちがそこに確かに居ることを伝えようとしてみせた、その時から変わらぬ涼の思いだった。


 涼はアカネの目を見た。アカネは不機嫌そうに左腕に右手を伸ばし、じっと見つめ返してきた。だがやがて、ふっと目の力を弱めた。

「社長の決定なら、従うけど?」


 その日、ScooL Incと青崎総合研究所は業務委託契約を締結した。委託期間は二週間で、報酬は二〇三六年のScooLの営業利益、その約五〇パーセントと定められた。昨年の水準に照らすと、約五百二十三億ドルに相当する。


 主な業務内容は契約書の第二条に、このように記された。


  一. 世界の保守管理業務

  二.クロノステイシス計画に関するコンサルティング業務


 準委任契約の雛形となっていたそれを、涼はしばらく見つめた後、請負契約のそれに修正し、電子署名を押した。

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