第七話 崩れる世界、あるいは崩れる日常

二〇三六年六月三日 十一時二十七分九秒


 シオンが予想した通り、ScooLや連邦政府内で極秘とされていたはずの真空崩壊の観測結果はその日のうちに漏洩し、世界の秩序は急速に崩壊の兆候を示し始めていた。

 何よりもまず資本市場が最も敏感にそれをかぎ取った。一部の軍需系企業を除いて、世界中のあらゆる国や業種の株価は軒並み暴落し、余剰資金は安全資産と呼ばれるものに一斉移動した。金やプラチナの価格が史上最高値を付けたが、しかし果たしてその判断をした人々のどれだけが、真空崩壊では金原子すら消滅することを理解していたのかは怪しい。


「正直、まだ理解も追いついていないんだが」

 夜、再び青山総研の二人は高橋本部長と顔を合わせていた。場所は秋葉原のボロオフィス。

 応接セットに座る高橋本部長は日中に会ったときと同じスーツ姿だったが、しかし数時間と経たないうちに二十年は老化が進んでしまったのではないかというほどやつれ、焦燥していた。

「一体どこまでが真実なのか、君たちはオシロ氏から聞いているのか?」

 涼は口ごもった。シオンの言葉を信じてはいる。しかしそれが客観的な真実であるかどうかは、涼はわからなかった。

「……一体どんな話が、本部長の耳には?」

「これでも暁製作所は国といくつか仕事もやっていて、それなりに信頼が置けるパイプもある。その方面から来た話が、今ネット上で猛スピードで拡散されている怪情報と全く同じことを伝えてくる」

「それは?」

「つまり、この宇宙があと二週間で消え去るという話だよ」

 アカネがコーヒーをごくりと飲む音が、室内に響き渡る。

「そんな話が政府筋から来て、しかも根拠まであるという。一体これをどう解釈すればいいのか誰もかれもが考えあぐねているが、しかしそうしている間にも株価は下がり、混乱だけが徒に広がっている感がある」

 高橋本部長はソファーに大きくもたれかかる。くたびれた背もたれが僅かに凹み、軋んだ。

「真空崩壊。そんなものが本当に起きているんだとしたら。そんなもの、隕石衝突や破局噴火、異星人の侵略、そのいずれとも比べ物にならないような惨劇だ。……いや、それとも誰もそうと知ることなく意識がふっと消えるのならば、それはいずれよりも楽な終わり方なのかもしれないが」

「本部長は信じていらっしゃるんですか。その、噂話を」

 本部長は身を起こして、そして涼の目を見た。その鋭さに涼は背筋をピンと伸ばした。

「……君たちはオシロ氏から、そのことについて何かを聞いたんじゃないのか?」

「大変申し訳ございませんが」

 アカネは断固たる口調で、

「我々に話せることはございません」

「NDA(秘密保持契約)を結んでいると言いたいんだろう? しかし、仮に世界が滅ぶのだとして、そしてそれを真面目に受け取っているのだとして、そんなものを守る必要があるかね?」

「……いくら高橋さんと言えども、しかし、話せないこともあるのです」

 涼はなんとか、そう言うので精いっぱいだった。

 張り詰めた緊張感。

 しかし、それは他ならぬ高橋本部長が微笑むことで緩んだ。

「……すまない、試すようなことをして。君たちのその様子を見るに、少なくとも、単に世界が滅びる、ということだけを聞かされたわけではなさそうだ」

「世界が滅びる話を信じたうえで、更に、俺たちのことまで信じるってわけですか」

 そう言った後に涼は慌てて、「いや、皮肉じゃないですよ」と付け加えた。

「だって俺たちが、一体なんだって言うんですか」

「それは、私もよくわかってないさ」

 高橋本部長は目を細めた。

「けれども。この訳の分からない状況の中で、少なくとも君たち二人だけはもう、何か覚悟を固めているように見える。それがただ、頼もしいのさ」


二〇三六年六月三日 十一時三十九分二十九秒


 各国政府は当然、真空崩壊を根も葉もない噂と断じて動乱の鎮圧に走ったが、SNS上での噂の拡散と、個人経営店の臨時休業が相次ぐことで市民生活そのものに混乱の影響が出始める。そうなればいよいよ混乱は社会の隅々まで行き届いていく。

