第八話 減速、あるいはスーパーマン
東京の都心部を抜けると随分と歩きやすくなり、進むペースは上がった。最も時間はその間一秒たりとも進んでおらず、速度に直せば無限大のペースであることには変わり無かった。そのため秋葉原から成田空港まで徒歩で歩くという大偉業を成し遂げたところで、肉体的な疲労の色は二人には全く無かった。きっとこの調子でアメリカや南極に行くことも不可能ではないだろう、涼はそう思った。
他方で精神的な労苦は、長時間頭脳労働が当たり前のはずの二人にしても尋常ではないものがあった。
「おおよそ、人間が行ってよい行為には思えないんだけど」
空港の滑走路で大の字になるアカネ。涼も尻を地面につけながら、離陸途中で前輪だけが浮いている状態で固まっているジェット機を見やる。
「……シオンは、これをアメリカから日本までだとか、地球から三六〇〇億キロメートル先までだとかで行ったわけだ」
涼は額を手で拭いながらぼやいた。当然、汗は一つも流れていない。
「ぶっとんでるよ、やっぱりあいつは」
しかし、ここは終着点ではない。インディアナ航空機はここから更に三二〇キロメートル東北東に進んだ太平洋沖の海上に居る。しかもそれは地図上での距離だ。実際機体は上空三万九千フィート、約一二キロメートルに今位置している。当然である、空を飛んでいるのだから。
しかし、それに対して無策で望んだ二人ではなかった。
「おい、見えて来たぞ」
二人が銚子市犬吠埼に到達すると、そこに目的の構造が出来上がっているのが見えた。
それは、巨大な階段だった。岬の端から始まり、緩やかに登っていくそれが遠くの空までひたすら伸びている。おびただしい数のドローンがそれを形作っていた。
「これは、すげえ」
涼は嘆息した。
この時間停止の実施の直前、シオンに連絡してScooLのHorneTドローン七〇〇万機を緊急措置として徴用し、太平洋沖に階段状のフォーメーションを形成させたのだ。ドローンによる三〇〇キロメートル以上にわたる巨大なドローンの階段が、二人をインディアナ航空機へと誘ってくれていた。
「思い付きで言ってみたにしては、中々うまく出来ているもんだ。これなら空だって移動できる」
呑気な涼とは対照的に、いよいよ織戸アカネの精神は常軌を逸したところに達しようとしていた。
「普通に嫌なんだけど、今からこれ登るの」
「今とかないぞ、時間は止まってるんだから」
アカネはこれ以上ないというほどはっきりと舌打ちをした。
「これのどこがSFコンサルティングなの。こんな肉体労働と保守対応、これじゃあSFシステムエンジニアリングでしょ」
「……際どい発言すんな。面倒でも着いてきてもらうぞ」
そう言って涼は屈み込んで、寝転がっているアカネの背中と地面の間に腕を差し入れるとそのままひょいと持ち上げた。
「うわっ、はっ!? ねえ何すんのいきなり!」
「動こうとしないんならこうするしかないだろ」
そう言って涼は階段に足を掛けた。アカネは最初は「モノ扱いするな」と抵抗する素振りを見せていたが、やがてそれが極めて楽なことに気づいたのか、何も言わなくなった。
雲も問題なく通り抜けることが出来るという発見を得ながら、やがてボーイング社製の巨大な機体が見えてきた。
「テロについての緊急アラートを出すのと同時に、非常口の電子ロックも解除されているところまではScooLからの情報提供で分かってる。でも、普通は飛行中の機体のドアは開けられないはず」
「そりゃなんで」
「気圧差。飛行機のドアは一回内側に押し込まないと開かないけれども、与圧された機体内と高高度の低気圧下だと、内側に押し込むためにはものすごい気圧差を上回る必要がある」
「しかし、なあ」
涼はドアに書かれた英語の警告文を読みながら、ハンドルを引いた。
「それを言ったら時間停止中に物を動かすなんてことはできないはずだしな」
涼が押し込むと非常ドアはなんの抵抗もなくするりと動き、そして説明書きの通りに引っ張れば、ぱかりと手前側に開いた。
機内に乗り込むと、自動小銃を構えた人間が何人か通路に陣取り、客たちが一様に姿勢を低くしながら怯えている光景が広がっていた。
「で、今度はどうするつもり。こいつらをその窓から突き落とす?」
涼は、鋭い眼光を周囲に向ける銃の引き金に指をかけている、いかにもといった様子の男の一人をみやりながら、
「こういう場合、見た目でこいつがテロリストだろ、って決めつけてしまったら、容姿で差別したとか言われちまうのかな」
アカネはポケットから折りたたまれた資料を取り出した。
「これもScooLからの提供。この中で偽造パスポートを使ってるやつのリスト。ここに書いてある連中がテロリストだと断定して差し支えないでしょ」
そうとなれば話は速かった。二人はそこに座る全員の客のポケットやカバンを漁り、パスポートを検めた。すると立っているいかにもな連中は全員リストに載っていることが確かめられたが、座っている客と見ていた人々の中にも対象者が居るのを見つけて、涼は肝を冷やした。
「見た目じゃ分からないもんだな、ホント人っていうのは」
あらかたのかたが付き、テロリストは全員文字通りお縄となった。
「で、テロリストを突き落とすわけにも行かないとなると……逆に乗客たちを近くの陸に下ろせばいいか。……つって、多分銚子になるんだろうけど」
一体何往復すれば良いのか考えるだけでも気が遠くなる作業だったが、それでも確実に全員を救えるだろうと涼は考えたのだが、アカネは首を横に振る。