 報道はひっきりなしに信憑性のない噂と過度な自粛に対する批判キャンペーンを張ったが、いつニュースを見てもそれについて報じられている状況は寧ろ逆効果を招いた。既に無人となった店舗への強盗事件が、世界の各地で発生し始めていた。


 そしてそれがひたすら悪化していくのを座して見守るという選択肢を二人は取らなかった。その直後に報じられた最初の大きなニュース――インディアナ航空三〇三便が、過激派崩壊論者によってハイジャックされたという事件の情報を得た瞬間、二人はクロノステイサーを躊躇なく起動した。


「……こうやって、無限に仕事の締切を延長できるんだったら、あたしとしても是非重宝させてもらいたいもんだけど」

「残念だったな、この状況下じゃPCは使えん。プレゼン資料は作れないぞ」

 そう言いながらカップを傾けて、そして涼は眉を顰めた。コーヒーの水面はカップの底と平行に傾き、そして微動だにしなかった。

「この調子で物事が進んでいくと、どんなことが起きると思う?」

 通信、放送、あらゆる媒体や空間で真空崩壊への恐怖が語られている状況を概観して、アカネはこめかみを叩いた。

「暴動、略奪、暴行、戦争。二週間もあれば十分に億単位の人死にを出すんじゃない」

「おおよそ、隕石衝突が宣告された状況と同じような顛末を迎えるだろうな。パニックに陥る世界の中で、僅かな人たちが静謐かつ厳粛に終りを迎えるんだろう……だが、それらは全て、受容する必要がないものだ」

「真空崩壊なら痛みすら感じないから?」

「違う。クロノステイサーがあるから世界は滅びない。だから一番手っ取り早い解決策は、クロノステイサーの存在を広く知らしめることだ。……だけどそれはできない」


 時間停止により真空崩壊を止めるというロジックは、当然時間停止システムの存在を肯定しなければ成立しない。だがそれを公にすることはシオンやアカネが指摘したように大きなリスクを生ずる。最大のリスクは、シオンの準備作業が妨害を受ける可能性だった。世界は一枚岩ではなく、誤った善意によってか明確な悪意によって、シオン達の行動を阻もうとしてくる存在が必ずいる。そうした存在から計画の進行を守るためには、計画自体を秘匿するという根本療法を取るのが最善だった。

「真空崩壊は起きないという既存のカバーストーリーが説得力を失った今、新たなカバーストーリーを普及させるのが一つの手だと思うけど。架空の対策を拵えて、それの存在を世に知らしめる。隕石のときだって、アメリカと中国の連合軍が核ミサイルを打ったりするでしょ」

「で、失敗するやつな」

「縁起でもないこと言うなっつの」

 涼は脚を組み直した。

「……まあ、それはやろう。ScooL経由で情報を幾つかのレイヤーで情報を流すほかない。まず、そもそも真空崩壊を事前に察知することは不可能なはずなので、この観測データ自体存在し得ないということ」

 クロノステイサーの存在を隠すわけなので、当然事前察知の方法はこの世界にまだ存在しないことになる。リーク情報に対しては最も効果的な反論になることが期待される。

「あとは、有形無形の対策案だな。太陽系ごと真空崩壊の波よりも速いスピードで動かすとか、それこそアカネが提案していた江戸の火消し対策だとか、そういうのをばら撒きまくる」

「ばら撒き過ぎるのはどうかと思うけど。逆に信憑性がなくなる」

「確かに……じゃあ、選別するか」

 当然、その普及に際しては彼ら二人がチマチマとSNS上で活動する、というようなことにはならない。基本的にはシオンが手配したScooLの対策チームが青崎総研の指揮下に入り、その指示通りに様々な工作活動の準備をする、ということになっていた。ScooLの上層部などは、シオンが用意したという名目のそのチームが世界の滅亡を防ぐための方策を立ててくれていると信じなんとか平静を保っているらしいが、そこで為されることが秋葉原にある築五〇年のボロ屋からの指示であることを知った日には正気を失うに違いない。

「……それにしても、なんていうか」

「なんだ?」

「あんだけ陰謀論だ、プロパガンダだ、情報操作なんて、とか言っておきながら。あたしたちがやろうとしてる事ってそれそのものじゃん、って思って」

 涼は天を仰いだ。その天井はいつものようにタバコのヤニが染み付いて黄色かった。

「……残念ながら、もしそういう連中が他に本当にいたとしても、俺たちとは決定的に違う点がある」

 アカネが視線を向けるのを待って、涼は重々しく口を開いた。

「そいつらは沢山の手駒を動かして、自分たちは密室で悠々と待っていれば良いだろうが、俺達は自分の足を動かして、こなさなきゃいけないってとこだ」

 そう言って、インディアナ航空三〇三便の航路が映し出されたモニターを指差した。

「動きやすい格好に着替えたほうが良いぞ。長旅になる」


 黒いスポーツブランドのジャージに身を包むと、いよいよ織戸アカネは地方のヤンキーと区別が付かなくなる。黒いキャップを深めに被っているのを見て、

「多分熱中症の心配はしなくていいと思うんだがな」

 と涼は言ったが、不機嫌そうなアカネは何も言い返さなかった。


 無音となった秋葉原の街を歩いていく。平日だというにも関わらず買い物客で比較的賑わう町並みは、普通に歩き抜けるよりも大層通りにくい。実数世界ではすれ違う人は互いに避けようと動いてくれるが、虚数世界においては人という人全てが無秩序に配置された不動の障害物となって、その合間をジグザグに縫って歩くことを強制されるからだ。


「……お、おい」

 道すがら、涼が足を止める。アカネが涼の視線を追いかけると、そこは交差点だった。歩行者用信号は赤にも関わらず、VisoRを操作している歩行者は、おそらくビデオノイズキャンセリングをしているのだろう、横断歩道に堂々と踏み出していた。そしてそこに自動運転車両が残り三十センチメートルというところまで迫っていた。幾何学的で、外見上前後の区別もないような見た目のその車両が、無機質に命を押しつぶそうとしているその瞬間だった。ながら見、余所見は、自動運転車同士の事故が激減した現在でも対人事故が消えない理由の一つだった。

「どうするつもり?」

「どうするって、そりゃ助ける」

「どうやって?」

「そんなの、歩行者を移動させればいいだろ。ほら、こうやって」

 そういって涼は、間抜けな顔をして固まっている哀れな歩行者をひょいと持ち上げた。力を入れる必要が確かにあるのに、なんの重みも感じずに動かせるのが極めて奇妙な感覚であった。

「その後のこと、考えてる? 周囲の人の目から見たら、突然その人が瞬間移動したように見えるけど」

 涼は無言で歩行者を元の位置に戻した。

「じゃあどうする?」

「トラック側を、無理矢理にでも変える。それなら多少の挙動異常は見逃してくれるでしょ」

 そういってアカネは、電車のボックスシートをひっくり返すような要領でトラックの前後をくるりと入れ替えた。

「……このトラックの場合は違和感が少ないかもしれないが、もし向きが変わったことがすぐに分かるような形だったらどうしたらいい」

「シオン力学における反作用の法則を使えばいい。このトラックに何度か張り手でもして、加速度を蓄積して、時間を進めた瞬間に速度がゼロになるよう調整すればいい」


 シオン力学とは、クロノステイサーの利用にあたってシオンが取りまとめた、虚数世界と実数世界におけるマクロな力学の振る舞いの経験則を指す。シオン曰くそれをより純粋で本質的な理論体系に落とし込むことも彼女の数ある野望の一つらしいが、今は実用性重視であるべきというのが三人の間で共通の理解だった。実数世界のそれに習い三つの法則が整理されている。


 第一に、物体は外部から力を与えられない限り、静止しているものは静止し続ける。慣性の法則のようだが、等速直線運動については存在しないため言及されない。


 第二に、物体の運動距離は、与えられた力の大きさに正比例する。つまり手で力を与えた分だけ、ものは動く。


 第三に、物体の加速度は、与えられた力の大きさに正比例する。手で力を加えると、その力は物体の加速度を増やす。


 第二と第三の法則は一見すると両立しないように見えるが、この虚数世界では両立する。与えた力がどちらのように働くかは、主観が決定する。並行世界側面から解釈することで、この選択の原理が成立する。


「まったく、今どきの小学校では教わらないのか? 横断歩道を進む前は、右、左、右。常識だろうが」

 普段自分がそんなことをしていないのを棚に上げて、涼はそう憤った。

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