「ここに居る乗客は、みんな飛行機と同じ時速八〇〇キロメートルで運動してる。その慣性を持ったままに地上におろしたら、全員亜音速で東の方向に吹っ飛んでいくことになる。まあ、即死する」
「……体の血が巡ってなくとも、背筋は寒くなるもんだ」
また新たな発見をする涼だったが、全く嬉しくはなかった。車の事故一つの外観的な妥当性に気を使っていたアカネも、ここに至ってはいきなりテロリスト全員が緊縛されるような状況に対しても「もう正義のスーパーヒーローが突然現れたってことにしてもらえば良いっしょ」と投げやりになっていた。
「というか、テロリストを全員捕まえたんだったら、もうそれで事件は解決か。あとはそのまま時間を動かして、パイロットに近くの空港にでも緊急着陸をしてもらえばいい」
「……そうは行かないっぽい」
涼はアカネに連れられ、コクピットに入り、そして閉口した。そこには胸元が真っ赤に染まったパイロットが二人、捕縛されて座らされていた。
「死んでるのか」
「分からない」
涼の声に負けず劣らず、アカネの声もまた震えていた。
涼は意を決して、二人の顔の様子を伺ってみる。顔は汗ばみ、苦悶の様子がありありと表情に浮かんでいる。だがそれが生の苦しみか死の苦しみなのか、時間が止まっている状況では判然としなかった。
「……この二人は、病院に連れて行こう。非常口から下ろすんだ」
「待って、下ろすにしても加速度の問題がある」
「同じかそれに近い速度で移動する機体を、ScooLに手配してもらおう。病院に離着陸出来るものがいい。米軍なら10分以内に用意出来るはずだ」
「乗客の中から医者を探してもらったほうが良いんじゃないの。パイロットが居なくなるのはどうするつもり」
「より確実に命を救う方法があるのに、面倒ってだけでそれを取らないわけには行かないだろ」
「パイロットが居なかったら、乗客たちの命が危険になる」
自動車では広く自動運転が認められているのに対して、航空機の運行は今となっても、最後の離着陸の瞬間のみは手動であることが求められている。技術的にはおそらく可能なのだろうが、もし事故が起きた場合の被害規模が自動車のそれと比べ大きいことや、緊急時の柔軟な対応の必要性が陸上のそれよりも高いことがその背景にある。ここから成田に引き返すまではオートパイロットでなんとかなるだろうが、しかし着陸は至難の業だ。
「それとも、目隠ししたパイロットでも用意してもらって、入れ替わりでここに乗せるとか」
「その体を今度は時速八〇〇キロまで加速させないと、乗せたところで大惨事だろう」
そこに至って涼は、ある覚悟を決めた。それは、最も確実だが緩慢で、負荷のかかる作業を行う覚悟だった。
「シオン力学の反作用則を使うぞ」
「急減速なんてしたら、それこそその時も物凄い衝撃が――」
「ああ。だから急減速はしない。少しずつ、まるでパイロットが操縦しているかのような丁寧さで、この飛行機を少しずつ時間を進めながら、動かし、減速させていく」
アカネは耳を疑った。
「正気?」
それはつまり、この飛行機の加速度を毎秒、あるいは毎ミリ秒、もしくはそれよりも細かいスパンで変化させていくということを言っているのだ。僅かな力を加えて、時間を動かし、すぐに止め、また僅かな力を加える、という作業を繰返えすことを意味する。ちょうどそれは、粘土やフィギュアを少しずつ動かした様子を写真に取り、それを連続して再生することで作るストップモーションアニメの要領であった。涼は、それを現実世界の物体で行おうというのだ。
「どんなに荒くても、何千、何万回と時間を止めては、加速度を与える必要が出てくる。そんな過酷な、死後の地獄みたいな苦行をこなす気なの?」
「……俺が通ってた大学にあるサークルがあった。二年くらいそこで活動してたこともあるんだが、そのサークルは埼玉にあるサテライトキャンパスを、新宿にあるメインキャンパスに近づけるために校舎を毎日東京方面に向かって押し続ける、っていう活動をしていた」
「……」
「俺はそのサークルで最高記録を持っている」
涼は力こぶを作ってみせた。
「……わかった、わかった。あんたの精神力と体力は、この際やるっていうならどうだっていい。でももう一点、その方法だと、どうやっても実数時間はある程度経過させなきゃいけなくなる」
「それは……仕方ない。三〇分で無理やり終わらせる。あまり長いと、他のろくでもないことも同時に起きてきたとなったときに対応しきれないからな」
パイロットをおんぶで背負いながら非常口に出て、地上へと至るドローン階段を見て、そして機体を見て、ふと涼は足を止めた。
当たり前のように自分は他の物体を動かしたり、止めたりしているが、それは自分の体についてはどうなるのだろう。
そう思いながら、ドロ―ンの無い中空に足を踏み出して、そして自分の足をその位置に止めようとした。
すると、そのようになった。
「ちょっと、かってにズンズン行かないで……」
もうひとりのパイロットを背負ってきたアカネは、空中で静止している涼をみて硬直した。涼は「はっ」と小さく笑い飛ばすような声を上げた。
「……考えてみれば道理か。動かすと決めたものは動かせ、止めると決めたものは決める。だから自分の体だって、任意の座標空間に置ける。シオンがどうやって宇宙に行ったのかを、最初に聞いておくべきだったな」
そう言いながら、涼は機体に対して一発、二発、三発、蹴りを入れた。銚子へ向かうために加える、最初の加速度だった。
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